コンプトン散乱もカウントに含めた計測法 (2012/05/30)


 食品の放射性Cs汚染を調べようとすると同じアルカリ金属の放射性Kと識別する必要が出てくる。しかし体積が小さなシンチレータはK(1.46MeV)に対して感度が低く、食品に含まれる微量のKが発する光電ピークを定量するのに膨大な時間がかかってしまう。こうした困難を回避できる巧妙な計測法が以下に紹介されている。

 牧野淳一郎氏のページ、http://jun-makino.sakura.ne.jp/articles/811/note006.html

 この方法は光電ピーク(全エネルギーピーク)だけでなくコンプトンエッジ以下にほぼ一様に分布するコンプトン散乱も足し合わせてカウント値を稼ぎ、検出感度を向上させるものである。実際問題として食品検査で対象となる核種はCsとKに限られるだろうから、それぞれのスペクトル形状をあらかじめ把握しておけばCsとKの寄与を比較的簡単に分離できることが示されている。この計測法の適用例はすでに「BGOシンチレータ(2) ---K40による感度校正--- (2012/03/28)」「煎茶(乾燥茶葉)の放射能測定 (2012/03/29)」で述べたとおりである。

 一方、Cs(0.605MeV,0.662MeV,0.796MeV)に対しては小さなシンチレータでも感度よく測定できるので、光電ピークをかさ上げしている部分をバックグラウンドとして切り離すことによりKのコンプトン散乱成分を除外することも可能である。(ピークのふもとを直線で結んでバックグラウンドとして差し引く操作であり、これを簡易コベル法というらしい。) Csだけを定量したいのならこれで十分であるが、やはり相手が食品の場合にはたいてい含まれているKも同時に測って測定値の妥当性を検証したいものである。

 

シンチレータ特性の計算

 下図はCsI結晶のγ線質量吸収係数である。これをもとに厚さ1cmのCsI板に垂直入射するγ線の捕獲率を計算してみる。

γ線捕獲率は、質量吸収計数をμ、CsIの密度をρ(=4.51)、CsIの厚さをdとすると、 1 - Exp(-μ*ρ*d) で与えられる。これは散乱されたγ線がCsIの外に逃げてしまうことを前提にした計算であり、大きなシンチレータで起こりうる多重散乱は考慮していない。小さなシンチレータの特性をおおざっぱに見積もるための計算と考えればいい。計算結果を以下に示す。

 「捕獲率」で示したのはγ線が厚さ1cmのCsIを通過する際に何らかの形でCsIと相互作用を持つ確率である。主な相互作用は光電吸収、コンプトン散乱、電子対生成の3つであり、それぞれについて発生確率をグラフにしてみた。一例としてCs137:0.662MeVとK40:1.46MeVのエネルギーにおけるγ線捕獲率を比較してみる。

  0.662 MeV 1.46 MeV
全捕獲率 0.285 0.189
光電吸収 0.041 0.009
コンプトン散乱 0.244 0.177
電子対生成 0 0.003

 まず、全捕獲率を比較すると0.662MeVでは1.46MeVの約1.5倍の感度比があることがわかる。これはガイガーモードでのカウント率のエネルギー依存性を示している。実際のシンチレータでは斜め入射成分もあり実効的な厚さはもっと大きくなるので感度差はより小さくなっていると思われる。一方、全エネルギー吸収ピーク(光電吸収+電子対生成)の強度を比較する場合には同じ数のγ線入射に対して0.662MeVでは0.041、1.46MeVでは0.012(=0.009+0.003)であるから、感度比は約3.4倍と大きくなる。

 次に全エネルギー吸収ピークとコンプトン散乱の強度(カウント数の比率)を比較してみる。0.662MeVでは0.041:0.244=約 1:6、1.46MeVでは0.012:0.177=約 1:15である。ピークカウントだけで見ている限り、本来の検出能力の1割くらいしか活用していないことになる。これはもったいない、ということで出てきたのが牧野氏が提唱する計測法ということある。

 コンプトン散乱の全域をカバーすることは難しい。その理由は、低エネルギー域にはコンプトン散乱以外に0.2Mevあたりを中心として後方散乱ピークがあり、また0.1MeV前後には特性X線ピークが現れる。これらはサンプルの設置条件などにより強度が大きく変化するので定量性を大きく損なう事になる。なので、これらの影響をなるべく避けるために牧野氏の解析法ではコンプトン散乱の計測エネルギー域を0.3MeV以上にしている。このあたりを氏のブログではあまり詳しく解説されてないが、結構重要なポイントだと思うので、以下、コンプトン散乱のカウント数と計測エネルギー域(測定エネルギーのしきい値)の関係について検討してみる。

 

コンプトン散乱電子のエネルギースペクトル

 ハンダごてを鉛筆に持替えて簡単な計算をやってみた。

 入射γ線のエネルギーをEp、」コンプトン散乱により角度θ方向に散乱されたγ線のエネルギーをEp'とすると、

    −−− (1)

 ここでαは 

    −−− (2)

で定義される。

 微分散乱断面積はクライン-仁科の公式で与えられる。

    −−− (3)

 この式は別の表現では下式となる。(3)式に(1)式を代入してみれば下式と(3)式が同じであることを確認できる。

    −−− (4)

 (4)式よりも(3)式のほうがすっきりしていて、表計算するには都合がよさそうである。

 エネルギースペクトルを計算するには、dσ/dΩをdσ/dEの形に変換すればよい。

 コンプトン電子のエネルギーをEとして

    −−− (5) 

 エネルギー微分断面積は

     −−− (6) 

一方、

    −−− (7)

また、(1)式の関係から

    −−− (8)

であるので、(6)式に(7)、(8)式を代入すれば

    −−− (9)

となる。(3)式と同じ表現をとるなら以下のように表せる。

    −−− (10)

 ここで、右辺にあるsin2θは(1)式を変形して以下のようにエネルギーの関数で表される。

     −−− (11)

 

 

 (9)式または(10)式を使い、それぞれの入射γ線エネルギーについてスペクトルを描くと下のグラフのようになる。本や文献に載っているおなじみのエネルギー分布である。

 

 計算上は鋭いコンプトンエッジが見えているが実際は検出器のエネルギー分解能で畳み込まれるのでこんなシャープなエッジにはならず、ほとんど平坦なスペクトルになる。この計算を始めた目的はコンプトン散乱カウント値の累積曲線(エネルギー積分曲線)の形がどうなっているかを確認することなので、早速、Cs137:0.662MeVとK40:1.46MeVとについて調べてみた。エネルギー・ゼロからの累積曲線を下図に示す。コンプトンエッジで累積値が1になるよう規格化してある。コンプトンエッジ近傍を除けばほとんど直線といってよい形である。

 

 カウント対象のエネルギー域を0.3MeV以上とすると、それ以下のエネルギーのコンプトン電子はカウントされないことになる。上のグラフから、Cs137の場合、全コンプトン電子の約4割のみを拾っていることになる。また、K40ではおよそ8割を拾えることがわかる。

 これらの結果を使って、計測法の違いによる検出感度の大小を比較してみた。以下は、同じベクレル値のCs137とK40に対するγ線検出率(相対値)を表にしたものである。

測定法 Cs137感度(γ線放出率:85%) K40感度(γ線放出率11%)
ガイガーモード

* 核種分離は不可

0.24  ( = 0.285×0.85 ) 0.020    ( = 0.189×0.11 )
全吸収ピークのみカウント

* 複数核種を分離可

0.03    ( = 0.041×0.85 ) 0.0013    ( = 0.012×0.11 )
全吸収ピークとコンプトン散乱の一部をカウント(牧野氏提唱の計測法)

* CsとKの分離は可

0.12    ( = (0.041+0.224×0.42)×0.85 ) 0.016    ( = (0.012+0.177×0.80)×0.11 )

 

 

1cm角CsIシンチレータによる実測値との比較

 やさしお100g(K40:870Bq)の測定結果を以下に示す。測定時間は4時間である。300keVからコンプトンエッジまでの積算値は5.9cpm、光電ピークの積算値が0.5cpmであるから、コンプトン散乱と光電ピークのカウント数の比率はおよそ12:1であることがわかる。

 

 一方、計算による予測では、コンプトン散乱と光電ピーク(全吸収ピーク)のカウント比は0.177:0.012=〜15:1、さらに300keV以下(カウント数で20%)を切り捨てていることを考慮すると0.177×0.8:0.012=12:1となり、実測結果と一致した。しかしこの計算はγ線の垂直入射のみを仮定していること、多重散乱は全く考慮していないこと、など大雑把なものなので実測値と同じ値が得られたのは偶然の一致というべきだろう。測定データ(累積カーブ)を見ると500keV以下では勾配が大きくなっており、計算結果のような直線とは少しずれがある。まあ、細かいことはさておいて、K40のカウントが12倍増えるのは有難い。

 Cs137のほうはどうなのかというと、単一核種の線源を持っていないので単純な比較ができない。あと10年も経てばCs134が1/32に減り我が家の庭土はCs137標準試料に変化するから、それまで待つことにしよう。その間に次の原発事故が起こらなければ、の話だが。

 

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