小田急線ものがたり

新宿〜小田原間、82キロメートルが開通したのは、昭和2年(1927)4月1日であった。「高速度電気鉄道敷設免許申請書」が利光鶴松らによって、鉄道大臣元田肇に出されたのが、大正9年(1920)8月24日となっている。

現今東京ヨリ厚木地方ヲ過ギ小田原方面ニ到ル沿道ノ地域ハ文明的交通ノ便全ク欠如シ時運ノ発展ニ伴ハサル状態ニ有之依テ今回東京ヨリ小田原ニ至ル高速度電気鉄道ヲ計画シ公衆ノ利便ヲ図リ申候間右敷設ノ儀免許被成下度附属書類及図面相添ヘ此段奉願候也

鉄道省から諮問を受けた東京府と神奈川県は、交通が便利になり、開発上資するところが多いという理由で、問題はないと回答した。それによって大正11年(1922)5月29日に免許状が下付された。

かつて横浜鉄道(現JR横浜線)の創業に力をつくし、地方の開発と産業育成に心を配っていた村野常右衛門は利光鶴松と親交も深かった。村野は、私鉄の起業促進にも熱心であったので、利光鶴松にとっては大きな力であった。

大正12年(1923)3月8日に、社名を東京高速鉄道株式会社から小田原急行鉄道株式会社に改めている。大正13年(1924)後半になると用地買収も進んだが、なかには鉄道敷設に反対する地域もあった。また、停車場用地も誘致合戦が活発であったという。例えば、町田市内の計画についても、「小田原急行鉄道敷地測量ノ為メ土地立入ニ関スル件」(大正12年3月9日)を見ると、大部変更されていることがわかる。当初の予定では、成瀬の北端部から高ヶ坂の熊野神社付近を通ることになっていた。当初の計画通り完成していたとしたら、成瀬を含む南地区の発展も現在とは大きく違っていたであろう。横浜線と小田急線を結ぶ駅接近による市街地再開発問題もなかったかも知れない。

全線の工事施工許可が下ったのが大正14年(1925)3月26日で、全線82キロメートルを、着工後わずか1年半で一挙に開通させた。このような短期間で竣工した例は我が国の鉄道史上例をみないことだったと伝えられている。 (出典:成瀬、成瀬郷土史研究会)
 

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