「わたしを通してでなければ」
説教 : 尹 秉甲 牧師
『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
新約聖書 ヨハネの福音書 14:6 |
私たちは今、1年の最初の日、最初の時間を神さまにささげようとしている。
『イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。』
旧約聖書 出エジプト 13:2 |
今、多くの人々が初詣をしている。しかもそれは「自分の思いどおりになるように」がポイントである。しかし、年の終わりにどれだけ叶うであろうか?
今日の聖書の本文は、確実に願いが叶う秘訣である。よく味わい、受け止めよう。
イエスさまの自己宣言の内容とは?
(1)ご自身が「道」である。
『愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者で あるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。』
新約聖書 ペテロの手紙 T 2:11 |
『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎 え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』
新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13 |
ことばの通じない外国旅行をすることを考えてみよう。良い案内人が共にいるとしたら、全てをまかせて従うだけで、旅を楽しむことができる。明日の分からない不安な人生も、人生の全てを知っている案内人がいるとしたら、幸いであり感謝である。
(2)ご自身が「真理」である。
『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『
もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとう にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあ なたがたを自由にします。』
新約聖書 ヨハネの福音書 8:31〜32 |
旅先で、良い案内人が得られたとしても、従わなければ、全くいないのと同じであるように、人生に於て、イエスさまという案内人に従わないなら、会わないことと同じである。
「もしみことばにとどまるなら」は「自由」になる絶対条件である。
(3)ご自身が「いのち」である。
イエスさまは「死んだ人」を「生き返らせた」のである。それ故、葬式を行なわれた記事がない。
イエスは言われた。「 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわた しを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
新約聖書 ヨハネの福音書 11:25〜26 |
本文の「わたしを通してでなければ」とは?
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
旧約聖書 創世記 3:24 |
神である主は、人に命じて仰せられた。『
あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。
旧約聖書 創世記 2:16〜17 |
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
新約聖書 ヨハネの黙示録 22:14 |
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
新約聖書 ヨハネの黙示録 21:4 |
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
新約聖書 使徒の働き 4:12 |
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
新約聖書 マタイの福音書 7:13 |
幸せを願うなら、自分を捨て、イエスさまに従う決心を新たにしよう。
私を通してでなければ = Key word