水野忠徳

水野忠徳 みずの ただのり  筑後守・下総守
生没年 文化七年(1810)−明治元年(1868)
略歴 禄高500石(元々はもっと微禄)の旗本だが、時の老中阿部正弘に次第に抜擢され、天保15年西丸目付、以後、使番・先手火附盗賊改加役を経て、嘉永5年浦賀奉行、翌年四月長崎奉行となる。

露使プチャーチン来航の際は全権筒井政憲・川路聖謨らを助け、爾来外交の一線で活躍した。
すなわち日英和親条約、英・仏各通商条約交渉の全権となるほか、蘭・露各追加条約に調印し、また、神奈川開港地問題、通貨問題等、条約締結後の諸問題の解決に力があった。

この間、
安政元年12月、勘定奉行、4年4月、長崎奉行兼帯、12月、田安家家老に転じ、5年7月、新設の外国奉行となり、翌年7月、露国士官暗殺事件が横浜で発生。
奉行としての善後処置が外国使節に怠慢と受け取られ、8月、軍艦奉行に左遷。
またこの問題で文久元年の遣欧使節副使になり損ねた。


万延元年11月、小笠原開拓用掛として、伊豆および小笠原諸島に赴いた。
文久元年5月、外国奉行再任。
岩瀬忠震ら失脚後の外交の主力として幕府内に力があったが、長井雅楽の周旋に強く反発するなど、幕閣と相容れなくなり、文久2年7月、箱館奉行に移された。


同年9月、隠居を願い出、以後は癡雲(ちうん)と称したが、その後も穏然たる力を持ち、文久3年5月、老中格小笠原長行の率兵上京に従うなど、幕府建直しに尽力した。
幕府崩壊後は多摩に隠退、病に罹り憤死した。
享年59。


えー、頑固者で音に聞こえた(?)水野さんです(^^)v。
後に福地櫻痴が
幕末三傑の一に数えてます。

この方も養子なんですよねー。
もともとは諏訪庄右衛門さんという方の次男。家禄は・・・判りません(^^;が、まぁ養家と同じ位と考えときましょう。

で、水野家に養子に来たのはいいのですが、もともと300俵取りの家で、生活が成り立つかどうかというくらいのもの。なのに養父が放蕩して、借金にはかなり苦しんだようです。

借金取りに悩まされつつも、勉学に励み、天保7年、21歳で初出仕。
優秀さを買われて老中阿部正弘により抜擢。天保15年、西の丸目付。以後、御使番、先手鉄砲頭、火附盗賊改と進み、嘉永5年、浦賀奉行に。

翌年4月、長崎奉行を拝命になるのですが、長崎赴任前にペリー来航ですよ。

なので、前年この情報を流してくれたオランダ商館長と、軍艦発注や乗組員養成のための伝習所の開設、教師団を長崎に招くこと、授業は通訳を通じて行うこと等を協議・決定しています。
この時は目付に、のちに外国奉行として同僚となる永井尚志がおり、良きアドバイザーとなったのではないでしょうか。
のちの
長崎海軍伝習所の青写真もこのとき作られたのでした。

他に長崎赴任前、、ロシアのプチャーチンがやって来ており、日本側の全権は川路聖謨、筒井政憲でしたがこれをよく助け、また赴任後、イギリス艦隊を引き連れてスターリングが長崎に来航するや、全権として日英協約に調印しています。

これらの業績を認められ、安政元年12月勘定奉行に栄転。勝手掛と言って、財務担当だったらしい。
安政4年4月には長崎奉行兼帯。
ですが12月、田安家家老にチョイ左遷(爆)。

これはアメリカ領事ハリスの要求していた将軍拝謁等の要求をことごとく・・・というか頑ななまでに反対して、当時の外国掛官僚の中で浮いちゃって・・・いや、当時の老中堀田さんが彼の剛直さに手を焼いて(?)一時外国掛から出しちゃったらしい(苦笑)。

あのー、ずっと外交畑で仕事をしているにも係わらず、
開国なんてしなくていいという考えの人なんですよ、水野さんて。
開国したって日本にとっては何も良いことは無い。事実、物価高騰で誰しもが苦しんでいるではないか、と。

そういう意味で
岩瀬忠震とは対極にある人です。
逆にそれが、
井伊時代に生き残った理由でもある。

まあ半年の謹慎ってカンジで、翌年の安政5年7月には、永井尚志、堀利熙、岩瀬忠震、井上清直とともに新設の外国奉行にめでたく納まります。

この間、彼はずっと通貨問題で外国全権(英使オールコックがリーダー的存在)と渡り合っていまして。
正論を述べているのに相手にされない。
その間に、どんどん小判が流出する。
必死に食い止めようとしても、上司=幕閣の理解をも得られず、物価は3倍に。
幕府の収入まで半減させる結果に終わり、歯ぎしりしても地団太踏んでも納得いかない状況に追い込まれて行きます。
この辺り、佐藤雅美著「大君の通過」に詳しいです。

安政6年5月神奈川奉行兼帯。
ここで、通貨問題で兼ねてから良く思われていなかった外国全権から、しっぺ返しをくらうことに。

横浜でロシア人士官が日本人によって暗殺されるという事件が起きる。
で、当時の日本の常識としては、殺人事件の現場に奉行がじきじきに急行するということはまず無いことなんですよ。
で、水野さんも部下に任せようとした。
のちに流行の攘夷暗殺のハシリですんで、対策というか、対処の前例が無いのですが、これを職務怠慢と指摘され、罷免の訴えまでされてしまう。

安政6年8月、軍艦奉行に左遷。
加えて、予定されていた遣欧使節副使の座もあえなくボツ。

諸外国全権と問題を起こす人物は幕府にとって邪魔者なのです。
たとえそれが「幕府大事」の結果であろうとも。

・・・普通ならこの時点でキレますね。でも、彼はタダ者じゃない(爆)。

万延元年11月、小笠原島開拓用掛として、小笠原諸島巡検に赴く。

なり手が無いからお鉢が回って来たのかとも思えなくも無いですがねー(^^;。
でも、小笠原諸島、この頃かなーり重要な位置に有るんですわ。
日本が開国する前からアメリカの捕鯨船の水・食料の補給基地になってます。
それからイギリス海軍の避難先にどうかと検討されてたり。
軍事的な要衝なんですね。

その上、ここでの
捕鯨収入を幕府の財源に充てようという目論見も有ったようです。
かのジョン・マン、中浜万次郎が何度も幕府に建言していたのが、ここに至ってようやく日の目を見たのです。
そこで外国奉行・勘定奉行として、幕府経済の困窮を誰よりも身に沁みて判っている水野さんが動くわけです。

天保元年(1830年)、もともと無人島だったこの島に、白人とハワイ人のコロニーが入植してます。
領有宣言もアメリカ人、イギリス人で、てんで勝手にやってます。
ただ公式には認められてなかったみたいで。

てことはですね、水野さんが巡検した時、
小笠原は外国人の住む島だったんですよー!知ってました?
そこへ突然出向いて行って「ここは日本の領土だから、あんた達今から日本人ね」って言うんですから・・・もう強引(−−;。水野さん、適任かも(爆)。

アメリカ、イギリスが牽制しあう中で、小笠原回収事業は成功し、ここを軍事基地にして日本を攻撃されるという心配はひとまずなくなります。

文久元年5月、外国奉行に再任。
ですが、京都勢力に対し弱腰の幕閣と相容れず、文久2年7月、箱館奉行に左遷。
ここでついに水野さん、
ケツまくって隠居しちゃうの(^^;。

幕閣の言うことなんか聞きません。
箱館に赴任せずに隠居したうえ、登城も止めない(^^;。
隠居の身で登城して政治に口出す、口出す。

井上清直さんの紹介のところで、チラッと説明しましたが、文久3年5月の老中小笠原長行の率兵上京、水野さんが首魁だと言われています。
首魁だって。賊徒扱いだよ(−−;。

上洛していた将軍家茂が攘夷派の虜のようになって京から動けなくなっているとき、横浜で外国船をチャーターし、海路1600名が出兵。
徳川慶喜等、上層部の優柔不断で攘夷派一掃とはならなかったのですが、結果的には将軍を奪還することに成功、というものなんですがね。もちろん彼自身も同行してますよーん。

彼はねぇ、幕府のためだけに死力を尽くした人なんですよ。
役を上り詰めて禄高500石まで行きましたが、辞める時に隠居料(退職金?)として300俵を与えられることになったのですが、これを断固蹴っていることからもその意気込みが判ります。
個人の利益や名誉ではないのです。

鳥羽伏見戦後も主戦派の急先鋒であった水野さん、慶喜の謹慎、恭順が決すると、
「いたずらに戦論を主張し、あるいは密かに兵を集めて戦わんなど言うは不策なるべし」
と、かつて自分が外国掛に推挙し、通詞として育て上げた部下福地櫻痴に漏らしています。

幕臣、なんですよねぇ。
幕府には抗わない。
幕府のために不退転の覚悟で働いて来たんだから。

知行地は多摩にあったようで、ここに引き込んでから病を得て、
憤死
己が非力を嘆いたか。
自分の仕事が全て水泡に帰して無念のうちに絶望したのか。
いずれにしろ、負けず嫌いのプライドの高い水野にとっては耐えられないことであったでしょう。

最期の言葉は「今、出仕の命が参った。すぐ、登城の仕度をせよ」
江戸城での和戦の論に敗れてから半年後の、慶応4年7月9日の深夜のことでした。



惚れどころ♪

頑固一徹!
もう、嬉しくなるくらい。
「剛直」という言葉はこの人のためにあるようなもの。

この性格のために若いうちから集団の中では問題児だったようで(^^;
自分の主義主張を曲げないので、しばしば上司とぶつかって左遷の憂き目に遭ってますしね。
あまりに頑固で、岩瀬忠震にからかわれてたり・・・(^^)。

ただ、この性質、自分は間違ったことはしていないという自信から来るんでしょうけどね。
長い物に巻かれない人なんですナ。
強面です。

こんな扱いにくい人でありながら、しかも再三上司や同僚と揉めながらも政治の表舞台に返り咲く訳は、
仕事の確実さにあります。

まさに
重戦車の如く!(≧▽≦)仕事をこなす人なんですよねー。頼もしーい。


中公新書から出ている田中弘之著「幕末の小笠原」、一度読んでみて下さいー。水野さんの巡検の時のエピソード、最高です。
私は途中3、4度、爆笑致しました。
あまりにかわいい。
このオジサンかわいいわー。

他人(ひと)の言うことなんか聞かないから(笑)。
現場主義だし、率先垂範
お奉行ですよ。未開の原野の調査なんて部下にやらせてテキトーに終わらせても誰も文句は言いませんよ。
なのに水野さんときたら、・・・絶対
嬉々としてやってるな。

道なき密林を分け入って野営してまで、どんな険しい岩山でも、登ると言ったら意地でも登る。川口探検隊(古)も真っ青です。
付き合わされる部下達が辟易してるのにもお構いなし。こんな上司を持った部下は災難です。
まったく漫画にしたいぐらい面白いです。

ご本人はほんとに楽しそう。
江戸の煩わしさから解放されて、活き活きしている感じです。


この人に限らず、初期の外交担当官僚に共通して言えることですが、彼等は
幕府のために粉骨砕身、誠心誠意働いている
彼等にとっては幕府=日本です。
日本を守らなければならないという
使命感が非常に強い

なので、その足を引っ張る攘夷派や朝廷の動きが理解できない。
日本を不利な立場に追い込む門外漢でしかない。

だけど、幕閣は意気地が無くて京都を黙らせることが出来ない。
いくら自分達が頑張っても、日本はどんどん窮地に追い込まれるだけ・・。

で、排除しようと。

バカの壁には力で対抗するしかないという結論ですな(爆)。
水野さん、
頭良いのに判り易くてステキ(−−;


憤死と言われる所以も、至極判りやすい。
この人ほど、幕府を思って全力を尽くしたと自負していた人も居ないでしょうから。


幕府崩壊。
でもそれも、幕府機構の腐敗が末期的症状を呈していたのが根本的な理由なのだと、個人の努力ではどうにもならないところまで来ていたのだと、彼自身気付いてはいたんだろうと思います。
でも信じたくなかっただけじゃないかと。

その
人間臭さがなんとも魅力的な人です。


2009−4−10

さて。

私めの、思い入ればかりが突っ走った中身の無い文章に長々お付き合いくださってありがとうございます。
上の文章を書いて5年が経ちましたが、・・・・自分で読んでて汗が出ますな(−−;
なんだ!この無駄なハイテンションわ!(笑)。
ていうか、水野さんの話になると未だにテンション上がりますけどねー(うふ)。

イキオイだけのこんな文章でも、読んでくださって、もしちょっとでも水野忠徳さんに興味を持って頂けたなら嬉しいです。

でも、情報量としては微々たるものなので、「物足りないこと甚だしい!」とガッカリなさっている方も多いことでしょう(何を隠そう、私がそうだ)。

そんなあなたにお勧めのブログ、見つけましたよ☆(どこまでも他力本願・爆)。

 
「水野氏ルーツ採訪記」

タイトル通り、「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」をなさっている∞ヘロンさんのブログです。
でも情報量が半端じゃないので、水野忠徳に関しても詳しく研究されていて、読み応えはばっちりですv
何しろ水野の写真が拝めるんだよぉ〜!

是非、行ってみて下さい。
お勧めです〜!