なまえ: 木野井 猛 (きのい たけし)

うまれ: 1949年7月10日 (丑年/かに座)

たかさ: 169.8cm

おもさ: 現在68kg (55〜75kg まで変動する)

たいぷ: A型 (RH+)

 昭和24年、新潟市に生れる。

 物心ついた時には母はおらず、小学4年の時に父を亡くす。
 祖父が開業医だったおかげで生活には困らず、「木野井様のおぼっちゃま」と呼ばれて育つ。
 肥満体で坊主頭に半ズボン、冬でも黒タイツという、今見たら後ろから蹴飛ばしてやりたい格好だった。

 小中学校の頃NHKの放送劇団に所属し、発声と度胸を育てる。
 小学校では児童会長、中学校では生徒会長、人前で話す事に快感を覚える。

 高校では身体をつくる為にボート部へ入る。
 今は甲子園で有名になった「新潟明訓高等学校」、当時はグラウンドがなかった。
 3年の夏、音楽に目覚め、無性にギターが欲しくなる。

 「絶対に無理」と言われながらも東京外語大学を受験、案の定「失敗」。
 浪人生活の間、天気が良ければ海岸、雨の日は部屋で毎日歌っていた。
 時はベトナム戦争真っ盛り、米軍淵野辺補給廠で2ヶ月ほど戦車の解体アルバイトをする。最前線から直送されて来る鉄屑に「戦時」を実感する。
 翌年、東京へ出る。
 慶応義塾外国語学校(各種学校)に入学、スペイン語を学び始める。

 モデルガンの老舗、「MGC」でアルバイト。
 勉学よりも音楽とモデルガン三昧の日々となる。
 新宿西口のフォークゲリラには参加せず、東口で一人で歌った。
 人と群れることは苦手だった。

 当時、数少なかった「ベースを持っている」という理由でバンドに誘われ、ついに学校をやめて職業にしてしまう。
 とにかく、ベースの音と歌うことが好きだった。

 バンドはいわゆる「ハコバン」と呼ばれるもので、主に渋谷、新宿、六本木、横浜が仕事場だった。
 地方へも行った。業界用語では「ビーター」。
 東はひたち、西は広島、まだ大阪までしか新幹線がなかった。広島ではデビュー前の西城秀樹と海で遊んだ。

 27の歳、国家公務員に転職、 もうひとつの趣味?、「作ること」を職業にする。
 以来、技術屋として表街道をあるいている。

 現在、国立療養所「栗生楽泉園」義肢装具士。
 趣味として、ロック・ギタートリオ「Fuzzy company」、弾き語りは一人で活動している。

 2000年からミャンマー連邦で行われていた「ハンセン病対策・基礎保健サービスプロジェクト」に2002年より参加。プロジェクト終了後もフォローアップを続けている。
 2008年2月の渡航で9回目。通算すると1年半以上をミャンマーで過ごした。
 主な活動は、ハンセン病の後遺症で神経麻痺を起こした人達の足底を保護するサンダルの開発と普及。輸入品の使用が困難な国柄を考え、国内で調達可能な材料のみで安価に製作できる履物を開発した。
 現在までに13の地域で現地の技術者が製作にあたっている。


 本当の自分は誰にも見せなかったが、歳とともに押さえがきかなくなってきている。
 人間、生まれてくる事には何の意味もないが、生きていかなければならないのは運命(さだめ)だと、無駄にあがく事はしない。
 ただ「気持ち良く死ぬ」事だけが人生の目的と思っている。
 その為だろうが、限られた人生を充分に楽しんでいる。
 「死に場所」と「死に方」にだけはこだわっているのかもしれない。

 (合掌)