但木 土佐
ただき とさ

文化14年(1817)〜明治2年(1869)5月19日
<諱>成行 なりゆき
<称>土佐
<禄>1500石(150貫文) 
    文久2年に300石加増され1800石となる
<身分>伊達家着座 宿老 黒川吉岡邑主

安政5年、藩の財政改革に失敗した芝多民部のあとを受け、奉行となる。
緊縮財政に加えて殖産興業政策によって藩財政建て直しをはかり、以後、藩主の信任を得て仙台藩幕末・維新期の政局を担った。

大槻磐渓の国際情勢の認識を忠実に受け、幕府を中心とする国内改造と親露開国策をとった但木は、しばしば藩内の攘夷論者に命を狙われる。

「当時鎖国攘夷論の盛んに起こるや、土佐を以って売国奴と目する者あり。為に危害を被らんとせしこと数次なりしも、幸にして免るるとこを得たり。
時に、星恂太郎なる者あり。一日、土佐を途に要撃せんとす。
友人、金成善左衛門、密かに之を知り、その非挙を説破し、携えて土佐に面し、告ぐるに実を以ってす。
土佐、恂太郎に対し、子、余を以って売国奴となすと憂国の情、真に愛すべし。然れども惜哉。子は仙台の小天地に棲息し未だ世界の大勢に暗く、眼孔小に識見また陋(ロウ=狭い)なり。未だ真成の憂国の士と称するに足らず。子、今より知識を世界に求め、真の憂国者になれ、とて、金を与えて横浜に遣わし、洋兵学を習わしむ。その推量往々斯の如し。」 (仙台藩戊辰殉難小史)

慶応3年、大政奉還に際して状況を命ぜられた藩主伊達慶邦は病気を理由に動かず。名代として但木が上京していた。
12月12日、二条城に召され、閣僚から将軍東帰が決したと告げられたという。
但木は列強監視下とも云える状況に鑑み、内乱を起こすべき時にあらず東帰するは短慮、と、これを諌め、土佐藩の山内容堂と共に四方に周旋奔走したが閣老の聞き入れる所とはならなかったらしい。
同時期に朝廷に対し平和裏に事を収めるよう建白書も提出している。

明けて慶応4年正月3日、鳥羽伏見開戦。
7日には仙台藩にも倒幕の命が下ったが、経済的に到底戦争などできる状態ではない仙台藩の状況を鑑み、日和見の誹りに甘んじても、但木は動かなかった。

15日、奥羽諸藩へ徳川追討の沙汰。

そして17日、朝廷から「会津一手追討出願」を許す、との沙汰を受け、在京一同驚愕する。そんな願いを出した覚えは無い。

当時一説には、大童信太夫が宴席で「会津を一手に討つべきことを仰せつけられなば見事に遂げてみせる」と放言したとか、但木が一手攻撃を出願したが大童が同意しなかったとか言わたらしいが、真相は判らない。

協議の上、当時京にあった大童信太夫が参与所に出頭してその旨を届け出、数日後「一手追討出願」は撤回されたものの、会津藩追討命令は変わらず。
但木は直ちに帰国して、会・庄両藩の謝罪寛典策を推し進めることとなる。

太政官からの会津追討の督促により、進攻の準備を進めながら、その裏で会津藩を説得、謝罪降伏させようと画策。
奥羽鎮撫総督一行が入仙し、その意志の強硬なことを知ると、自藩単独では謝罪寛典策は無理とみて、仙台藩と同様会津討伐の先鋒を命ぜられていた米沢藩との連名で、会津藩謝罪嘆願協議のため白石に会同ありたいと奥羽諸藩に檄を飛ばした。
その後、奥羽列藩同盟成立の流れとなる。

だが、言われなき罪を認めるのを渋る会津を説得し、過酷な降伏条件を飲ませて漕ぎ着けた謝罪嘆願は、総督府下参謀世良修蔵によって敢え無く却下されてしまう。
これにより、会津藩は孤城死守の覚悟を決め、憤怒やるかたなき仙台藩士の手によって世良参謀は暗殺される。

但木の苦心は水泡に帰す。
世良暗殺をきっかけに奥羽諸藩は戦争へと突入し、奥羽列藩同盟は攻守同盟へと質的に変化を遂げるのである。



戦に敗れて藩が降伏を決すると、但木は戦犯となる。

9月27日夜、捕吏が片平丁の邸宅に到ると、かねて覚悟の但木は少しも動ぜず、静かに家族に訣別を告げ、羽織袴に一刀を携えて、嫡子左近(当時30歳)と共に駕に入った。

彼の身辺が危うくなった時、「榎本(武揚)の軍艦に投じて箱館に走らん」ことを勧める知人もあったが「この度のことは罪一身にある。自分が遁れたならば君公を如何」と言って動かなかったという。

10月16日、官兵百余の護衛の下に東京に護送され、謹慎を命ぜられる。

明治2年4月、政府からの詰問に対し、奥羽越列藩同盟結成の動機と抗軍趣意について長文の弁疏状を提出し、「主君に罪なく、ただ自分の一慮に出づ」と明白にその所懐を述べて憚ることが無かった。

5月14日、刎首の刑、申し渡さる。

5月19日夕刻、麻布の仙台藩下屋敷に於いて処刑された。享年52歳。

遺骸は芝東禅寺に葬る(現在は宮城県黒川郡大和町 保福寺に改葬)。
有志によって建てられた墓石の表面には「七峯樵夫之墓」とあった。
後に明治22年、憲法発布の大赦の年、但木家によって「但木成行之墓」と建て直された。文字は大槻磐渓の書という。


<辞世> 

  雲水の行衛はいつこ武蔵野の  たた吹く風にまかせたらなん  七峯樵夫






≪管理人付けたり≫

辞世にある「七峯樵夫」という名の七峯は、たぶん七ツ森のことでしょうね。
領地吉岡の西に連なる山々のことです。
そこに住む樵(きこり)に自分をなぞらえて居るんだと思います。


但木さんの本領は藩財政の建て直しの方であったんだと思います。
なので、平時ならばもっともっと力を発揮した人であったんだろうと。

当時の仙台藩、財政的にほとんど破綻してます(^^;
買米制なんてとっくの昔に行き詰まってる。他に大した産業も無い。
だいたい米なんてお天気任せで豊作にも不作にもなるんだし、それでお金稼ごうなんて博打みたいなもんだと思うんだけど。そう上手く行くはずはない。
それでも買米制にこだわったのは、他に主力となる産業が無かったから。

そんな状況へ持って来て飢饉+蝦夷地警備(経営)+軍備拡充だもの。借金に告ぐ借金です。

但木さんの前の芝多民部さんもなかなか開けた改革の人で、西洋帆船(開成丸)の建造や、施条銃の鋳造とか、軍備強化で最新の銃器を入れたりとか、いろいろ良いこともやったんですけど、なにしろ放漫経営だったらしい。
財政面で失敗して失脚しました。手形乱発でインフレを引き起こしちゃって。

それだけに、後を受けた但木さんは緊縮財政で行ったんですな。軍備拡充政策も一旦ストップ。養蚕、製茶、海苔の養殖等の産業開拓と年貢制度の見直しで赤字減らしに集中した。
戊辰の風雲以前は地味な仕事してます。

彼は藩の困窮した実情を誰よりも切実に感じていて、後に戦争回避の中立政策を固持したのは、ただただ現実を正確に把握した結果なんだろうと思います。思想云々関係無し。

でも、そうまでして緊縮したにも拘らず、時勢には勝てずに慶応元年頃から再び軍備に財政投入して行くことになるんですけれど。
・・・借金は埋まらなかったね。
戊辰戦争後の仙台藩の借財は200万両もあったそうな。



上の略伝には安政5年に奉行就任としか書きませんでしたけど、実は3度、返り咲いております。

嘉永4年、34歳で執政(奉行)職に就くも、翌安政元年、病のため閑地に就く。
安政5年、再び執政となる。
安政6年、再び病のため閑地に就く。
万延元年4月、三度執政となる。

病ってなんだろう。
だって、この後の彼の身に降りかかった様々なプレッシャーを考えるとだよ?過労死しても不思議は無いくらい過酷な職務にも係らず、終戦まで病気とか体調不良とかの記録は見当たらないんだ。
もしかしたら仮病なのか?芝多派とのせめぎ合いの中で飛ばされたりばっくれたりしたのかなー?なんて、いろいろ想像を逞しうしてしまいます。

当時藩の出入司を勤め、後に仙台区長となった松倉恂(良輔)が、「芝多派と但木派が揃って戊辰の前に藩を整理していたらあんなことにはならなかった」と話してるんです。「芝多派が進めば但木派が退く、但木派が要路に当れば芝多派が罷めるというふうに揉めましたから、下々(下僚)のものまでその度毎に動揺して何も出来なかったようなものでした」と。
但木を評して「何でも御座れ。人を容れてその説を聞く、開けた人でした」とも。


同じく松倉の証言に、政府からの沙汰は『刎首申し附く。其藩で沙汰すべし』というもので、「刎首したと言って国へ返せばいいのですが、(藩庁が)正直に殺してしまいました」というものがあります。

仙台藩公議使、大童信太夫と親しかった福澤諭吉が「福翁自伝」の中で批判している通り、仙台藩庁による戊辰戦争時の藩首脳に対する処断は厳しく、戊辰以前の政争での遺恨を感じます。まるで仇を取っているような。
手加減できるはずなのに殊更厳しく、という方向性です。

松倉の壊述はまだ当事者(またはその縁者)が健在であった頃のものなので、「正直に」と憚った表現になっているのかもしれません。

私はまた、今日地元で戊辰の歴史が語られないのも、このような背景がその遠因のような気がしてならない。
新政府軍に負かされたことよりも、その後の同藩人による仕打ちが憎い。
138年前のこととは言え、子孫は未だ同地に居住している場合も多く、お互いその所業を明らかにすることは憚られるのではないか・・・。
終わったことはほじくり返すな、という空気があるような気がしてならない。
勘ぐりに過ぎないかもしれませんが。


昭和13年に仙台市教育会によって編まれた『仙台先哲偉人録』によれば、旧領黒川郡吉岡の保福寺に「但木成行招魂碑」があるそうな。
明治28年5月19日、27回忌に建てられた。
東京府知事や日銀総裁も務めた旧仙台藩士富田鉄之助が「門弟」として碑文を寄せ、題字は彼の繋がりで勝海舟の手によるものらしい。
現存するのか確認はしておりません。情報をお待ちして居ります(他力本願)。

2007−7−19

≪追加情報≫

早速ブログの方に情報を頂きました。ありがとうございます!
「但木成行招魂碑」は現在もちゃんと黒川郡大和町吉岡の保福寺にあるそうです。門を入って左側だそうですよ。(情報提供 KOKO様)
2007−7−20
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