飛ばずの梅 「うめのきのしたにひとがいるよぅ?」 そう言った幼い頃の千暁(ちあき)に、祖母は「まあ」とつぶやいた。 「千暁、あの方が見えるの?」 「きれーなおにーちゃんがいるー」 長い黒髪と整った顔を持つ青年は、千暁が見たこともないような服を着てそこにたたずんでいた。 無邪気に答える孫に、老婆はかみしめるように言う。 「そう、次はあなたなのね……まさか、こんなにはやく見えるようになるなんて」 「う?」 祖母の言葉の意味が分からなくて、少女は首をひねった。 「千暁は、あの人と仲良くなりたい?」 「うん。おにーちゃんきれー」 その時千暁の頭中では「きれい」→「すてき」→「仲良くなりたい」という図式が出来上がっていた。幼い子どもゆえの単純な思考とも言える。 それに祖母は微笑むと、千暁の頭をそっとなでた。 「そう。じゃあ挨拶してらっしゃい。いつも言ってるわよね、仲良くなりたいならきちんと挨拶をなさい、って」 「うん!」 素直にこっくりとうなずいて、千暁はころがるように駆けだした。 あんなきれいな男の人は初めて見た。ぜひ仲良くなりたいと思いわくわくしたのだ。 梅の木の下、どこか遠くを見つめる風情の青年の側に寄る。足音に気づいたのか、青年が千暁を見て楽しげに目を細めた。 《……これはまた、小さい童(わらし)だ》 楽しそうなその様子に敵意を感じず、千暁の機嫌はいっそう良くなる。 「こーんにーちはー!」 人には元気よく挨拶しなさい――祖母の教え通り声を張り上げれば、青年が驚いたように目を見開いた。 《見えるのか、童》 「?」 首をかしげた千暁に焦れたように、青年は少しだけ言い換えてもう一度繰り返す。 《私が、見えるのか?》 この人は何を言ってるのだろう。こんなに大きい大人の人が、目に入らないわけがないのに。 そう思いながら千暁は「おにーちゃん、かみのけながいねえ」と返す。するとその少しずれた回答が気に入ったのか、青年は小さく笑って見せた。 「えーっと……はじめまして、『たちばなちあき』です!」 《ああ、はじめまして。……童は橘(たちばな)の類系か。なぜここに?》 「おばあちゃんが、なかよくなりたいならあいさつしなさいっていったのー。んで、あいさつは、げんきよくするものなの」 千暁の説明に、青年は至極納得したようだった。 《なるほど、な。秋乃(あきの)殿がそう言ったならば間違いなかろう……次の主はお前ということか、童》 「ふへ?」 頭の中を疑問符で満杯にする千暁を、青年はそっと抱き上げ目線をあわせた。 《私の名は紅(くれない)という》 「くれない?」 《そうだ。……よろしくな、小さき我が主殿》 「紅ー、お茶と大福持ってきたよー。紅ー?」 世間様一般から言わせれば広いと評価される庭を、お茶と大福片手にうろつく。その姿はお世辞にも若い娘らしくないことは自覚していた。 だが、あの傲岸不遜な自称『守り神』が「食いたいからもってこい」とうるさいのだから仕方がない。 「紅ってばー」 何度か呼びかけてみるが答えはない。 「寝てるのかな……」 せっかくおいしいものを食べさせてやろうと温かいお茶まで持ってきたというのに……なんて奴だと千暁は一人憤慨した。 「まったくもう、私一人で食べちゃうぞ」 半ば本気で言いかけたその時。 《――それは困るのう》 やっと聞こえた声に、大きくため息をつく。 「人がせっかく持ってきてあげたのに全然来ないからでしょー?」 《食べ物の恨みは恐ろしいという言葉を知らないのかえ?》 「呼んでも来ない人の恨みなんて知らないよ!」 ふわりと、鼻先に梅の花の香りがただよう。 《……まったく、かわいくないことよ》 続いて千暁の前に、まるで消えゆく煙を逆再生するかのように一人の青年の姿が現れた。 《いつからそのようになってしまったのか》 黒絹のようにつややかな長い黒髪と、黒曜石のような瞳。千暁が幼い頃から変わらない青年がそこにいた。 「ほっといてちょーだい。私がかわいくないって言うなら紅はわがままでしょうが」 《心外だな。この程度のこと、当然の要求だろうに》 「まったく……ほら、お望みの七福屋の豆大福。お茶も持ってきたから一緒に食べよ?」 これ以上の話は平行線になるだけだと、諦めて千暁は大福を紅に見せる。それに目に見えて機嫌良くなる『神様』に、なんだかなぁと心中でつぶやいた。 目の前の青年と出会って、すでに十年以上がたとうとしている。その間に少しも変わることのない彼が紛れもない『人外』であり、いわゆる『神』であることを千暁は当然のように受け入れていた。 いつからここにいるのかなんて知らないし、聞いたこともないが、途方もない年月を過ごしてきたのだけは知っている。 また、なぜか代々橘家の人間――しかもごく一部のみ――にその姿が見え、姿を認識した者を『主』と呼び『何か』から守っていることも話には聞いている。例えば現在の主は他でもない千暁であるし、その前は千暁の祖母である秋乃だったという。 まあ、おやつ買いの使いっ走りなどをさせられていることを考えれば、いったいどちらが『主』なのかちょっと分からない状態であるのも否定できないわけだが。 二人並んで庭を歩き、梅の木の前に座る。そう、千暁と紅が初めて出会い、紅が千暁を主と認めた場所だ。 大福とお茶を用意して紅の前に置く。 「はい、どうぞ」 《すまんな》 「どういたしまして」 こうやって妙に素直なところもあるから、つい言うことを聞いてしまうのだろうなとも思う。 さっそく大福を片手に持ちながら、紅が真剣な顔をして千暁を見た。 《ちぃ、変わったことはないか?》 「うん、ないよ。平気」 《それならよいが……》 千暁をちぃ――小さいの意らしい――と呼ぶこの神様は、たまにそんな曖昧なことをひどく唐突に聞いてくる。それに「何もない」と返すのも、ずっと繰り返されてきた行為だった。 《……さすが七福屋、うまいな》 「そうだねえ」 そして次の瞬間には、全く違うことを言ってるのだ彼は。 けれど本当に何かがあったなら、紅はきちんと守ってくれる。そんな確信が小さい頃から千暁にはあった。だから千暁も紅にあわせて何もなかったように答えるのだ。 「そういえばさ、今日は学校で『飛梅』の話を聞いたよ」 《……飛梅か》 「うん。すごいよねえ」 『東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ』と詠いかけた主である菅原道真を慕い、一夜のうちに太宰府まで飛んできたという梅の話を、千暁はひどく興味深く聞いたのだ。 他の生徒はどうだか知らないが、なんと言っても家に『神様』がいる千暁である。本当にそんなことが起こってもおかしくないと思ったのだ。 《……あれはひどく忠義深かったからの》 「知ってるの?」 《少しな……私にはとてもまねできぬよ》 くっと笑うその姿に、違和感を感じた。 笑う、とも正確に言えば違うだろう。どう遠慮がちに見てもその笑みが浮かぶのは口元にだけで、瞳はどこか憎々しげですらあったから。 だから思わず千暁は尋ねた。 「紅は……」 《なんだ?》 「紅は、飛梅が嫌いだったの?」 真っ正面からの問いかけに、紅が少しだけ表情をゆがめたように見えた。 《……なぜ?》 「そう、見えたから。違ってたらごめん」 しばらくの思案の後、今度こそ紅は笑みを浮かべた。 《本当にちぃは、そういうことには聡いの》 「……ごめん」 《褒めてるのだ。何を謝ることがある》 言って、千暁の髪の毛をくしゃりとなでつける。そして少しだけ、彼は遠くを見つめる眼差しをした。 《そうさな、私は奴が嫌いだったのかもしれぬ》 「なぜ?」 少女の単純で簡潔な疑問に、男は歌うように答える。 《私に出来ないことをやるからさ。私が見つけられなかったものを見つけたからさ。あれが『飛梅』ならば私は『飛ばずの梅』だったのだ》 「それは、紅にとって悲しいことだったの?」 再び沈黙。じっと青年は傍らの主を見つめた。 しばしの時間をおいて、紅が口を開く。 《……そう、昔はな。今は飛べないのも悪くないと思っておる》 ふっと表情をゆるめたその姿に、千暁は少しだけほっとする。その表情に嘘偽りはなく、真実を言ってると分かったからだ。 「そっか」 よかった、と小さくつぶやいて胸をなで下ろす。この神が悲しんでいるのは、千暁にとってもひどく悲しいことだったから。 《まぁ、そんなわけだからまた大福をよろしく頼むぞ》 「へ?」 《もうないからの》 「はい!?」 慌てて横の紙袋を見れば、四個買ってきたはずの大福が全部なくなっている。自分が食べたのは一つだけだからつまり……。 「――くっ、紅のばかーっ! 一人で三つも食べたの!?」 《うむ、実に美味だった》 「あー、もうっ。信じられない!!」 《私は飛べぬからなぁ。主殿に買ってきてもらわねば》 「またこんな時だけそんな風に呼んで!」 《今度はうぐいす餅が良い》 「もう、わがままばっかり……」 千暁の怒りもどこ吹く風といった紅に、怒りよりも笑いがこみ上げてくるのはなぜだろう。 だけどそれを悟られるのはしゃくなので、わざと偉そうに言ってみた。 「しかたないなぁ、もう。ただし、一つだけ言うこと聞いてもらうよ?」 《この飛ばずの梅に出来ることならばな》 クスクス笑っているところを見れば、こちらの虚勢などお見通しらしい。それでも引っ込みがつかなくて、そのままの態度を続ける。 「大丈夫。全然平気だよ」 《ほう?》 言ってみるが良いと不遜に言い放つ神に千暁は告げる。 「勝手に、飛んでかないこと」 きょとんとした様子の神に、もう一度繰り返す。 「飛び梅みたく、誰かを追いかけてったら、ヤダよ?」 数回目をしばたかせた後、吹き出すのをこらえるような表情で梅を依り代とする神は言った。 《くっ……御意、我が主》 戻る |