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聖書:詩篇119:73〜80
【恥を見ることのないため】
尹 秉甲 牧師

 人間が動物、獣と区別される根本的な違いは何だと思いますか。

 霊の世界を知っている、宗教心がある、礼拝が出来る、言葉が使える、良心がある等、色々あると思いますが、その中の一つが、「恥を知る」ことです。ですから、恥を知らない人を獣に例えたりします。

 しかし、この恥に対する考え方が、東洋人と西洋人は違うと言われています。

 アメリカの著名な社会学者であるベネディクトという人は、東洋人の倫理意識を「恥の倫理」であると言っています。

 この「恥の倫理」では、他の人にどのように見えるかが倫理と道徳の基準になるのです。日本の文化は恥の文化と言えるほど「恥=いのち」の公式が成り立つ時代もありました。

 いまを生きる私たち現代人にとっても同じことが言えるでしょう!

 他人にどう思われるのか、どう見えるのかが、多くの人の行動の基準になっているのです。他の人の目、耳を意識して、そのおり(檻)の中に入って、苦しい生活をしている人が沢山いるのです。

 恥が倫理の基準になっていることは西洋人も同じですが、その基準が違うようです。西洋人の恥は、他人ではなく、絶対的基準が提示されている「罪の倫理」であると言われています。この恥の基準は、人間生活に大きな影響をもたらすものです。

 皆さんの恥の基準は何でしょうか!
聖書が教えている「恥」の基準は何か、そして、恥を見ることのないためにはどうすれば良いのかを、本文を中心にして確かめてみましょう。

 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうが私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。

《本文 旧約聖書 詩篇 119:73》

本文は、ヘブル語10番目のつづり字「ヨード」で始まる詩篇119篇の第10の段落です。

詩人は、ここでまず、神さまを創造主なる方であると告白しています。人間が恥を見ることのないために絶対的に必要なことは、

第1に、創造主なる神を認めることです。

 詩人は「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。」と告白しています。ここで「造り」とは、天地万物、人間を含めすべてのものを創造されたことをあらわす時、使われる単語です。つまり、詩人は、神さまを天地万物のすべてのものを造られた創造主であると告白しているのです。そして「私を形造りました。」と告白していることは、自分が「神に似るように、神のかたち」に造られたことを自覚していることを意味します。(創1:26〜28・2:7)

 神のかたちに造られ、生きものになった人間は、動物と違って霊的存在となり、神さまとの交わりの中で、神さまによって造られたすべてのものを支配することができる、万物支配権が与えられている存在です。しかも、永遠に生きる可能性が与えられている唯一の存在として造られたのが人間です。

 それなのに、人間が動物から進化したものであるとか、また、偶然にできた産物に過ぎないと言っていながら、まことの神、創造主なる神を認めず、人間の手によって造られた被造物を、神として信じ拝む者は、当然、恥を見るようになるのです。

 偶像に仕える者、自分の力で生きると過信する人々は、みな恥を見るようになります。

  1. 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
  2. だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
  3. 見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

《旧約聖書 イザヤ書 44:9〜11》

 見ることも、知ることもできない、何の役にも立たない、偶像を造り拝む者に定められているのが、恥を見ることです。(詩篇97:7)

 創造主なる神を認めること、これが恥を見ることがない秘訣です。

 詩人は、創造主なる神さまを告白し、さらにこう祈っています。「どうか私に、悟りを与えてください。」「私があなたの仰せを学ぶようにしてください。」 

 天地万物、また、自分が神のかたちに造られたことを確信している人は、その神さまをもっと知るために、また、自分をもっと知るために、当然のように、上よりの霊的知恵と理解力、悟りを求めるようになるのです。そして、「あなたの仰せ」つまり、みことばをもっと知りたいと思い、みこころに関する真の知識を求めるようになるのです。

あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。

《本文 旧約聖書 詩篇 119:74》

 詩人のように創造主なる神さまへの確信を持って、みことばを学ぶことに努力する人は、当然のように同じくみことばに真実な信仰者たち、つまり、神を恐れる人々の喜びとなるのです。そして、詩人のような信仰者は、他の真実な信仰者たちにとって大きな励ましになるのです。

 いまの私たちはどうでしょうか。創造主なる神への確信を持っているのでしょうか。自分が神のかたちに造られたすばらしい傑作品であるという自覚を持っているのでしょうか。万物の支配権が与えられていること、神の義によって生きるべき存在であること、永遠に生きる存在であることの確信を持っているのでしょうか。兄弟姉妹の励ましになる生活をしているのでしょうか。

 どうか、みことばの学びにもっと励み、詩人のような確信のもとで生きることができますように、いまの私たちの信仰を確かめてみましょう。

 人間の手で造られた神々ではなく、造り主なるまことの神さまを認めることが、人間が恥を見ることのない第1の秘訣です。

人間が恥を見ることのないために必要なことの、

第2は、さばき主なる神さまを認めることです。

主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。

《本文 旧約聖書 詩篇 119:75》

 詩人は、いま苦しみの中で、その苦しみが自分の罪に対するさばきであることを告白しています。その苦しみが神さまの真実の故であること、それ故、神のさばきが正しいことであると告白しているのです。

「あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」

 詩人のように苦しみの中で神の愛のむちを悟る人は幸いな人です。神さまは、罪に対して必ずさばきを与えられる、さばき主です。そのさばきは、私たち人間とは違って正しいものであり、真実をもって行なわれるものです。

 神のさばきは、二つあります。

 神の民、神の子に対する懲らしめと、そうでない者に与えるさばきがあります。

  1. そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
  2. 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
  3. 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
  4. もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
  5. さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
  6. なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
  7. すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

《新約聖書 ヘブル人への手紙 12:5〜11》

 神さまは、私たちが罪の中にいるとき懲らしめます。愛のむちが与えられるのです。また、もっと幸せにしてくださるために様々な訓練の中に私たちを入れられるのです。 いずれにしても自分の身に起こったすべてのことを通して、その苦しみが真実なる神さまからのものであることを悟り、詩人のように、神に帰り、神にすべてを委ねる人は幸いな人です。

  1. どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。
  2. 私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。

《旧約聖書 詩篇 119:76、77》

 神が悩まされたことの意味、自分の苦しみの意味を悟っている人は、詩人のように神のめぐみのもとで慰められることを信じ、祈ります。人間の苦しみが取り除かれ、生かされる道が、ただ神のあわれみにあることを信じ求めるようになるのです。その人は、必ずみことばの中で真の慰めを得て生かされる方法と力が与えられるから、詩人のように神のみことばを喜びとして告白することができるようになるのです。

 しかし、神を知らない人、神のみことばに従わない人は、みことばによるめぐみを得ることができない故に、罪の中で神さまのさばきを受けるようになるのです。そのさばきは永遠の恥につながるものです。

地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

《旧約聖書 ダニエル書 12:2》

 世の終わりの日に、神さまをさばき主として信じている人は、永遠のいのちに、つまり、天国で永遠に幸せに生きるようになるし、そうではない者は、「そしりと永遠の忌みに。」つまり、地獄へとさばかれるのです。

 これを新共同訳聖書は、こう翻訳しています。「ある者は、永久に続く恥と憎悪の的となる。」

 永久に続く恥の的となるさばきが、神さまを唯一の正しいさばき主として認めていない人に定められていることです。ですから、神さまが真実をもって自分を悩まされる正しいさばき主であること、イエスさまをさばき主として信じることが、恥を見ることのない第2の秘訣になるのです。(ヨハネ5:24〜29)

 人間が恥を見ることのないために必要なことの、

第3は、高ぶる者どもにならないことです。

  1. どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。
  2. あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。

《本文 旧約聖書 詩篇119:78・79》

 「高ぶる者ども」とは、神さまを信じない不信仰者、みことばから迷い出る者を言います。この高ぶる者どもは神さまのみことばを喜びとし従う詩人を、かなり苦しめたのです。

 その方法は、偽りでした。詩人を倒すために彼らは、偽りをもってひどい誹謗、中傷をしたでしょう。

 詩人を信じていた人々が、詩人を疑い、彼から離れて行くほどのものだったのです。

 いまも同じように、みことばに従う者が、従わない者の偽りごとによって誹謗、中傷を受け、苦しめられ、皆から変な目で見られ、一人ぼっちになる場合があるのです。いまも真実を見極めずに、うわさに耳を傾け、惑わされ、罪の中に陥る人たちがいるのです。

 とんなに立派な人の話しであっても、どのような人の話しであっても、他の人を苦しめ、殺すようなことについては、耳を傾いてはいけません。また、自分に関係のあることについては、必ず自分の目で確かめたことだけを信じなければなりません。

 偽りごとに惑わされ、高ぶる者の仲間になる罪を犯さないためには、必ず両方の話しを聞くこと。そして、資料等、自分の目で確かめ、判断すること。特に、みことばに照らして判断することが大事です。(申19:15〜20、Uテモ5:19〜20)

 人の巧みな言葉に惑わされ、正しい人、みことばに従う人から離れたり、また、高ぶる者の仲間になると、必ず恥を受ける日が来ます。

 詩人は、いま、高ぶる者どもが恥を見るようにと祈っています。詩篇では、自分を苦しめる者が恥を見るようにと祈り求めているところがあります。(詩篇35:4、26、83:17)

 このように自分を苦しめる者が恥を見るように祈ることは、神の正しいさばきを信じていることを告白する意味があるのです。(申28:1〜7)

 偽りごとをもって、みことばに従う人を苦しめる者は、必ず神からのさばきが与えられることを信じ、詩人のように苦しみの中においても、もっとみことばに思いを潜めること、つまり、みことばを口ずさむ生活に励みますと必ず勝利を得る日が来るのです。

 そうすると必ず主を恐れる人々、主のさとし、みことばを知っている者たちつまり、真実な信仰者たちは、自分を認め、自分のところに、自分の仲間として帰るようになるのです。

 誹謗、中傷の苦しみ、仲間が離れ、淋しい、恥じ入る苦しみからの勝利の秘訣は、みことばにもっと従うことにあるのです。

 偽りごとをもって、みことばに従う人を苦しめる高ぶる者ども。

 彼らは必ず、恥を見るようになるのです。ですから、私たちは、高ぶる者どもにならないように、また、その仲間にならないように、常に注意しなければなりません。

どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。

《本文 旧約聖書 詩篇 119:80》

 詩人は、自分が恥を見ることがないように、自分の心が主のおきてのうちに全きものとなりますようにと祈っています。

 詩人は結論的に、

 みことばから自分の心が迷い出ないように、心が分かれて二心をもつことのないようにすること、これが恥を見ないで生きる道であると告白しているのです。

 人間に恥が入ったのは、神のみことばに従わない、不従順の故でした。

そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

《旧約聖書 創世記 2:25》

 ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった最初の人間アダムとエバは、サタンの偽りの誘惑に負けたことによって、善悪の知識の木から取って食べ、その時に恥を知るようになったのです。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

《旧約聖書 創世記 3:7》

 他人に対して感じる恥、これが人間、恥の第1段階であると言います。

 疑い、恐れ、隠れる、そして、人の所為にする罪の性質の始まりがここにあるのです。

 そして、第2の段階は、他人から自分自身が感じる恥です。偽り等罪意識を自分自身の心の中で感じる恥です。

 第3の段階は、神の前で感じる恥です。

 神の前に自分の罪を告白し、みことばに従うその時、すべての恥は神のめぐみによって取り除かれ、新しい人生の歩みが出来るのです。

 みことばを知れば知るほど、神の前の罪意識は大きくなるのです。それ故、その人はもっと神さまの前に自分を聖別する生活ができ、みことばに従うようになるのです。

 みことばに従うこと以外には、みことばへの不従順によって、人間の中に入ってきた恥を取り除き、最高の幸せの道に戻る方法はありません。

 詩人のように恥を見ることのないように、自分の心が主のおきてのうちに全きものとなりますように。すなわち、主のみことばを疑わず、そのまま信じ従うことができますように。その信仰を求め、日々祈ることが大事です。

 いま、私たちは、神の前で恥じ入る者でしょうか。それとも、人の前で恥じ入る者でしょうか。

 詩人の告白が、いま私たちの告白となりますように。詩人のように恥を見ることのないため、みことばだけに聞き従う信仰者になりましょう。

 どうか、「私の心があなたのおきてのうちに全きものとなりますように!」

 

この説教は、詩篇119篇1節〜176節の連続説教(23回)の中で、第10回の説教を要約したものである。

(文責:S.S.M)














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