梅の思い出花 はてさて今日は何にしよう。 豆大福に草餅、わらびもちも捨てがたい。 もしくは最中にようかん、どら焼き、蒸しまんじゅう。 ああ、どれもおいしそうで迷ってしまう。 「むぅ……」 商品ケースの前で橘 千暁(たちばな ちあき)は小さくうなり声をあげた。 地元でも有数の老舗であるこの『七福屋(しちふくや)』の和菓子は、一つ一つ職人が手作りした品として有名だった。 「むむむむむむ……」 そしてその名声に違わず、この店の菓子はどれも美味なものばかり。学生が常食するには多少苦しい値段ではあったがそれだけの価値は確かにあった。そのへんのスーパーなどで売っているものとは味が段違いなのだ。 「最中。いや、どら焼きも捨てがたい……」 千暁が右、左と首を振るたび、頭頂で結ばれた黒髪が尻尾のように揺れた。 激しい葛藤の中、爽やかな抹茶色が目に飛び込んでくる。ふと、先日のお茶会で「今度はうぐいす餅が良い」と傲岸不遜に言い放った青年を思い出した。 「あー……しょうがないなぁ」 甘党な青年はきっと何を買っていっても喜ぶだろうが……リクエストを思い出してしまったのだから仕方ない。 うぐいす餅が四つあることを確認して息を吸い込む。 「――すいませーん」 「……はぁい、少々お待ちくださいな」 千暁の呼びかけに、店の奥から上品な風情の老婆が現れる。渋い色の着物をまとった彼女は、若い常連の姿を見て「まぁ」と顔をほころばせた。 「いらっしゃいませ、千暁ちゃん。今日は学校帰り?」 千暁がセーラー服姿なのに気づいてのセリフに、へらっと笑ってみせる。 「うん、そうなんですよ。ついふらふらと呼ばれちゃって」 「今年は受験生だったかしら……あら、来年?」 「来年です、今から気が重くって」 「あらあら大変ねぇ……さぁ、今日は何にします?」 「えーっと、うぐいす餅四つくださいな」 「はい、すぐに」 言って手早く包まれるうぐいす餅。ふわりと香るきなこと抹茶の芳香が千暁の食欲をそそった。 思わずお腹が鳴ってしまいそうなのをごまかすために、目線をそらしあちこちを眺めていると、一枚のポスターに気づく。黒地に大輪の花のような光がまたたくそれが意味するのはただ一つ。 「花火、大会……?」 日付は今日、場所は近くの川べりの公園を示していた。 「もうそんな時期なんだ」 「あら、気づいた? そう、今晩だったわよね。見に行かないの?」 「すっかり忘れてたから、誰ともそんな話してないんですよね」 いつもだったら友人たちとの会話にのぼるのだが……誰も言わなかったことを考えれば、今年は皆すこんと忘れていたのだろう。 かと言って、今更連絡を取って云々というのも少しめんどくさい。今回はあきらめるかな……と一人ごち、視線を老婆に戻したのとうぐいす餅がつつまさり終わるのは同時だった。 「はい、どうぞ」 「ありがとうございます」 手渡された菓子と引き替えに代金を払う。 「こちらこそいつもご贔屓ありがとうございます」 「わたし、ここの大ファンですから」 本当は『わたし』ではなく『わたしたち』なのだが、そこは言わなくてもいいだろう。 片手に通学鞄、片手にうぐいす餅の入った袋を持ち直し、「よし」とつぶやく。 「じゃあ、また来ますね」 「またのご来店、お待ちしております」 深々と頭を下げる老婆にかるく返礼しながら、千暁は七福屋を後にした。 「ただいまー……って、あれ?」 帰ったはいいが、答えの返ってこない家に首をひねる。鍵が閉まっていたことからも予想はしていたが、どうやらみんな留守のようだ。 時刻は夕方にはまだ少し早い頃。一瞬聞こえていないのかと思ったが、どうにも人の気配が感じられないということは、本当に誰もいないのだろう。 「この時間に誰もいないなんて珍しいなぁ」 一応人様から町の旧家の一つとされている橘家は、屋敷も広いが人もそれ相応に多い。 千暁の両親、祖父母、両親の兄弟夫妻にお手伝いさんと、実に様々な人間がこの家にはいる。それが一人もいないなんて……そうそうあることではない。 「ま、いいか。ある意味好都合だし」 自分の部屋に鞄を置き手早く私服に着替えると、先ほどの戦利品を片手に台所に行く。そして茶棚から緑茶を取り出し慣れた手つきでお茶をつぐと、千暁は屋敷の縁側から出てすぐの庭園へと足を進めた。 目的は一つ。庭園の奧、屋敷からはちょうど隠れて見えにくい場所だ。そこにひっそりと隠れるように、自ら孤独を選んだかのような一本の梅の木がたっている。他の人間はまず足を向けないそこは、千暁にとって『特別な場所』だった。 季節は夏。梅など咲いているはずもないだろうにそこだけはなぜか梅の香りがただよってるように感じる。そしてそれは気のせいなどではないとわかっていた。 梅の香りは、『彼』の気配――。それを知っているから千暁はほがらかに呼びかけた。 「紅(くれない)、いつまで隠れているつもり? お土産、いらないの?」 《――ちぃか》 虚空からの声。そして強くなる梅の香。まるで消えゆく煙を逆再生するかのように一人の青年の姿が現れる。 黒絹のようにつややかな長い黒髪と、黒曜石のような瞳。どこか幽玄な雰囲気をたたえた面差し。空中に浮いていることを差し引いても、人間であるとは言い難い。 彼こそが自称『飛ばずの梅』で、自称『守り神』である梅の木の精(のようなものだと千暁は解釈している)だった。 《なんだ、学校はもう終わったのかえ》 人外のくせしてどこか人間の保護者のような物言いに少しだけ苦笑しながら、千暁は素直にうなずいて見せた。 「うん、終わったよ。それでね、学校帰りに七福屋に寄ったらお菓子がすっごくおいしそうだったんだよね」 《で、私の分も買ってきたと》 「そーゆーこと」 《ほう。いい心がけだな、我が主》 満足そうにうなずく守り神に「そりゃどーも」と返しながら、恒例のお茶会の準備を進める。 「……あ。七福屋さんにきいたんだけどね、今日は花火大会なんだって」 《花火か……もうそんな時期なのだな》 「それ、わたしも思った。……あれ。そういえば、昔紅と一緒に花火見たことなかったっけ」 もう十年以上前のことのような気がするが、その時は例になく二人きりで花火を見た記憶がある。 《そういえばあったなそんなことも》 「なんであの時だけ紅と花火見物したんだっけ?」 千暁の疑問にしばらくの後、紅が笑いをこらえるような表情で口を開いた。 《ああ、それはだな――》 屋敷の中から声が聞こえる。いや、声というよりも悲鳴……というか、泣き声だろうか。とにかくそれは間違えることのない自分の『主』の声だ。 定位置である梅の木の上でそれを聞きながら、紅はため息をついた。 つい先日、主と認めたばかりの幼い姿を思い描く。自分と同じ黒髪の下で、くるくると豊かな表情を見せる小さな童。 何代にもわたって『橘家』の人間を守護してきたが、あんなにも早く紅を見えるようになった者はいない。先代である少女の祖母でさえ、まみえたのは十代半ばだったと記憶する。 また、幼いゆえの無邪気さかそれとも生来のものか、紅に対する態度も今までの人間とは一味も二味も違っていてひどく興味深い。 紅の過ごした悠久の時の中で、まさしく『例外』と言ってもいい少女。ゆえに共に過ごした時は紅にとってはまばたきほどですらないが、それなりに少女を気に入っている。 だが一つだけ、不満があった――それは、少女が自分を呼ばないことだ。 紅が少女を主であると認めた以上、彼女が助けを求めればどんな小さなものでもその思念は必ずこちらに伝わるはずなのだ。 そう、呼ばれさえすればいつだって自分は彼女の元へ行けるのに。 一族の守り神と言っても、紅自身の意志で好き勝手に主について回れるわけではない。その辺の制約は神にだって、否、神だからこそある。 ……紅は梅の木を依り代にした神だ。逆に言えば、梅に縛られていると言ってもいい。 だから、主の意志がいるのだ。自分を守れという命が、主に認められることが必要不可欠なのだ。 なのにあの子どもときたら。 《……何故私を呼ばない》 自分でも知らずもれた不満にみちた低い声に、意外と入れ込んでいるらしいと気づいて苦笑する。 幼すぎるからこその弊害かもしれないと思う。それでも少しだけ悲しくなるのだ。自分が認められていないようで、忘れられているようで。 《はやく呼べばいいのだ》 あんなに泣いているのに。あんなに叫んでいるのに。それでもまだお呼びはかからない。この身を必要としてくれない。 全身全霊で何かを拒絶し、嘆く声に心が痛む。守ると誓い、主と認めた者が悲しむことは、必要とされないことよりもこの上ない苦痛だ。 《いつまで待たせるつもりだ、我が主》 呼ばないのが幼さゆえというならば、いっそ呼ぶまで放っておけばいいのだとささやく自分もいるが、主を決めた守り神の性かそう簡単にもいかない。 少女の意識はこちらを向かないというのに、自分の注意は持っていかれっぱなしで、はなはだ不公平だと思わざるを得ない。 しばらく後、少女の生の声は聞こえなくなった。ただその悲しさだけは未だ伝わってくる。 やがてがらりと戸を開ける音が響く。砂利を踏み、こちらに駆けてくる音。 ――もしや。 あわてて少女にだけは見えるように姿を顕在化させると、地に降り立った。同時に向こう走り寄る少女の姿が見える。半泣きのまま走ってくる少女の顔は、涙でぐちゃぐちゃだ。 「くれない〜っ!!」 濁点がつきそうなほどの声で紅の名を呼び、そのまま何かの弾頭のように飛びついてくる。音がせんばかりのジャンピングハグ。……少しだけ痛かった。 《……っ》 「くれないー、くれないーっ」 鼻をすすりながら嗚咽を続ける主を抱きしめ、なだめるように頭を撫でる。 《どうした、我が主》 「はなぁ、はにゃ……」 《鼻?》 しゃくり上げながらのセリフは聞き取りづらい。紅の間違いをご丁寧に修正して少女は泣く。 「うー、ちがうー。はな、び……はなびー」 《ああ、花火か》 そういえば、今日は花火大会だと噂に聞いた気がする。自分には関係ないことなので忘れていたが。 何度も頭を撫でるたび、少女の嗚咽が収まってくる。どうにかこうにか話が聞けるぐらいに落ち着いた彼女を抱き直し、もう一度聞き直した。 《花火が、どうかしたのか》 「はなび、いけないって……いう。……やくそく、したのに……っ」 《……?》 少しだけ落ち着いた少女の話によれば、どうも彼女は両親と花火大会に行く約束をしていたのだが、それを直前の今になって反古にされたらしい。急な仕事らしいから仕方ないのはわかっていても、どうにも感情に歯止めがきかなかったと言うところか。 「うー……」 ずずーっと鼻水をすすりながら、それでも感情を納めようと努力してるのだろう、必死に涙をぬぐう少女の姿がそこにあった。 そんなに、行きたかったというのだろうか。紅が苦しくなるほどの少女の悲しみは、単純なだけに根が深い。 しばらく黙考した後、その言葉は意外と簡単に紅の口から滑り落ちた。 《……一緒に、見るか?》 「ふえ?」 《花火を見たいのだろう?》 「みれるの?」 予想外の言葉だったのか、少女はぱちくりと目をまたたかせた。それに己が宿る木を指し示しながらうなずいてみせる。 《この木の上ならば、よく見えるだろう。お前が望むのならば私はそれを叶えるぞ、我が主よ》 紅の問いかけに、少女は問いかけで返した。 「……くれないは、みたい?」 《私が、か?》 「うん。くれないは、わたしがいうからじゃなくて、みたい? それともわたしがいったから、みたいの?」 子どもの言うことなので概要しかわからないが、要するに『自分自身の意志でそれを望むのか』ということを聞きたいらしい。 《私の主はお前だと言ったろう? 主が望むことを叶えるのが私だ》 その答えがお気に召さなかったのか、ぷぅと少女は頬をふくらませる。 「や! わたしは『あるじ』なんてなまえじゃないもん。ちあきだもん。くれないは、わたしが『あるじ』じゃないとすきになってくれないの? そばにいてくれないの?」 そんなのはイヤだ、とその瞳が言っていた。 そんなことは許さない、とその心が叫んでた。 それを見た瞬間、紅は全てを悟った。 ……『助け』なんてそんなもの、この子どもは望んじゃいなかった。この子どもは紅が思っていたよりももっと優しく、残酷だった。 対等であれと――。 一方的な情けなどいらない。恩着せがましい庇護などいらない。主と使役される者でなく、同じ目線であれと、そう言っていた。 主として認めるとか、そんな次元ですらなかったのだすでに。だから届かなかった。想いだけは届くのに、命令がなかったのだ。だって彼女は、最初からそんなこと思考の隅にさえ設けてなかったのだから。 守り神の存在意義を奪いそうな思考。そのくせそんなにも強い感情で自分を縛り付ける。側にいろと願う。こんな暴力的なくせに純粋で真摯な願い、初めてだ。 ……とんでもない子どもを主にしてしまったものだ。そう心中でつぶやいたものの、顔がにやけるのを止められない。面白いと、単純に思ってしまう。 《――いいだろう》 期待と喜びに震えながら、にぃと唇をつり上げて紅は笑う。 《ちぃ、私は私の意志で、お前の側にいよう。主である云々の前に、私が望んだから私はお前の力となる。それでいいか?》 「ちぃ……? それは、わたしのなまえ?」 《そう、千暁のちぃ。小さいのちぃ。嫌か?》 新たな契約に、少女は満面の笑みで首を横に振った。 「ううん。いい! くれないが、はじめてよんでくれたなまえだもん」 《……思い出したか?》 顔を真っ赤にして悶絶する主に、意地悪く笑いながら紅は問う。 「あああああああああ。そ、そんなこともあった、かなぁ!」 《そう、あったんだ。大泣きして走ってくるから何かと思えば花火大会の約束をすっぽかされたとか言い出してな》 「うううううううう!」 《しかも木の上に連れてってやったら興奮しすぎて落っこちそうになるし》 あれはあせったと告げる紅に、穴があったら入りたいという風情で千暁がうめいている。 あれから十ウン年、姿形は多少成長したものの、その根っこは変わらない彼女に安心するやら笑ってしまうやらだ。 あの日の花火は悠久の時の中見てきたどれよりも美しく感じたし、その記憶は今でも色あせることがない。 《……花火、見るか?》 「え?」 《どうせ予定もないのだろう。久しぶりにここで見ていけばよいだろう》 「予定もないってのは余計なお世話! ……でも、それもいいかな」 にっこりと笑った表情はあの日のままで、少しだけそれに安心する。 《なら決まりだな》 「うん! あ、そうだ。さっき言ってた七福屋のお菓子、うぐいす餅買ってきたんだよ」 食べたいって言ってたよね? と微笑む少女に、あんなくだらないかけあいでの一言を覚えていたのかと思う。 それにうぐいす餅は。 《……あの日も、そうだったな》 「ん、なに?」 《いや、気にするな。なんでもない》 一緒に花火を見たあの日、ぐちゃぐちゃの顔のまま何かを思い出したように屋敷に戻った千暁が持ってきたのも、うぐいす餅だった。 あの時その手にあったのはたった一つで、半分こに分け合ったのだった。あれがひどくおいしくて、あのぬくもりが恋しくて、自分は何度も菓子をねだってるのかもしれないと思う。 「楽しみだなぁ。花火、花火〜」 《ふっ、今度は落ちるでないぞ》 「もー、わかってるよ!」 記憶の中に、もう一つ思い出の花が咲くまでもう少し。 戻る |