■■■act.3
肩にかかる髪の毛を払った手首に巻かれた布から無数の切り傷がのぞく。
アナスイはウェザーの目線に気が付くと
「別に自傷壁ってわけじゃあ、ないぜ?」
と己を嘲るように顎を反らせてみせた。
送られた拘置所で弁護士が、精神鑑定所でカウンセラーが、
奇異の目で自分を見る奴等は皆
<相手の痛みを考えろ>
と言った。
突然命を奪われ、バラバラにされた被害者の気持ちを考えるべきだ、と。
だから自分の胸にナイフを突き立ててみた。
手も足も切り落として見るつもりだった。
「でも“コイツ”が止めちまう」
アナスイはかざすように手を上げ、腕からのぞく光る人型を見つめた。
「相手の事は俺が止めるまもなく分解しちまったクセに俺の傷は骨や筋肉に届く前に止めちまう。
・・・だが問題はそれよりも」
溜息のように言葉は続く。
「何の感情も湧いてこないんだ。思い出せもしない。
何に、何のためにこうなったのか。
・・・・・なんで“コイツ”が出てきたのか」
忘れちまった。
アナスイはちいさくそう言い、前に立つ男に目を移す。
ウェザーは黙ってアナスイの話を聞いていた。
同情するでもなく、けれど奇異の視線をむけるでもないウェザーの様子にアナスイの表情が少し変わった。
「妙な奴だな、お前」
と、アナスイは皮肉めいた笑いを浮かべた。
ウェザーに案内された<音楽室の幽霊>をアナスイはすぐに受け入れた。
もとより騒動の種になりやすかった彼にとって、邪魔をされず過ごせる場所なら何処でもよかったのかもしれない。
「驚いた、よ」
こっそり耳打ちをしてきたエンポリオの言葉にウェザーは軽く首をかしげる。
「ウェザーの言う事をね、彼が素直に聞くって思わなかったから」
「・・・覚えのある“音”を感じた。多分あいつも、だ」
ウェザーはTVガイドをひろげたまま答える。
意味を汲み取れずにいる少年に
「わからなくていい」
とウェザーは付け足した。
ふいに、音色が聞こえてきた。
アナスイが本棚から楽譜を見つけてピアノの鍵盤を叩きだしたのだ。
ウェザーとエンポリオの視線に気付き、アナスイは
「意外か?」
と指を動かしながら呟く。
「昔、親に習わせられたんだ。
楽譜と鍵盤の関係がわかったら、つまらなくなってやめちまったけどな」
立ち上がったウェザーが棚から一つの楽譜を取り出す。
「・・・これは、弾けるか?」
ウェザーが音楽に興味を示したのが意外だったのかアナスイは軽く片眉を動かす。
「ピアノの講師曰く
“あなたのピアノはまるでゼンマイ仕掛けの時報の様ね”だそうだ、ぜ?」
ウェザーは構わない、と楽譜を譜面置き場に置くとアナスイはフン・・・、と口の端を軽く笑いの形に歪めた。
アナスイの繊細で長い指が鍵盤を弾き出す。
曲が奏でられ始めるとウェザーは壁にもたれ瞳を閉じた。
想像をしていなかった光景にエンポリオは只あっけにとられているばかりだった。
アナスイが弾く曲が何であるのか、ウェザーが何故この曲を選んだのか、少年にはわからなかった。
・・・どこか懐かしい、少し切ない旋律の、美しい曲だった。
おそるおそる覗き込んだ楽譜のタイトルには
<プレリュ−ドの15番>
と記されていた。
■■■act.4
エンポリオ少年の表情が最近明るい事と対照的にアナスイの機嫌は悪かった。
アナスイは朝からピアノの上で寝そべりイライラした様子で爪を噛んでいた。
アナスイの同室の男が突然消え、戻ってきた時には記憶を失っていたのだ。
《ホワイト・スネイク》
正体がわからない“水族館”の支配者の仕業である事は明白だった。
アナスイはこの出来事を自分への挑発だと受け取ったようだった。
「偶然だ」
ウェザーは静かにアナスイを制する。
多分、同室の男はホワイト・スネイクの「何か」をたまたま知り、記憶を奪われたのだ。自分たちとは関係のない部分で。
「お前がホワイト・スネイクに倒されたら記憶だけでなく能力も抜かれる。二つとも奪われたら人は死ぬ。」
「じゃあお前は何故記憶だけを抜かれて生かされているんだ?」
苛立つアナスイの言葉は荒くなる。
「俺は、ホワイト・スネイクとやらの目的もお前達の目的もどうでも良いんだ。
ただ試されているような状況が気にくわねぇ」
「・・・・お前が倒されるのは勝手だがお前の能力が敵に使われるのは都合が悪い」
ウェザーの静かな話口調が今は逆効果だったのかアナスイは更に表情を険しくし身を起こす。
「同室の男がやられたのは偶然、だ」
ピアノから降りるのを妨げるような形で前に立つウェザーをアナスイは刃物のような視線でにらみつけた。
「俺に、指図を、する、な」
張り詰めた空気がピアノ室を覆う。
途端
「こっちだよ、この隙間に入ってみて・・・」
エンポリオ少年が部屋に飛び込んできた。
蝶が、舞い込んで来たような、ふわりとした感覚があった。
「すごいのね、この部屋、これがあんたの能力ね」
透き通るような声がして、見知らぬ顔がピアノ室に現われる。
深い海の青を映しこんだような、大きな瞳の少女だった。
ウェザーは静かになったピアノの上に気が付き、アナスイの様子に内心少々驚く。
彼は、少女の姿を凝視していた。
衝撃と高揚の入り混じった表情で、瞬きもせず、ただ少女をずっと見つめていた。
後に彼女の名前が“空条徐倫”である事、父親の記憶をホワイト・スネイクに奪われた事、父を救うため刑務所に残った事、彼女がホワイト・スネイクと戦うつもりである事を少年から聞かされた。
「ウェザー・・・もし彼女・・・お姉ちゃんが行動を起こしたら・・・協力してくれる?」
少年の問いに、ウェザーは軽くうなづく。
離れた場所に座るアナスイを少年は横目で見て
「アナスイには・・・期待しない方が、良いよ、ね?」
と小声でささやいた。
アナスイは頬杖を付き、空中を見つめながら、なにかをつぶやいているようだった。
その唇が
CUJO JOLYNE
と綴っているのを、ウェザーだけが気が付いていた。
彼女が出て行った後も部屋には春の日差しのような香りが残っていた。
雨の音が止んだ気配が、した。
終
2003.3.20
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