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Inside Farming Vol.157


特許との出会い〜ノスタルジ〜


米国において、特許制度が産業政策の賜であることを示した例として、カーマーカー法の特許(1988年)があります。線形計画法の解法(有限資源最適割当て法)に関する特許です。80年バイドール法制定、82年連邦巡回控訴裁判所(CAFC)設立、85年ヤングリポートというアメリカのプロパテント政策の一連の流れの中から権利化された特許だと、私は認識しています。
この頃既に、米国の汎用機メーカは、日本の汎用機メーカに対して知的財産権を行使する知財戦略を始めていましたので、その分野にいた者は、数学の解法までも特許にした米国のプロパテント政策に驚き、そして猛烈な脅威を感じたのでした。

これは、もう17年も前の話です。でも、当時私は経済産業系の雑誌の技術記者をしていましたのでリアルに覚えています。名刺を探しても見当たらないので証明できませんが、88年前後にカーマーカー氏がもし来日していれば、ご本人を取材をしていると思います(少なくとも来日したAT&Tの技術関係者に先輩記者と2人で取材をしたのを覚えています)。まだ駆け出しの記者の私にはその事件の重みを正確に判断できなかったと思いますが、米国の産業政策と特許制度とが密接な関係にあることを強く意識したと思います。これが私と特許との出会いです(というと、ちょっとドラマティックすぎますか)。

当時は、米国メーカによる権利行使戦略もかなり強力だったと思います。その中には、潜行させておいた特許権を突如として行使して大打撃を与えるような戦略もありまして、それを「豚は太らしてから食え、と言うからなあ」と評した先輩記者の言葉が忘れられません。例えは悪いのですが、それほど強烈な印象を受けたのでした。

この経験から、国産メーカでは、知的財産部を本部中枢組織に組み入れたり、CEOが直接統括できる系統に入れる、などの組織変更が活発に行なわれたと記憶します。組織的にも知的財産部門の重要性にスポットが当たった頃だった、と思います。


古い話ですね。でも、米国におけるプロパテント政策の流れを日本のプロパテント政策に重ね合わせて見る方も多いと思いますので、ちょっとノスタルジックな想いを込めて書いてみました。米国のヤングレポート(1985年)から日本の知的財産戦略大綱の策定(2002年)までに17年という時を経ていますので、日本が米国の軌跡をそのまま踏襲するとは思われませんが、特許業界が大きな変化の中にあることは確かだと思います。その変化を、今度はまた異なった視点から見れると思うと大変に楽しみです。気が付けば、案外あの頃と近い場所に戻ってきたのかも知れません。(2006/2/10)





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