番外編 満たされるまで

 自分が。
 知ることの出来なかった三年間。
 関われなかった三年間。
 側にいられなかった三年間。
 それは時々、泥のようにこの身をからめとる。


 ふとわき上がった、何かに引きずり込まれそうな不快な感覚に、舞墨静匡(まいずみ・しずまさ)こと東城真澄(とうじょう・ますみ)は眉をひそめた。
 そして「ああまたか」と、一人妻に気づかれぬように嘆息した。これは気づかれたくない、気づかれてはならない想いだから。
 東城家と決着をつけ、自由を、そして現在自分の妻として収まっている樹(いつき)を手に入れて三ヶ月。あそこまで苦労してつかみ取った「幸せ」(=樹との生活だが)は極上のもので不満などあろうはずもなく、甘すぎるほどの蜜月はゆるゆると過ぎてゆく。
 樹の側に身を寄せ、彼女を見て、抱きしめて……同じ行為を返してもらうことの、なんて幸せなことだろうか。こんなに甘い日々を真澄は今まで味わったことがない。
 なにせ種をまき終わるまでの三年間、ふれるどころかその姿を直に見ることすらかなわなかったのだ。時折長老たちから気まぐれのように――否、本当に気まぐれだったのだろう――もたらされる報告や、無事を知らせるための写真だけが「唯一の樹」だった。
 そんな状態でおあずけをくらい続けやっと想い人を手に入れた今――離せるはずもなくまた離す気もさらさらない。あまりにも飢え続けたものだから、仕事すら全て家でこなしているような有様だ。
 あまりに樹から離れようとしなかったからか、今も恋敵である樹の親友・宮小路綾子(みやこうじ・あやこ)には「あんたのは異常よ」と敵意もあらわに言われたが、負け犬の遠吠えだと気にしてもいない。
 異常だろうがなんだろうがどうでもいいのだ。またあんな呼吸すら出来ないような状況になりたくないだけ、樹だけがいればいい。
 ただ、最近彼女を見るたびに思い知らされることがある。それは、彼女に関してだけだが「自分はひどく独占欲と執着心が強い」ということだ。
 ……まったくもって今更ではあるが。
 そして意外に一途で純情だよな、なんて思ったりもする。(これまた樹に対してのみ)従兄弟である伸一(しんいち)に言わせれば、一途はともかく「純情」と呼ぶには自分のそれはあまりに黒い方へ特化されてるらしいが。
 まあなにはともかく。結局のところ自分は嫉妬をしているのだろう。自分と彼女が隔てられていた「三年」という月日と、そこに存在する色々なものに。
 こうやって彼女の側からひとときも離れたくないと願い実行しているのも、もしかしたら自分はそうすることでどうにか三年間を埋めようとしているのかもしれない。
 ……まったくもってくだらなすぎて笑える、自分に。


 ぱたぱたと。なにやら忙しげに室内を歩き回っている樹の姿が目に入った。日曜だというのに彼女には休む気があまり見られない。少しぐらい座ればいいのに、彼女は朝からずっと働きっぱなしである。
「……樹」
 なんとなしに、ぽそりと小さな声で呼んでみた。途端こちらに振り向いた彼女に、思わず驚いてしまう。
「ん、どうした?」
「……聞こえたのか」
「聞こえたのかって、お前が呼んだんだろう? 何言ってるんだ」
 気づくか気づかないかぐらいの大きさで呼んだ。聞こえたら嬉しいな、ぐらいだったの
だ。なのにしっかりとこの声を拾い「変な奴だなあ」と微苦笑を見せてくれる彼女が愛おしい。
「樹」
「だから、どうした?」
 ……その姿があまりに無防備で、そしてあの頃と同じ表情でいるものだから、少しだけいたずら心がわいた。
「ねえ。ちょっとこっち、おいで」
 手のひらでそっと彼女を呼び寄せる。
 何の疑いも持たずに近寄ってきた妻にうっすらとほほえんで見せた。多分人に言わせればタチの悪いと呼ばれるたぐいのものだが、本当に必要なとき以外彼女には表情すら嘘がつけないのだから仕方がない。
 そこからこちらの魂胆がばれる前にその細い手首をつかんだ。突然のことに驚いてびくりと体を震わせるのにかまわず、そのまま自分の方に引き寄せる。
「え!?」
 目をまん丸に見開いて、簡単に彼女はこちらに倒れ込んでくる。それをけが一つさせないように抱き留めながら、真澄は笑みをさらに深くした。
「つかまえた」
「え、ちょ、え? 真澄、いったいなんだ?」
「だから、つかまえたって言っただろう?」
「???」
 突拍子もない夫の行動に妻は目を白黒させる。そんな様子を楽しんで見ているはずなのに、ふと奥底の自分がささやいた。

 自分の側に、つかまえた。そのはずだ。そう信じたい。
 側に……本、当、に? 

 先ほどまで自分をさいなんでいた不快感がよみがえりそうになる。胸に広がりそうな苦い思いを、どうにか消し去ろうとするがうまくいかない。
 背筋をそっとはいのぼってくる不安を、ぎゅっと彼女を抱きしめることでどうにかやり過ごす。
 腕の中で樹がもぞもぞと動くのを、ぼうっとした頭で感じていた。
「……真澄、苦しいよ。これじゃあ、家事が出来ない」
 抗議の声に、やっと思考がクリアになる。
「――っ。…………日曜日なんだ。家事なんて、しなくてもいいさ」
 あわてて普通を装い、わざと茶化した口調で言った。
「馬鹿。しなくていいわけないだろ? 家事は毎日するものなんだから」
 彼女は、気づいてないだろうか。自分の変調に。そうであると願いたい。
 樹は、今、ここにいる。それだけでいいだろうと自分を落ち着かせた。
 大きく息をついて、彼女を見つめる。
「せっかく俺も休日なんだ。たまにはいいだろう?」
 胸元の妻は、頑固にまだ言い張った。
「だめだ。やることはやらなきゃ」
 それに……と続ける。
「それをするのが『私』の仕事なんだから」
 どくりと、心臓がひときわ大きくはねた気がする。
 ああ、今日の自分はよほど不安定らしいと、どこか他人事のように真澄は嘲笑った。
 こんなことに反応するぐらい、不安になってるなんて。


 くつりと喉を震わせると、樹がいぶかしげに眉をひそめていた。
「真澄……?」
「――ねえ、いつから?」
「え……?」
 きょとんとする妻のあごに指をかけ、顔を持ち上げる。
「それ。『私』って言い始めたの」
 そのまま指はほおをすべり、後頭部へ移動してゆく。
 されるがままになりながらも、なんのことだかわからないといった表情をする樹に問い続けた。
「昔は『僕』だったろう? でも『静匡』が会いに行った頃にはもう『私』になってた。……ねえ、いつから?」
「え。わかん、ない……」
「そう。……じゃあ、なんで?」
 ぴくんと樹の体がはねる。明らかに、聞かれたくなかったという風に。
 それにすうっと体中に熱がひいていった。それとも、熱くなりすぎてわからなくなっただけ?
「何か、あったんだ……」
 へえ……と我ながら冷たい声でささやいていた。
 樹の表情が、どんどん暗くなる。悲痛なまでにゆがんでゆく。
 ああだめだ。こんな風に苦しめたいわけじゃないのに。
 それでも、止められない。不安すぎて、苦しすぎて止められない。
 自分が知ることの出来なかった三年間。
 自分が関われなかった三年間。
 自分が側にいられなかった三年間。
 それは途方もない不安を真澄に与える。
 自分以外の誰かのために彼女が変わったのではないか、本当に彼女は自分の側にあり続けてくれるのかと。
 それでも彼女以外いらなくて、彼女が欲しくて、飢えがどんどん増してゆく。
「真澄、どうして……?」
「そう『どうして』。それを俺は聞いてるんだけどな。教えてくれないのか?」
 なぶるような口調に、樹の瞳が揺らぐ。やがて、かたくなに結ばれていたその口が開かれた。
「わた、しは……」
 ふるえる彼女をに沈黙で先をうながす。樹は目を堅くつぶって先を口にした。
「私は、『僕』を消したかった」
「……?」
「お前が死んだのは、『僕』のせいで、でも『僕』は死ぬわけにいかなくて」
 それは、自分が仕掛けた罠。けして『真澄』という人間を忘れないようにするための、確信を持ってつけた傷。
「……いつからだろうな。気がついたら、『私』って言うようになってた」
 やがて、ほとりと涙が一粒こぼれた。
「自己満足だってわかってる! それでも、それでもそうするしかなかったんだ……っ!」
「――っ!!」
 その瞬間、一気に感情が戻ってきた。
「俺、は……」
 声を出すことなくただ涙を流す妻に自分を殴りたい衝動に駆られる。だが、それをする前にやることがある。泣き続ける彼女のと細い身体をそっと抱き寄せた。
「ま、すみ……?」
「……悪い。少し、おかしくなってた」
 樹の腕が、真澄の背に回る。涙声のまま彼女は尋ねてきた。
「どうしたんだ、真澄?」
「なんでも、ないよ」
「なんでもなくない。ちゃんと教えろ」
「……だけど」
「私はそんなに、頼りないか。お前にとって信じられない、どうでもいい奴なのか……?」
「――そうじゃないっ!」
 どうでもいい奴ならこんなに悩むものか。
「なら、教えて」


 結局、全て聞き出された。言い出したら頑固なのは昔から変わらない。そこにまた少しほっとする自分を見つけ自己嫌悪に陥った。
 ……ああそうだ。初めてかなわないと思ったのもあの「どうでもいい奴なのか」という台詞を言われたときだった。
 全て聞き終わった彼女は、まだ少し涙の残る顔で微笑んだ。
「馬鹿だなあ、真澄」
「自分でよくわかってるから改めて言わないでくれ」
 頭を抱えた真澄に、樹は少し困ったように言った。
「……埋まらない三年に、不安なのはお前だけじゃないよ?」
「でも俺は、別に何も変わっちゃいない。かごの中に閉じこめられて、それが嫌で無理矢理ぶち壊してきただけだ」
 あいたくて、あいたくて。欲しくてたまらなくて、こうやって無理矢理手にしたというのに。確かにつかんだはずのその手が、本当につかんだのかどうかすらわからなくなってるのだ。
「私もそう変わっちゃいない。そう簡単に変わるもんか。お前もそうだというならな。だが……そうわかってても、私もやっぱり不安だ。だから」
「だから?」
「こうして一緒にいるんだろう?」
「…………」
「埋まるかもしれない。埋まらないかもしれない。それでも、お互いの想いを聞くことは、出来るはずだ。私もお前が欲しいと思って、側にいたいと願った。それじゃあだめか? 三年の代わりになるように、側にいさせてはくれないのか?」
 真摯な瞳に見つめられて、ほおがゆるんでゆくのがわかった。どんな愛の言葉にも勝るような懇願に、自分の不安がどんどん薄れていくのがわかる。
「…………まいったよ。二回目の降参だ」
 泥のようなこだわりは、今や胸から消え去っている。
「そうだな。樹の言うとおりだ。俺もお前が欲しくて、側にいたいよ」
 空白の三年が満たされるまで、否、満たされたとしてもこの手は離せないだろう。
「なあ樹。側にいてくれて、ありがとう」
 彼女は確かに、自分の側にいる。


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