日本で初めて鉄道が開業したのは、明治5年(1872)10月、新橋〜横浜間であった。
日露戦争の結果として、日本とアメリカとの間に生糸貿易が盛んになり、甲信越地方の繭や生糸は、人馬の背により、八王子へ集められ、そこから神奈川(横浜)街道に沿って運搬されていった。
このような養蚕地帯の生糸は、甲武鉄道の開業により東京経由で迂回し、横浜へ出したり、あるいは信越線を利用して出したりしたが、いずれも遠回りで不便であり、その上不経済であった。
横浜の商人たちは直接横浜へ運んだ方が経済的であるので、沿線住民の生活改善ということではなく、彼らはこの不便、不経済を改善するために、明治27年(1894)に初めて、原善三郎を代表として横浜鉄道敷設の許可願を政府に提出した。しかし、このときの出願は却下され、以後4回出願された。そして、明治35年(1902)3月、5回目の出願でようやく、「政府が必要なときには、無条件で鉄道を提供する。」との条件で、許可がおりた。
この鉄道は当初、村の中央部を流れる恩田川の際を通って原町田へぬける計画であったが、この地区は成瀬における一番の穀倉地帯であり、「汽車が通ると震動で朝露がおち稲の実りが悪くなる」とか、「先祖伝来の田畑がつぶされることは忍びがたく、村の経済に大きな影響がる」という理由で、村の人々はこぞって反対した。その結果、田畑に影響のない山村地帯、つまり現在の路線に変更になった。
こうして線路が決定され、村の原野、115筆、41,956.23平方メートルが寄付及び買収されることになった。土木機械が発達していなかった当時は、モッコやトロッコを使用し、多大な労力を費やした相当の難工事で、村の人々の多くが日雇いとしてこの工事に協力した。
もくもくと黒い煙を吐きながら汽笛を鳴らして、蒸気機関車が神奈川から八王子まで走ったのは、明治41年(1908)9月23日で、開通当時は八王子と横浜を結んでいるので、「八浜(はっぴん)線」と呼ばれていた。そして、1日5往復という、文字通りのローカル線であったが、車輌は最新式の貫通ボギー3輌連結で、車内にはスマートな物売りボーイも居り、常に2等車も付いていて、東京近郊きってのハイカラ列車であった。開業当時、長津田から東神奈川までの17.9キロを1時間位かかり、乗車賃は、23銭であった。
しかし、その後の営業成績は思わしくなく、赤字経営になり、明治43年(1910)4月1日、帝国鉄道院に施設すべてが貸渡され、大正6年(1917)1月1日に、ついに買収ということになった。そのため、せっかくののハイカラ列車もどこかへもっていかれ、その代わりに来たのが、横っ腹にむやみとドアの付いている、旧式のローカル車で、薄緑敷のものすごい腰掛けがある惨澹たるものになってしまった。この列車が走るようになって、住民は、「省線」と呼ぶようになった。
その後、大正14年(1923)4月に電化された。とは言っても、東京近郊で最も閑散な線という事で、原町田に電車講習所を設け、東神奈川・原町田間の線路を運転手養成所とした。営業の電車が走ったのは、再三再四、沿線の住民が陳情を重ねて、昭和7年(1932)10月1日になってから、ようやく電車になったのである。 (出典:成瀬、成瀬郷土史研究会)