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説教

聖書:「I 列王記 12:25〜33」

説教題:「ここに、あなたの神々がおられる」


=アウトライン=

 

 


  1. ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。
  2. ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。
  3. この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
  4. そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
  5. それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。
  6. このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。
  7. それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
  8. そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。
  9. 彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。

旧約聖書 列王記T 12:25〜33

【導入】

 人生には、二つの道があります。

 神のために生きる道と、ほかの神々のために生きる道。この二つの道がすべての人間に定められている道です。神の栄光をあらわすために、特別に神のかたちに造られたのが人間です1

 それ故、人間が神との人格的な交わりの中で生きる時、約束されているのが、いつも喜びと平安の中で生きる「最高の幸せ」「永遠のいのち」への道です。

 しかし、人間が造られた目的どおり「神のために」生きる道を歩むのではなく、自分のために「神々のために」生きる道を歩むのなら、そこにあるのは「目の涙」と表現される死と悲しみ、叫び、苦しみの中で生きる「永遠の滅び」の道です。2

 このようにすべての人生の前には、常に神のみことばの約束を信じて、その命令に聞き従い神のために生きる祝福の道と、まことの神と、みことばから離れ、ほかの神々のために生きるのろいの道が置かれているのです。3

 いま私たちは、いつも喜びと平安のもとで生きているのでしょうか。それとも、いつも悲しみ、叫び、苦しみの中で生きているのでしょうか。

 神のために生きる最高の幸せへの祝福の道、永遠のいのちへの道と、ほかの神々のために生きる苦しいのろいの道、永遠の滅びへの道。

 この二つの人生の道。神の道と、神々の道のうち、いま、私たちが選び、歩んでいる道は、どちらでしょうか。

【解説】

 けさの本文のみことばは、私たちが自分のために、ほかの神々のために生きる道が、どのようなものであるかを具体的に教えています。

 このみことばの学びを通して、いま私たちが歩んでいる道がどちらの道であるかを確かめ、そしてもう一度、永遠の幸せへの道に進む力を得たいと願うものです。

 本文25節には、「ヤロブアム」という人物の名前があります。彼は、北イスラエル王国の初代王になった人です。

 イスラエルの国は、神のみことばの約束を信じ、一生涯神の道を従い通したダビデによって、一つの王国としての土台が置かれ、繁栄の道に入ったのです。彼は、一生涯を終え、この世のすべての人が行く道を行こうとしている時、息子のソロモンにこう言いつけました。

 

「あなたの神、主の戒めを守り、モ−セの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。」4

 何をしても、どこへ行っても、栄える秘訣が、主の道、神の道を歩むことであると教えているのです。この遺言を守り、神の道を歩んだソロモンによってイスラエル王国は、黄金時代をむかえることになります。

 神の道を歩んだソロモンに神さまは、みことばの約束どおり歴史の中でいままでにもない、そしてこれからも有り得ないような知恵と富と誉れの祝福を与えて下さったのです。5

 しかし、彼は自分の父であるダビデのようには、この最高の祝福の道である神の道を守り通すことができませんでした。ソロモンは、神さまによって禁じられていた外国の女を多くめとり、彼女たちを愛し、離れませんでした。それ故、彼が年をとった時、彼女たちによってほかの神々の道、偶像崇拝の道を歩むようになったのです。

 このソロモンの罪悪の罪の故に、イスラエル帝国は南ユダと、北イスラエルの二つの王国に分裂し、ソロモンの子レハブアムが南ユダの王になりました。6 この時、神さまによって、北イスラエル 王国の初代王として選ばれたのがヤロブアムです。

 しかし、彼はこの神の恵みを踏み躙り、ほかの神々の道を歩んだ典型的な人になったのです。

 彼、ヤロブアムは、預言者であるアヒヤを通して、ソロモン帝国が分裂した原因が、ほかの神々に従ったソロモンの偶像崇拝の罪に対する神のさばきであることを知らされていました。 7それなのに、彼はほかの神々への道を歩んでしまったのです。

 彼、ヤロブアムによって、北イスラエルの国は、永遠の滅びの道を走るようになりました。それでは、このヤロブアムが歩んだ神々の道がどのようなものであったかを具体的にみましょう。

神々の道の第一は、自分の思いに生きることです。

 ヤロブアムは、ソロモン王の家来の身分でした。8神さまは、彼を北イス ラエルの王として選び、みことばの約束を与えられました。開いてみましょう。

わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。 もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行なったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行なうなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。

   旧約聖書 列王記T  11:37〜38

 ヤロブアムは、このみことばの約束を信じないで、王になってからますます自分の思いのまま、自分のための道を歩みました。

 彼が王になって最初に行なったことは、シェケムとペヌエルを再建することでした。

ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。

旧約聖書  列王記T  12:25

 ヤロブアムは、当時の北イスラエルにおいて宗教と政治の中心的な役割をしていた町であるシェケムを9 再建して首都としました。そして、その首都を守るためにペヌエルを軍事基地として要塞化したのです。10

 つまり、ヤロブアムは彼がダビデのように神の道を歩むなら、神さまが彼の家を守り建てて下さると、みことばの約束を与えてくださったのにもかかわらず、自分の思い、自分の力で自分の家、国を守ろうとしたのです。

 しかし、このように軍事力が整えられていたのにもかかわらず、彼は不安に陥って恐れていました。

ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はタビデの家に戻るだろう。

この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」

旧約聖書  列王記T  12:26〜27

 エルサレム神殿礼拝を通して一つの神に仕え、一つの国の民として生きて来た彼の民だったので、再び北と南が一つになろうとするかも知れないと、不安に陥ったのも、また自分が殺されるかも知れないと恐れたのも、彼にとっては当然のことだったかも知れません。

 ヤロブアムは、一家来の身分から一躍一つの国の王となって権力をふるう成功をおさめているのにもかかわらず、このように心の不安と心配、死への恐れを取りのぞくことができませんでした。

 これが自分の思いどおり生きる、神々の道の限界なのです。

 私たちはどうでしょうか。使徒パウロが言っているように、救われ、王である祭司 11 になっているのにもかかわらず、いまだにヤロブアムのように心の不安、心配、死への恐れの中に生きているのではないでしょうか。

 救いの恵み、みことばの約束を忘れている時、人間は高慢になり、自分の思いに生きるようになるのです。そこには、感謝の心はなく、不安、心配だけがあるのです。

 何か問題がある時、神さまに祈り求めるのではなく、自分の思い、自分の 知恵、自分の力で解決しようとする時にヤロブアムの恐れがあるのです。

 使徒パウロが言ったように、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。肉の思いは神に対して反抗するものであり、神のみことばに服従することができないのです。」12

 心の不安、心配、恐れがある時、いま自分が神の道ではなく、自分の思いに生きているのだと悟らなければなりません。

 自分の思いに生きること、これが苦しみの道である神々の道です。

神々の道の第二は、自分のために偶像を造ることです。

そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」

それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。

旧約聖書  列王記T  12:28〜29

 心配と不安、死への恐れを解決するために、ヤロブアムが自分の家来たちと相談して、考え出したのが、金の子牛を二つ造り、それを、神として信じさせることでした。彼は金の子牛を二つ造り、一つはベテルに、そしてもう一つは、ダンに安置しました。

 彼がベテルとダンを選んだのは、地理的、宗教的理由でした。ベテルは、南ユダとの国境近くに、そしてダンは北の国境近くにある町でした。また、二つの町とも古くから宗教の中心的な町でした。13

 こうしてヤロブアムは、国民に言いました。「ここに、あなたの神々がおられる。」ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられるのだ。つまり、これがあなたの救い主である神だと言っているのです。

 また、「もう、ここにあなたの神がいるのだから、わざわざ遠いエルサレム神殿まで行く必要はない、そこまで行くのは大変でしょう。これらを造ったのは、あなたのためですよ」 と言っているのです。これが、彼のたくみな口実でした。

 聖書は、ヤロブアムが「手腕家であった」と記しています。14

 つまり、彼は非常に有能な人だったのです。ですから、彼は自分のためのこのような政策を、国民にそのまま信じさせることができたのです。神さまのために使いなさいと、与えられている賜物を自分のために使う時人間はますます罪の中を歩むようになるのです。

 本文30節は、ヤロブアムのこの行為が罪となったと記しています。自分のために偶像を造るのは、大きな罪になるのです。

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

旧約聖書 出エジプト記 20:3〜4

 十の戒め、十戒の第一と第二の戒めですが、ほかの神々があってはならない、そして、自分のために偶像を造ること、いかなる形をも造ってそれらを拝み、仕えてはならないと厳しく戒めているのです。この罪に対するさばきは5 節に記されているように子にまで報われ、三代、四代にまで及ぼす厳しいものです。ヤロブアムはまさに、自分のためにこの罪を犯したのです。

 金の子牛を造り神として拝み、神さまによってさばかれた事件がイスラエルの民の歴史の中に記されてあります。

 シナイ山で、神さまがモ−セに律法を授けられている時、その留守の間、アロンとイスラエルの民が犯したのがこの金の子牛を造り拝んだ罪でした。

 その時、イスラエルの民はさばかれ、三千人が殺され、民全体が苦しんだのです。15

 ヤロブアムが金の子牛を造ったのは、この歴史的な事件をたくみに利用したかも知れません。あるいは、ある神学者が言ったように彼はイスラエルの歴史に無知だったのかも知れません。16いずれにしても、歴史を知らない、また歴史を歪め自分のために利用する人とその民族は、滅ぼされることを悟るべきです。

 ヤロブアムは、神さまの厳しい命令である十戒を破り、自分のために、二つの金の子牛を造り、しかも、神さまが礼拝の場所として選んだエルサレムを無視しベテルとダンを選び、民全体を偶像崇拝に陥れたのです。17

 私たちは、いまヤロブアムのように金の子牛を造ってはいないと言えるでしょうか。

 神さまより大事にするもの、神さまのみことばより優先するものは、すべて偶像になるのです。それが、知識であれ、富であれ、誉れであれ、金の子牛です。時には親、妻、夫、子供、といった家族、親戚、友人が金の子牛になるかも知れません。(コロ3:5)

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

新約聖書 コロサイ人への手紙  3:5

 いま私たちはどれ程の金の子牛を造って、拝んでいるのでしょうか。自分のために偶像をつくること、これがのろいの道、神々の道です。

神々の道の第三は、自分のためにみことばをかえることです。

 ヤロブアムは、自分のために、神の命令とおきてを勝手にかえました。

 彼は、神さまが礼拝の場所として選び聖別されたエルサレム神殿のかわりに金の子牛を礼拝するために高き所に宮を建てました。さらに、祭司は必ずレビの子孫から任命するようにと定められている神のおきてを無視して、一般の民の中から祭司を任命したのです。18

それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。

旧約聖書  列王記T  12:31

 また、ヤロブアムは、神の恵みを覚え、最高の喜びと感謝の中で守るように定められた仮庵の祭りの日を、第七の月の十五日 19 から第八の月の十五日にかえたのです。

そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。

旧約聖書  列王記T  12:32

 月だけをかえたことに彼の悪賢さを見ることができるのです。20
33節では、このような彼の宗教政策を「自分で勝手に考え出した月」であると表現しているのです。

彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。

旧約聖書  列王記T  12:33

 彼が神さまの定め、おきてを勝手にかえ、自ら公然とそれを守り行なったことは、明らかに神への挑戦を意味するのです。神のみことばである命令、おきてと定めを勝手にかえることは、最悪の罪になるのです。

 エデンの園においてエバが、神さまが命じられたみことばに勝手につけ加えたり、減らしたりして、サタンの誘惑に負け堕落して以来、神のみことばを勝手にかえるこの罪は、もっとも赦されない罪となっているのです。

 ですから、モ−セは、イスラエルの民に対して、神の命令、おきてと定めを守ることを命じる時、「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない。」(申4:2)と強調したわけです。

 そればかりではなく、このことは、聖書の最後の戒めとしても命じられているのです。 黙 22:18、19を一緒に読んでみましょう。

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

新約聖書 ヨハネの黙示録 22:18〜19

 このように厳しいさばきが与えられるのが、自分のために知っているみことばを勝手にかえることです。

 私たちはどうでしょうか。神さまのみことばを自分の都合にあわせて、勝手に解釈しているのが、私たちではないでしょうか。私たちの罪深い性質の故に、自分も知らないうちにこの罪を多く犯しているのが、私たちではないでしょうか。

 自分のために、知っているみことばを勝手にかえること、これが永遠の滅びへの道である神々の道を歩むことです。

 ヤロブアムは、自分の思いに生き、そして、自分のために偶像を造り、さらに自分のためにみことばをかえ、神さまに公然と敵対する者になったのです。このように罪はどんどんエスカレ−トするものです。

 ですから、私たちは、悪はどんな悪でも避けなさいと命じておられるみことばに、耳を傾けなければならないのです。21

 自分のために、神々の道を走ったヤロブアムの家は、神さまのさばきを受け、悲惨な終わりを告げたのです。22

 そして、ヤロブアムが北イスラエルの民にもたらしたこの神々の道の故に、北イスラエルの歴史は罪悪に満ち、再び神の道に戻ることができず、民全体が滅ぼされたのです。

 聖書は、北イスラエルのすべての王が「ヤロブアムの道」を歩んだと記しています。 23 「ヤロブアムの道」、彼が歩んだ道、それがそのまま神々の道だったのです。

【結び】

 私たちは、いま、ヤロブアムの道を通して、神々の道がどのようなものであるかを学びました。

 私たちは、いま、ダビデの道である神の道とヤロブアムの道である神々の道の、どちらを歩んでいるのでしょうか。

 私たちの人生の中で、常にあるのは、ヤロブアムの道への誘惑です。

 ここに聞こえて来るのがヤロブアムのささやきです。

「ここに、あなたの神々がおられる。」

 このヤロブアムのささやきに勝つ秘訣は、自分の思いではなく神の思いである神のみことばをそのまま信じ従い、自分のためではなく神のために、神の栄光のために生きることです。

 私たちは、このみことばを心に刻んでおかなければなりません。

 ヤロブアムがそうであったように、特に立てられている者は、ヤロブアムの道を歩まないように、このみことばを心に刻むべきです。

 願わくは、皆さんが、いつも主の御声に聞き従い、神の道を歩むことによって約束されている最高の幸せのもとで生きることができますように!

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 1.創1:27、 イザ43:7、 Tコリ10:31、 エペ2:10
 2.黙21:4
 3.申11:26、27. 28:1以下
 4.I 列2:1〜3
 5.I 列3:3〜4
 6.I 列11:1〜13
 7.I 列11:33
 8.I 列11:26
 9.I 列12:1、 創33:18〜20、 ヨシ20:7
10.John Gray,1 King.A Commentary,Trans.An Byung-mu (Chonan:Korea Theological Study Institute,1992),pp.466-467.
11.I ペテ2:9
12.ロマ8:6、7
13.Byung-do Kang.ed. A chokmah Commentary on the first book of Kings, (Seoul:Christian Wisdom, 1989),p.316.
14.I 列11:28
15.出32:1〜35
16.Thomas L.Constable,The Bible Knowledge Commentary on the 1 Kings, 2 Kings,Trans.Tyrannus(Seoul:tyrannus press,1989),p.81.
17.H.D.M.Spence and Joseph S.Exell,ed. The pulpit Commentary Volume5 I & II Kings(Michigan:Wm.B.Eerdmans Publishing,1962),p.272.
18.出29:9、 民3:10
19.レビ23:34
20.C.F.Keil and Delitzsch F.,commentary on the Old Testament Kings, Trans.Park Soo-arm(seoul:Korea christian culture Association,1987),p.219.
21.I テサ5:22
22.I 列14:7〜11
23.I 列15:34

 ※聖書各巻を示す略語は、「聖書・新改訳」のあとがきの略号表による。

 


 

参考文献表

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