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1995年 4月1日 より  最終最新日2003年6月11日 編集者 能戸 庄平

函館青色申告会 船見支部納税貯蓄組合

資料の収集に協力して下さった皆さん

函館市 郷土研究クラブ

久保田 実

茂 木 治

岩 川 準

 自宅の窓より函館山を望む。

函館について

 函館に人が住み着いたのは いつかは判然としないが、谷地頭の電停付近や、住吉町に散在している遺跡から、約7000年前の底のとがったのを特徴とする土器が発掘されているし、それより2000年程下って、青柳町・アサリ坂・天祐寺・相生町など、函館山山麓にも遺跡が散らばっている。

 以上の事から、海底火山の噴火によって出来た函館山山麓に、離島時代から、先住民族と呼ばれた人々が、生活していたことがわかる。

 また、エゾ館山とアイヌに関係のある地名や、函館の古名「ウスケシ(湾の端)」は、アイヌ語であるなど、アイヌとの関係や、箱館・函館と、地名となった。和人の館(宇須岸館)を最初に築いた河野 政通など、古来より魚介類が多く、気候温和で、人々にとって大変住みやすい土地で在ったと思われる。

手書き地図

  史跡  1.西本願寺函館別院墓地

 

明治20年(1887)の大火の後.西本願寺函館別院が境内の一部と引替えに船見町共同墓地のー部をもらったもので、この墓地には.塀川乗経(西別院開墓、願乗寺川向堀その他)の墓及びその一族の墓、ジヨン・ミルン(地震学者)とその妻トネ(塀川乗経の長女)の碑がある。

 

 

 

2 .厚生省函館検疫所台町措置場

 

明治18年(1885) コレラ防疫のため、当時の開港場6港に消毒所を設けた際の一つで、当時の建物で現在するのは、この建物(当時事務所)と長崎のものだけという、翌明治19年には隔離室も造られ(S44 昭和町永全寺納骨堂として移築)検疫に従事したが.昭和43年海岸町の港湾合同庁舎に移転、この建物も研修所となり、当時の面影はうすくなり、今(2001.11.15)荒れ放題で見る影も痛々しい。

 

 

3.南部陣屋箱館詰藩士の墓

 幕府直轄時代、蝦夷地に出兵した南部藩士のうち病死した者たちの墓で、明治39年以来盛岡出身者有志で弔ってきたが、昭和12年散在していたのをここにまとめ供養が行われた。12名がまつられている,(高龍寺墓地にも、南部藩南陣疫者供養碑(天保5 1834) がある)

4.地 蔵 寺

 

古くから山背泊地蔵寺として親しまれてきた。文化年間 1804〜07)から現在地にあったといわれる。本尊は、延命地蔵大菩薩で天保10年(1839)の作、極彩色の3m近い木像である。石像、石仏が多いが、前庭の「有無両縁塔」(元治元 1864)が目をひく。この施主が遊女屋25軒で、遊女の供養として建てたもの。なお寺前に、高清近太夫の墓(万延元 1860)などもある。

 

 

5.中 華 山 荘

「中華義塚」(光緒3 1877・MI0)を中心に、明治1 0年前後からの墓地であるが、遺骨は本国に持ちかえる風習があり、現在は明治21年のものを最古に、数基あるだけである。なお、敷地内に総ヒノキ造りの祠堂がある。

 

6.外 人 墓 地

 通常、プロテスタント墓地・ロシア人墓地を指すが外国人の墓があるのは以下の墓地である。

  ◎ プロテスタント墓地

    安政元年(1854)ペリー艦隊の水兵(ジェームス.G.ウォル 50才)、G .W.レミック(19才)の墓がー番古く、この2人のための弔歌碑(S.29 1954)もある。その他、英艦火夫(安政6 1859)、ドイツ領事ハーバー(明治7 1874函館公園裏で殺される)、イギリス人ジェームス.スコット(大正14 1925機械木材工場倉庫業)、デンマーク領事の墓等、41基ある。

 

  ◎ ロシア人墓地

    安政6年(1859)の2基を最古に、40数基ある。(うち明治以前26人)サルコフ(明治7 1874 官立字技教師)が急死したため、函館病院でエルドリッジによって、初の病理解剖、ポポフ士官候補生外水兵1名 (文久2 1862 乗艦が沈没、墓の高さ4m余前に折れた錨を置く)等がある。他にチャソニア(小礼拝堂)もある。

 

.高 龍 寺

 寛永10年(1633)福山の法源寺4代芳龍が、亀田(現ガス会社付近?)に一宇を建立したのに始まる。宝永3年(1706)大黒町(弁天4付近)に移ったが、数度の火災にあい、明治12年(1879)現在地(函館市船見町21番11号)に移った。だが明治21年(1881)焼失したため、明治24年仮本堂(現庫裏)を建てた後、19世上田大法住職の努力により、明治33年(1900)現本堂を建立、その後昭和8年(1933)位牌堂完成まで諸堂が建立されてきた。

  曹洞宗 国華山 本尊 釈迦無尼仏

 総ケヤキの本堂や山門の彫刻、山岡鉄舟の桂掛(本堂)、五百羅漢像(開山堂)など見るべき物が多いが、特に松前藩の家老(蠣崎波響)の「釈迦湟はん図」(文化8 1811)は道文化財に指定されている。又、前庭には碑・塔が多く「傷心惨目」碑(明治13 1880)や「聖観音」像(嘉永2 1849 松前寿養寺にあつたもの)が注目される。

墓地には、古河石松軒(江戸中期のエゾ地探検家)、渋田利右衛門(幕末教育)、中川五郎治(種痘)の子孫等古い墓が多い。

 

8.山

 真言寺の下側附近である。寛永11年(1799)幕府直轄時の国防施設のーつで岬付台場・立待岬台場と共に造られ、矢不来(やふらい)台場と相対して湾口を守った。 南部藩預かり場所で(天保15年 1844)の記録では、三百目筒二挺とある。押付台場については、正確な場所は不明であるが、面積約300坪、五百目筒-挺、百目筒一挺あったといい、近くに炎硝蔵(火薬庫)があったのが地図(函館市立図書館にて)に見えている。

 

9.称名寺

 

  正保元年 1644)伊勢の円竜上人が亀田(現八幡宮付近)に阿弥陀庵を建てたのを始めとする。元禄3年(1690)護念山称名寺と公称した。宝永5年 1708)寺町(現弥生小学校)に移ったが、明治12年(1879)焼失、明治14年(1881)現在地に移った。しかし明治29年、明治40年と焼け、遂にやけない本堂ということで、昭和4年 1929)現在の本堂がコンクリートで造られた。

浄土宗 護念山 本尊 阿弥陀仏

仏像として、本尊のほか十一面観音(藤原期 市文化財奥の院)、円空仏(本堂)その他がある。又、奥庭に、本堂最古の金石文の板碑("貞治の碑" 則治6 1367)、芭蕉句碑("汐干塚"安永2  1773)、宝筐印塔(文化年間 ペリー一行のスケッチにあり)などがあり、墓地には、河野政通供養塔(宝暦3 1753)高田屋一族(前庭に高田屋嘉兵衛の顕彰碑(S31 1951)がある)、福士成豊(新島襄援助者、日本最初の気象観測)、浅田清次郎(浅田屋経営、函館公園設計)、西川晩翠(幕末教育)ら先覚者の墓がある。なお、墓地奥、納骨堂前の子安地蔵と有縁無縁法界堂(安永2 1773)はぺリー一行のスケッチにも見えている。又、安政6年(1859)ホジソンが一室を借りてイギリス領事館としたこともある(元治元 1864まで)。

 

10.実 行 寺

 明暦元年(1655)僧清寛が草庵を造ったのに始まる。元禄3年(1690)庵主日浄が福山法華寺末としたので日浄が開山とする。正徳4年(1714)実行寺と公称旧称名寺の隣り(現弥生、19 弥生小西道営高層住宅付近)に移った。文化13年(1816)、明治12年(1879)と焼け、明治14年(1881)現在地に移り、明治17年(1884)身延山末となった。明治29年(1896)、明治40年(1907)焼失、現在の本堂は、大正7年(1918)完成の中部ケヤキ土蔵造りである。

日蓮宗 -乗山 本尊 一塔両尊四菩薩 日蓮大菩薩

 本堂前の北辰殿妙見堂にまつられている妙見菩薩は、もと高田屋嘉兵衛の守護神だったといわれる。前庭には「七面山」石(文政12 1829)、大石灯龍(慶応3 1867 秋葉講 箱館や組)、日持像(昭2 7 1952)などがあり、墓地には徳川藩戦死之霊墓(明治1 0 1877 開拓使士族沢田)もある。この寺は、ベリー来航時写真班の宿舎となり、又、安政5年(1858)から翌年まで、ゴスケヴッチがロシア領事館とした。なおこの寺は「碧血碑」と関係が深い。墓地の裏山の奥に、日持伝説のーつ「夜泣石」がある。

 

11.厳 島 神 社

 

 箱館の西北端に弁天崎があった。この崎は、初め無名の崎であったが、弁天堂を設けたので地名となった。この弁天堂が現在の厳島神社の創基であり、弁天町の地名の由来である。勧請の年紀はよくわからないが、亀田ハ幡宮の神主が津軽南部などの出稼漁業家の豊漁祈願に毎年春から秋の漁期に出張してきたのが始まりといわれる。その後神主もこの地に永住するようになり、見張り小路の突当りに神職の屋敷もできた、(「津軽一統誌」――寛文10年(1670)の見聞書――にも弁財天のことがでているので、300年以前からここにあったことがわかる)

享和元年(1801)に海中を埋立ててー島を築きあげ社殿を移し(現ドック入口付近)、参拝の小さな石橋を架けたが、文化9年(1812)この地が官の倉庫地となったため、少し西に移され、更に安政4年(1857)には弁天台場構築の際用地となり、社殿も神職の屋敷も召上げられた。その後元治元年(1864)台場の堀端にそって社地を得たが、それも明治29年(1896)の函館港改良工事でそめー部が道路用地となり、社地が二カ所に分割され、今見るような貧弱なものになった。祭神は、市杵島姫命で、始め弁天社は明治4年(1871)に市杵島大神と称し、明治25年(1892)に現在の厳島神社と改称した。境内には、手水石(文政6 1823)、稲荷鳥居(天保4 1833)、鳥居(天保8 1837)、稲荷手水鉢(天保9 1838)、方位石(嘉永7 1854)、狛犬(慶応4 1868)などがあるが、奉納者は、下関・境・大阪・富山などにわたり、商人の信仰を得ていたことがわかる。

 

12.弁 天 台 場 跡

  弁天崎には文政以来松前氏が築いた小規模な台場があったが、北辺防備が急となった安政元年(1854)箱館奉行竹内保徳、堀利熈らが箱館警備に関して台場築造を決議し、予算10万両を以って安政3年(1856)に起工し、7年後の文久3年(1863)竣工した。その形は不等辺六角形で、総面積116.11坪(383.163u)、周囲の高さ33尺(10m)の石垣をもち、土塁2,350尺(780 m)、東南端にトンネル式通路をもつアーチ型の入口を備え、砲眼15(60斤砲2.24斤砲13)を備えていた。設計は箱館奉行諸術調所教授武田斐三郎(五稜郭設計者)、工事は松川弁之肋、備前善三郎等が担当した。箱館戦争後、函館府兵函館隊 護衛隊の本営となり、函館砲隊も守備したりしたが、明治28年(1895)弁天台場地先理立が決定、翌明治29(1896)から解体にかかり4年後の明治32年(1899)にはすっかり姿を消し、その他は、函館ドック株式会社敷地のー部となり、面影はまったくない。

 

13.旧ロシア領事館

 安政元年(1854)の旧露和親条約により、安政5年(1858)ゴスケウッチが初代領事として、実行寺内を仮領事館としたが、翌安政5年領事館を現在のハリストス正教会(元3)に建て同地に聖堂.ロシア病院も併設した。しかし火災にあいその居所を転々としたが、明治34年(1901)現在地に移った。明治40年(1907)焼失。その後明治43年(1910)に建てたものが現在の建物である。ロシア革命後、大正14年(1925)新ソ連領事着任、そして昭和19年(1944)10月最後の領事アレキサンドル・ザビリエフが去るまで領事館事務を執行した。昭和39年(1964)外務省から市に譲渡され翌40年(1965)5月、道南青年の家として、使用した事もある。

 

14.山 上 大 神 宮 

 社記によれば、天和2年(1682)、いまの弥生町の一角にまつられたのがはじまりで、明治7年(1874)にそれまでの社名「神明宮」を「山上大神宮」と改め、明治11年(1878)11月の出火に類焼し、後2 .3個所、移転したが明治35年(1902)に現在地(函館市船見町15番1号)に移った。祭宮は伊勢神宮である。

 

15. 太 刀 川 米穀店

 

 国の重要文化財である。初代太刀川善吉が、明治34年(1901)に建てたもので、レンガ積、漆喰塗、2階建の土蔵造り、洋風を加味した不燃質和風式店舗で、旧金森洋物店(現郷土資料館)と同じように耐風耐火に気を配った建物である。正面を鋳鉄の丸柱2本でささえ、開口部を正面に集中している。

 内部は、ケヤキ、カツラを豊富に使用し、桁には60p以上もの用材を使っている。これらの木材は、相当の年数をかけ、新潟・釧路方面から集められたものである。又、各所に見られる彫刻もすばらしく、ケヤキの輪島塗が美しい。特に2階は、中廊下にカツラの巾90p長さ360pの床板を使用し、床の間の壁に石炭を粉砕フルイ分けしたものを使うなど注目される点が多い。なお、この建物隣りの木造洋館は、応接用洋館として大正4年(1915)に建てた手のこんだものである。

 

16.弥 生 小 学 校

 明治15年(1882)開校した旧市内唯一の同一校名をもつ学校である。現校舎は昭和13年(1938)の竣工である.途中大正13年(1924)7月から、昭和13年12月まで、男子校であった。女子は近くの商船学校跡に移り、弥生女子小学校と呼んでいた。この付近は、明治12年(1379)12月の大火まで寺町と呼ばれ、弥生小の東部分に浄玄寺(現真宗大谷派函館別院(単に東別院とも言う。)西部部分に称名寺、坂をこえた現道営高層住宅付近に実行寺が並んでいた。

 

17 己巳役海軍戦死者(船見町旧官修墳墓)

己巳役(箱館戦争の中、明治2年(1869)の戦)で戦死した海軍の人々の氏名を彫ってある記念碑であり、お墓でもある。この石もまた、高田屋々敷にあった亀石の一部である。又、この海戦でなくなった方の個人の墓三基と、海難により死亡された方々の供養碑が二基ある。

 

18. 函館西警察署跡

 

江戸時代、沖の口番所があった所で、松前藩が箱館へ出入りで船舶、積荷、旅人を検査し、所定の税をとった所である。明治2年(1869)に海官所、翌3年に海関所、明治8年(1875)に船改所(M20まで)と改称した。その後、明治18年(1885)函館水上警察署ができたが、昭和27年(1952)から函館西警察署に変わった。なお現在の建物は大正15年(1926)のものである。海関所時代に郵便役所が明治5年(1872)7月に置かれ、郵便業務を行っていた。

 

19中華会館

 戦災で、横浜・神戸にあった中華会館が焼失したので、日本唯一の中華会館です。

 安政元年(1854)開港以来、中国人も多数海産物の仕入れに往来し、華僑と呼ばれていた。しかし、本国の保護が薄く弱かったので.華僑相互の親睦や商取引きのために、明治中期に「道徳堂三公所」を建てたが、明治40年(1907)8月の大火に焼失、のち再建をはかり、約3万円の金額を投じ、淅江省から大工、彫刻師、漆師ら43名を呼び、約2年かかって明治43年(1910)12月竣工した。中央の壇には、関帝が、まつってある。

大正中期から昭和初期にかけては、中華民国の領事館だったこともあった。

 

20.新島襄海外渡航乗船之処碑

 同志社大学の創始者新島襄は、21歳の時箱館に来、ニコライ(ハリスト教会)邸に寄寓していたが、そこで知合った福士宇之吉(成豊)の手助けにより、元治元年(1864)6月14日夜半、この付近からアメリカ船ベルリン号に乗り込みアメリカに向った。(M7 1874 帰国)

 この記念碑は、昭和29年(1954)市と同志社大共名で建てたが、その前昭和27年に付近の倉庫の壁に記念板を掲げていたので、あわせてこれも台石にはめ込んである。碑文には「男児志を決して千里を馳す自ら辛苦を嘗めて豈に家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭尚夢む故国の花(原漢文)」とある。

 

      .旧函館区公会堂(国指定有形文化財昭和49年5月指定)

     

 

 明治40年(1907)8月の大火で、当時富岡町(現弥生町)にあった町会所が焼失し、区民集会の場がなくなったので、同年9月、区民有志が再建の募金に努力したが、思うように集まらず、立消えになりかかった時に、初代相馬哲平氏から5万円の寄付があり、明治42年5月に起工し、翌年9月に、約5万8千円をもって竣工した洋風の建造物である。なお、建築以来70年もの間雨風に晒され、傷みがひどいので、昭和55年から3カ年にわたり保存修理工事が行われ、昭和57年11月に終了した.

 

      .元町公園

 元町公園は、昭和45年(1970)に都市設計され、昭和55年から整備に着手、昭和57年(1982)10月に洋風公園として開園した。          元町とは、明治6年(1873)10月に正式町名となり、その理由として、この地が函館の行政の中心として、享徳3年(1454)、河野政通を築いた処と言われているし、江戸時代に入ってから.松前藩の亀田役所(後に箱館役所)が置かれ、幕末期には、徳川幕府による奉行所になり、明治期には開拓使の所在地になった処でもある。

 

    旧北海道庁函館支庁々舎(渡島支庁々舎)

   

徳川幕府がエゾ地を直轄するにあたり、(前幕領時代寛政2年.1799.1月-文政4年・1812・12月)箱館奉行役宅として享和3年(1803)春、新築落成した。その後一時期、松前藩奉行所として使用されたが、嘉永7年(1854)3月、米国と和親条約を結んだことから、箱館が開港場の一つとされ、再び幕府の直轄地(後幕領時代嘉永7年6月-慶応4年・1868・閏年4月)とした時に奉行所として再使用され、明治時代を迎えた。明治時代になっても役所として使われ、名称は種々変わったが、所在地は同じで、明治26年(1893)10月に改築した。それが、明治40年(1907)8月の大火で焼失、翌々年10月、正面のみルネッサンス風の木造2階建の北海道庁函館支庁々舎が完成した。 大正11年(1922)8月、渡島支庁と改称し、昭和32年(1957)5月、支庁が五稜郭町に移るまで使用、その後は函館市に譲渡された。   昭和54年(1979)11月、隣接のレンガ造り書庫とともに、市有形文化財の指定となり、公園化のため解体し、位置を少しずらし、昭和55年から復元工事をし、57年に完成した。

    旧開拓使函館支庁レンガ造書庫

   

 この書庫は、開拓使時代(明治2年・1869.7月-15年・1882・2月)に建てられたもので、その外壁のレンガには『明治7・8 .9年』の年号と『函館製造』と刻印がある。                    このレンガは、開拓使直営の茂辺地煉瓦石製作所で、度々失敗しながら改良を重ね製造されたもので、所在地は現上磯町矢不来で、矢不来天満宮社地にむかって右隣である。                同所での製造は、明治5年から9年末で、明治11年11月に再操業したが、13年末には施設一切を民間に移行した。また、この書庫の建築された年月は、現在不明である。昭和57年に修復された。

 

    函館の四天王像

   

 この像の四人は、明治の初期から中期にかけて、区長の常野 正義を中心に町の振興のために各種の事業に参画していた。学校・病院の建築、新聞の刊行、公園の設立、器械製作所ドック会社の創始、上水道・道路の敷設・改善、恵まれない人のための教育や医療費の援助などに尽力した。

 明治11年(1878)、公共につくした功を認められ、時の開拓使長官黒田清隆から四人そろって表彰された。この頃に、開拓使函館支庁 時任 為基に『函館の四天王』と呼ばれたと思われる。

さらに、明治15年、わが国で制定した藍綬褒章の第一回目に、常野正義を含めて五名が、続き番号で受章している。

 渡辺 熊四郎 隠居して 孝平。(豊後国・大分県生まれ天保11年・1840-明治40年・1907)

 今井 市衛門 幼名 久太郎。(能登国・石川県生まれ天保7年・1836−明治20年・1887)

 平田 文右衛門 幼名 兵五郎。(箱館・函館生まれ嘉永2年・1849-明治34年・1901)

 平塚 時蔵。(陸奥国・青森県生まれ 天保7年・1836-大正11年・1922)

 

21.ペリー会見所の跡

 日米和親条約により(安政元年・1854・3月)、箱館は、翌年3月から開港となり、米国艦隊提督ペリーがポーハタン号で来港、松前藩の重役と会見、交渉の場として、有力な場所請負人の山田寿兵衛の居宅を使った。

 後に通商条約が結ばれ、(安政5年・1858・6月)安政6年6月から、箱館も貿易港としての役割をはたすようになり、それまでは外国船が請求する燃料、水、食料品などは、奉行所で、用達商人を指定して、扱わせていたが、専門に貿易事務を扱う運上所ができるまで、近くにあった高龍寺とともに仮運上所であった。(万延元年・1860・10月まで)

 

22. 私学誠絡舎跡

 嘉永4年(1851)5月頃から心学・道話を、松代伊兵衛と渋田利右衛門が、鳥取藩士であった西川晩翠を招いて毎月1と6の日に開講していたが、7月16日からは「村栄講」と呼ばれる様になり、受講者も回を重ねるごとに多くなり、独立した教育の場が必要となり、安政4年(1857)5月19日に、現旧西警察署の筋向かいに新築落成し、開講した。

 この日、姫路の儒官 菅野白華が来箱し、講話をしたと言われている。

 舎号「誠絡舎」は、時の箱館奉行 堀織部正利熙が、撰文・書や絵を書いて贈り、額にして教育の場正面に掛けてあった。また、西川晩翠は、誠絡舎が落成する前月に急死した。

 

23.外人居留地

旧函館税関庁舎付近、安政6年(1859)6月2日開港場となり、安政6年(1859)12月箱館奉行所は官費をもって、大町の海面に長さ72m、幅90m、面積1963.63坪(6480u)の埋立て着工し、万延元年(1860)9月に竣工した。文久元年(1867)4月に埋立地を10に分け、1ケ年100坪(330u)を銀28両の契約で英人3.米人6、露人1人に貸し渡した。これが箱館における外人居留地の最初である。

24.高田屋本店跡

 

 嘉兵衛が箱館に来たのは27才(寛政8年・1796)の時が最初で、寛政10年から箱館の大町に支店を設けた。その後、文化3年(1806)の大火で焼けた後に再築したが、この時に防火と飲用にと掘った井戸数か所の内の1つが、木島商店内(2003年現在はペンション)に現存している。ここが本店になったのは、嘉兵衛が弟金兵衛を養子にし、跡目を相続させ、郷里の淡路島都志本村に隠居した文政7年(1824)から、ロシアとの密貿易の疑いで幕府に糾問され、天保4年(1834)所の刑をうけるまでの10年間であった。

 

25.辻造船所跡(辻 松之丞)

 高田屋嘉兵衛が、文化年間(1804-1817)初期に、旧函館郵便局付近を自費で埋立てて造船所を造ったが、後年、弟金兵衛の時、ロシアとの密貿易の疑いにより、没落(天保4年・1833)高田屋の造船所跡で日本型船を造っていたが、安政3年(1856)からボート2隻、西洋型帆船2隻、和洋折衷型船1隻を続豊治に協力して、ここで造り、明治8年(1875)5月、開拓使より、500石積以上(約74.4t)の和船の建造を禁止されるまでは、あまり洋式船の注文がなかったが、それ以後は、西洋型帆船に従事しだし、明治3年(1870)から10年にかけて仲浜町(現大町)海岸を埋立てて、新たに造船所を設けて造船に励み、同時に弟子の養成に努力したと言われている。

26.函 館 病 院 跡

 安政6年(1859)開港と同時にロシア領事と同行の医師がロシア病院(万延元年 1860)を建てるという話に刺激され、栗本端見(匏庵 鋤雲 安政5年奉行所頭取として来函)と塩田順庵(安政3年来函)が中心となって市中の医師が協議して日本医師の病院を作ったのが文久元年(1861)姿見坂上(弥生8付近)の箱館医学所である。これは医師の学間所と同時に、ー般町民はもちろん、娼技の性病、貧民の施療もし、箱館戦争の時は榎本軍の病院となり、高松凌雲らが活躍した。

 明治2年(1869)開拓使の官立となった後、明治4年愛宕町(船見2)に移転、明治11年、12月焼失。明治14年(1881)現在地に移転、その後、県立(1884)―庁立(1886)―公立(1889)―区立(1899)となったが、明治33年焼失、豊川病院に移った後、明治38年再興、明治40年焼失、明治42年再興とくりかえしたが大正11年(1878)外来診療所ができ、市立となって今日まで続いている。

 しかし、2000年10月港町に移転した為に、以後は函館病院跡地となり、西部での役割は、失われる。

 

◎ 宇須岸河野館阯

享徳3年(1454)河野政通が下北大畑から渡道し、ここに館を築いた。その規模は、東西35間(約63m)南北28間(約50m)、四方に土塁を築き、空ぼりをめぐらした所永正9年(1512)、アイヌの乱により滅んだ後、寛保元年(1741)ここに松前藩が亀田番所を移し、以後50年箱館を統治した。河野の館が箱の形であったので「箱館」と呼ばれ、それがいつの間にか地名になった。

 

2 7.旧イギリス領事館

安政6年(1859)ホジソンが弥名寺のー室を借りイギリス領事館としたが、元治元年(1864)ハリストス正教会の西隣りに移った(2代コースデン)。しかし慶応2年(1866)ロシア病院出火で類焼、現函病付近に移るが、明治12年(1879)焼失、現在地に移った。明治40年(1907)焼け、明治42年(1909)新築したのが現在の建物である。昭和15年(1940)市に売却され看護婦宿舎となった。(戦時中は憲兵隊に接収)

 

 

28.日本銀行函館支店

この銀行は、明治26年(1893)4月、日本で三番目のものとして設置された。設置当時は北海道出張所といわれていたが、その後、明治28年(1895)7月に北海道支店、同39年 (1906)8月に函館出張所、同44年(1911)6月に函館支店となり現在に至っている。

この銀行のある処は、開拓使が本道開発の為に必要な資金を起債し、250万円の開拓使税換証券を三井組に扱わせたので、明治6年(1873)出張店を開き、後、明治9年(1876)銀行組織に改めたので三井銀行出張店と呼ばれ、これが本道の最初の銀行となった。その後、明治26年(1893)金森ビルのところに移り、同38年 (1903)の閉店まで、そこにあった。

 

29.明治天皇上陸記念碑

この記念碑は桜花崗からなり高さ9mで頂上に鳳凰を置き、表面に当時の市長、坂本義一筆による「明治天皇御上陸記念碑」とあり、裏面には天皇より鍋島直正に下された勅書の全文の鋼板がはめこまれている。俗に「三縦碑」ともいう。明治天皇が三度この道を通られたことによる。(明治9年1876 7月二度 明治14年1881 9月一度 計三度)

 

30.北溟社函館新聞社跡

伊藤鋳之肋が、杉浦嘉七、平田文右衛門、渡辺熊四郎ら有志16名と資金5,000円を集め、明治4年(1871)4月北溟社を設立、新聞の発行を企画した。社長に渡辺熊四郎があたり発行は開拓使函館支庁の機械を借り、明治11年(1878)1月17日第1号を発行した。

 

31.海上自衛隊(旧税関)

安政6年(1859)6月2日の開港後、運上所の事務は山田寿兵衛宅(現弁天16姿見坂西付近)で執られたが、明治3年(1870)この地で埋立て明治5年(1872)函館運上所を新築した(解体した五稜郭庁舎のー部も使用された)。翌6年(1873)2月、函館税関と改称し、明治44年(1911)もとの税関の建物を新築した。この建物は長く親しまれたが、昭和4年(1968)税関が海岸町の港湾合同庁舎に移ると、海上自衛隊となり、昭和47年(1972)に取り壊された。

 

32.船魂神社

 神殿は大変新しく、古さは全く感じられないが、社記によれば、大治年間(1126-1131)にエゾ地へ布教のために渡ってきた良人士人が「観音様のふしぎなしるしがあった」ということから保延元年(1135)8月にお宮を建てたのがはじまりであるとされて、北海道でもー番古い神社である。

 祭神は大海津見神と、須佐乃男神と塩土翁神である。

 

33.旧 桟 橋(東浜桟橋)(日和坂下)

明治4年(1871)出入港の旅人の乗込み及び上陸場と定められ小橋があった。明治10年(1877)桟橋が出来、明治37年(1904)には駅の方にも小桟橋が出来、補助汽船によって両方使用していたが、明治43年(1910)駅の方に本船が横づけできる桟橋が出来たため以後旧桟橋と呼ばれている。

青森から入港上陸して北海道奥地への第一歩地点だったので「北海道第一歩の地」碑(S43)があり、又、桟橋畔に昔の「函館市道路元標」(昭和3年北海道庁)がある。

 

34.函館天主公教会

このあたりー帯は、箱館開港当時は外国人居留地であった。開港と同時に(11月)神父がきて小聖堂をたて布教にはげんだが、信者ができず4年ほどいて帰国したあと、慶応3年(1867)頃に神父2名が来函しているが、天主堂を建てたのは明治9年(1876)頃と言われているが、数回の火災にあい記録が残っていない。

現在のものは、大正13年(1924)にできたもので、ゴシック建築の立派なものである。

 

35.函館ハリストス正教会

 安政5年(1859)9月、通商条約によりロシア領事とー緒に来た司祭が、翌6年に布教したのが始めて。聖堂も現在地。数度の火災で現在の建物は大正5(1916)10月に竣工した。ロシア風ピザンチン様式を加味したもので、内部の聖画はロシアからもってきたもので、極彩式(色)で見事である。

 明治40年(1907)の大火に類焼するまでの間、鐘が函館の街によくひびき、その音から「ガンガン寺」と呼ばれている。

 

36.郷土資料館(旧金森洋物店)

 明治11年(1878)、12年と大火が続いたため開拓使函館支庁は奨励金を出して不燃焼建築を奨励した。これにカネニ 平田、ヤマ三 平塚、カネ森 渡辺(初代 熊四郎)などが応じ明治13年(1880)の大火にもこれのみが焼け残った。

 茂辺地開拓使レンガ製造所のレンガを用し洋風建築を取り入れたもので、入ロを2本の太い鋳鉄の支柱でささえ、窓を少なくし、屋根にはしンガを置くなど徹底した耐火構造となっている。(昭和38年道有形文化財に指定された)

 後、工場・アパートになっていたが昭和43年 (1968)十勝沖地震で被害を受けたため、渡辺の縁者が買戻して市へ寄附、昭和44年(1969)11月から、市立博物郷土資料館となった。

 

37.大谷派本願寺別院(東本願寺別院)

 寛永18年(1641)福山専念寺の浄玄が木古内に阿弥陀尊堂を建てたのが始まりであり種々の径緯の後、宝永6月(1709)箱館の現弥生小学校付近に移り、専念寺掛所浄玄寺となった。文政12年(1838)再建、安政5年(1858)本願寺御坊浄玄寺と改称、元治元年(1864)本願寺掛所と称し、明治9年(1876)別院と改称した。明治12年(1879)焼失後、現在地に移ったが、明治40年(1887)焼失そこで鉄筋コンクリート造りを計画、大正4年(1915)日本で初めての鉄筋コンクリート日本風寺院として完成した。

(材料はアメリカから直輪入した)

内部の広さは函館一である。

 本尊 阿弥陀如来

なお、安政4年(1857)アメリカ貿易事務官宿所となり、ライスが明治始めまで別堂に住み、ライスとお玉、フレタとお種などの話を生んだ。又、明治5年(1872)境内に邏卒屯所がおかれ、北海道警察の先駆けとなった。(以上 浄玄寺)

 

38.南部陣屋跡

 幕府がロシヤ南下と、外国船のエゾ地近海の接近に備え、松前藩にまかせておけず寛政11年(1799)-文政4年(1821)12月(前幕領時代といわれている)の間、ヱゾ地を直轄した。

南部藩は、寛政12年(1800)から日高海岸以東の防備を命ぜられ、根室国後、択捉に勤番を置き、その元陣として340人程を勤務させたが、建物はきわめて粗末であった。

その後、箱館の和親条約による開港にともない、再び幕府の直轄することとなり(安政元年(1854)−明治元年(1867)8月)南部藩もこの処を使用した。

ここに函館裁判所の庁舎があったが、明治8年(1875)9月−明治31年(1898)12月まで、NHK函館放送局が開局したのが昭和7年(1932)2月。

 

39.市水道局配水池(元町配水場)

 明治22年(1889)函館の水道は全国で2番目に完成した。総工費23万6千余円、うち10万1千円を国庫補助、残りを区債でまかなった。設計は千種基で工事も日本人が全国で初めて行った。(明治12年(1878)開拓使はクロフォードに函館水道の設計を依頼したことがある)材料は、イギリスグラスゴーのレードロー商会から横浜のイリス商会を通して購入。イリス商会は完成記念に噴水塔2基をプレゼントしたが、うち1基は現在も函館公園内にある。

 配水池は、この明治22年(1889)低区が完成(たて42m・横36m・深さ45m)。

高区配水池は明治27年(1894)完成した(たて42.6m .横28.8m・深さ3m余 底部摺鉢型)。

なお、ここのレンガ造り配水池管理事務所は明治22年当時の建物である。

 

40.函館護国神社

明治2年(1869)5月(旧)大森浜で官軍戦死者の官軍戦死者の慰霊祭を行い.直ちに現在地に招魂場を造営、165名を祭ったのに始まり後、招魂社と改称、明治9年(1876)社殿を建てた。昭和14年(1920)護国神社と改称、15年(1921)から17年(1923)にかけて現在の本殿社他を整備、昭和17年(T942)遷座祭を行った。戦後、22年(1947)から29年(1954)まで潮見丘神社と改称したが、現在もとにもどっている。

箱館戦争、日清、日露、第一次、第二次大戦戦死者をまつる。

明治2年(1869)当時のものとしては「招魂場」碑、東西口の灯龍(特に西口灯龍「明治2年6月青森口総督清水谷特従公考朝臣 為招魂社建之」とある。石製くちすすぎ水だらい(明治2年9月 大坂丸船長・・・・)、前の坂の灯龍(M3)などがある。

社殿脇に「官修墳墓」がある。もと護国神社東口下にあったが、ここに移された。箱館戦争の大野藩(福井県)、弘前藩の兵50余、戌辰薩摩藩戦死者、その他海軍戦死者などの墓・碑を中心に、日清戦争その他がある。「官修墳墓」はこのほか現船見町6の通称七面山海軍墓地があり、又、山背泊にもあったが大正期招魂社に移した数基があった。

なお、「招魂場」碑(護国神社)、「海陸軍戦死人名」碑(M2  護国神社裏の林の中)、「己己役海軍戦死者」(船見6  海軍墓地)の3碑は、昔、高田屋屋敷にあった"亀石"を割ったものである。

 

41.函館公園

 明治12年(1879)11月3日開園した。明治10年(1877)、時の英国領事ユースデンやその夫人が、時任為基やその当時の函館の有力者にすすめて造らせたもので、老幼男女、身分の差別なく、労力奉仕をしたと言われている。築園の設計・監理は、浅田清次郎で、日本式の庭園形式をふくんでいる。

 桜の木は、明治22年(1889)から五カ年計画で逸見小右衛門が植樹したものである。

 

 

◎.ハーバーの遭難記念碑

 ハーバーは、ドイツ領事館として明治7年(1874)2月に着任し、半年後の8月にこの場で、旧秋田藩士田崎秀親によって斬られた。

 田崎は自首して、後斬首となった。ハーバーは外人墓地にプラキストンによって、翌日葬られた。

 

      .白川橋

 函館公園、開園後2年、明治14年(1881)8月に竣工した石橋は、本道最初の洋式石橋で、浅田清次郎が寄付したものである。

 此の橋の渡り初めは、明治14年9月6日で、当時ご来道の明治天皇のご名代として、北白川宮能久親王がご来園になり、馬車で渡られたので、宮様の苗字のー-部を戴き、無名橋にも名が付けられた。

 

 

      .旧函館博物館1号・2号(道有形文化財指定)

 

 開拓使函館支庁が、北海道で発掘された先住民族の遺物や、アイヌ関係の資料、珍らしい動植物を収集して、明治12年(1879)5月、仮博物場を公開したのに始まる。これが一号館で、後の水俗間族館であり、日本初の地方博物館である。

 2号館は、明治1 7年(1884) 8月函館県が建設し、開拓使東京出張所仮博物場の陳列品を移して開館したもので、後の先住民族館である。

 陳列品の中には、ブラキストンをはじめ、モースやホイットマン等の研究用に採集した鳥類・貝類などの標本が寄贈されていたとのこと。

 現博物館本館の位置に3号館も設置されたが、10年程で廃止になっている。(明治23年 1890)−34(1901)

 

      .函館図書館

 明治39年(1906)12月に、岡田建蔵がタナゴマ町(現入舟町)の自宅の一部を図書室として公開したのに始まり、明治42年(1909)2月、函館公園内の区有協同館を借り受け、会員組織で「私立函館図書館」を経営し、初代館長は泉孝三、主事に岡田健蔵がなった。大正5年(1916)相馬哲平の寄付により、鉄筋コンクリート5階建の書庫を建てた。大正15年(1926)10月小熊幸一郎、平山喜三郎等の寄贈で、昭和2年10月鉄筋コンクリート3階建ての館舎が完成した。そこで此の年11月、私立図書館から一切の寄付を受け.翌3年7月に市立図書館として発足した。

その間、岡田健蔵は郷土に関する資料は、石器、土器、絵画、古文書など、数多<のものを集め、その収蔵品の質の良さと量の多さから、国内は勿論、遠く外国からも調査研究に来函する人がいる。(郷土資料 約3万6,800点)

 

42.エゾ館山

 明治初期に、この山から石器時代のいろいろな遺物が発掘されたのと、むかしアイヌのハクチャンの跡であるのと、エゾの館があった山という意味でエゾ館山と呼ばれるようになった。

 また、函館山が要塞地帯としてー般人の立入を禁止していた時代、この館山を大正9年(1920)にー般に開放している。

 

43.函館八幡宮

 社記によれば、文安2年(1445)に河野政通が、守神として館の内に祭ったのが最初とされている。それから幾度か位置が変わったが、明治13年(1880)に現在地に移り、社殿は大正7年(1918)8月に竣工したもの。拝殿の造りは寝殿造りより変形の日吉(ひえ)造りと、権現造りを合わせたもの。

祭神は応神天皇で、住吉大神も祭っている。

 

44.谷地頭切通し

 市電の電停から、谷地頭グランドにかけては、その昔一帯谷地であった。

 幕末の頃、箱館奉行所が開拓しようとしたが、中途で挫折した。この地は葦・芽や茨が繁茂し、蚊やハエの巣であった。そ後明治に入って開拓使も開発を計画したが、手をつけることができず、明治7年(1874)以降、国民に払い下げて開発を激励したが、道路が悪い上に作物の生育に不適格な地質なので、開発は進まなかった。

明治11年(1878)当時の開拓使長官であった黒田清隆が、此の地の開発を志し、3カ年にわたって、相生町から谷地に至る間を、長さ200間(約360m)、巾50間(9.0m)深さ9尺(約3m)程けずって、道路を開いた。その掘った土を谷地の埋立てに使った。

 

45.函館ビール釀造所跡

 現在の谷地頭郵便局の近くで、明治31年(1898)1月、金沢正治が初代の渡辺熊四郎の援助で始めたが、当時の三大メーカーであったヱビス・サッポロ・アサヒの各ビールに圧迫されて廃業している。

 製品は、黒ビール、赤ビールで、ポックビア・函館ビールの名で販売した。又、屋上にビアホールを作って好評であった。

 

46.函館通宝銭座跡

 日米和親条約を結び(安政元年 1854 3月)箱館が開港場となり使用されたのが安政2年3月。開港場がきまると同時に、エゾ地は再び幕領時代となり、箱館に奉行所を置き統治するようになったが、一つ困ったのが銭不足であった。そこで、奉行の堀織部正や竹内下野守らが安政3年(1856)10月、幕府の許可を得て、11月より銭座を設け、砂鉄を使って鋳造したのが翌4年2月からで、5月下句から通用した。

 箱館通宝は、1文銭で円孔である。

 安政5年(1858)11月までに10万600貫余り造った。

 

47.碧 皿 碑

 台座約4m、高さ約4mのオベリクス型の石碑で、明治2年(1869)5月函館市内で政府軍と、旧徳川家臣の戦いで戦死した旧徳川家臣の方々を葬った墓碑である。

石材は伊豆産のもので、東京で刻み、海路函館に運び明治8年(1875)5月に建立したものである。

 戦いは明治2年5月18日五稜郭が落ち、政府軍は招魂祭をし、戦死者を葬ったのに対し、旧徳川家臣団の戦死体は手をつける人がいなかったのを、柳川熊吉が自分の子分を指揮して、現在の弥生小学校近くにあった実行寺や称名寺に合葬したのを、明治4年(1871)頃に現在地に改葬した。

 碑には、表面に「碧皿碑」裏面には「明治辰己 実有此事 立石山上 以表厥志 明治八年五月」とあるだけである。埋葬者数は判明していない。

  函館区史            796人

  榎本武揚の戦没者過去張     538人

 

48.谷地頭電停付近

○松前藩時代には「尻沢辺村」といって、松前藩士明石重兵衛の知行所であった。

○「茂沢辺村」とはアイヌ語からきたもので

シリサンべ 函館山の出崎

シクサラべ 大きな谷地の意

古くからの漁師町で、古老は「シサべ・シサビ」と訛(なま)って言っている。

○幕末には台場が置かれ、日露戦争当時は無線所があった。

○共同墓地には、石川啄木一族の墓をはじめ、備前の喜三郎、常野正義、田本研造など函館の歴史にその後を留める方々の墓が多い。

○古くから、この地域の鎮守・氏神として、また、漁船・交易船の往来の多かったので、海上守護神として、住三吉神社をまつってある。

また、昭和9年(1934)3月の大火の発火場所もこのあたり。

○住吉町式土器として、8,000―6,000年前の土器・石器が発掘された所。

 

49.高野寺

 京都の知積院から北海道に派出された。布教師の佐伯本弘師が来函し、布教に従事していたが、信徒が次第に増して来たので、明治15年(1882)5月、当時の東川町261にお寺を建てたのが始まりで、その後他に移転し、現在地に建ったのは、大正5年(1916)で、昭和9年(1934)3月の大火に全焼し、本堂を鉄筋コンクリート造りで竣工したのが昭和12年(1937)8月である。

 本尊の大日如来坐象(昭和41年3月 重要文化財指定)は、明治24年(1891)本山である高野山谷上の大日堂の本尊であったものを下付されたものである。

 此の坐像は、寄木.木彫箔押で有名な藤原朝の仏師定朝の流れをくんだ仏師の作で、作者・製作年代ともに不明。昭和45年(1970)解体修理が行われている。

 

50.住吉学校跡

 明治8年(1875)会所町(現在の元町)に会所学校という官立学校が設けられたのが、函館における正式な小学校の始まりである。

当時一寒村であった尻沢辺村のため、当時の函館区長常野正義が自ら金を出して設立のため努力して出来た学校で、その後私立、区立と経営が変わり、明治32年に(1899)に公立住吉学校となった。

 明治38年 (1905)に現在の青柳小学校の位置に建てられたが、大正3(1974)4月8日の火事で焼失した。その後復旧したが、規模の大きさ、敷地の広さは当時の区立学校の中でー番であった。

 昭和9年の大火で焼けて新たに鉄筋コンクリート3階建ての校舎が完成し、昭和11年(1936)1月に移転後、青柳小学校と改称し、後汐見小学校が合併した。

 

51.露探小路と苜蓿社跡

 明治40年5月函館に上陸した石川啄木の落着いた所が青柳町45番地、沢克己の借家でそこに東川小学校の教員をしていた和賀市蔵夫妻が住んでいた。そこの2階を松崗露堂が大井正枝と協同で借りて苜宿社の看板を出していた。

 日露戦争が始まった時、ロシア語の出来る人は区内から追放された。家主の沢は漁業関係のロシア語の通訳をしていたので追放された。区民はこれらの人々をロシアのスパイ、すなわち露探だと言った。それ以来、沢克己の家の横.苜蓿社のあった小路を霧探小路と言った。

 

52.工業教育発祥地記念碑

 区立函館工業補習学校は尋常小学校卒業程度の生徒を収容して補層教育をすると同時に、他日工業に従事するために必要なる素地を身につけさせる目的で明治44年(1911)3月設立許可を得て5月に開校式をあげた。

 当時修業年限は2で、生徒数は150名であった。

 これが函館における工業教育の始まりで、これを記念して建てられたもの。

 

53.育児会社跡

 町医、横山淳道が堕胎により、わか死にするものが多いのを悲しく思って有志や寺院に相談して講社を作り育児講を設けたのが始まり。

 明治4年(1871)6月開拓大主典、岡本長之らがこの事業に協力し義援金をもって永続する方法を考え、育児講を改め育児会社と称した。

 

54.新善光寺(浄土宗鎮西派大臼山善光寺末)

 安政4年(1857)胆振国有珠村善光寺の僧、仙海が安政6年6月幕府の許可を得て、相生町198番地に一軒の建物を創立して善光寺説教所を称したが、明治10年(1877)10月同宗の富岡町称名寺に合併した。

 明治11年6月青柳町304番地に仮堂宇をもうけ善光寺休泊所を開始した。さらに明治16年(1883)9月信徒協議のうえ春日町に移転、同年12月寺号公称の許可をうけ、明治17年1月新堂宇完成した。

 昭和9年の大火に×焼し、安置仏(本尊阿弥陀如来、脇土観世音菩薩、大勢至菩薩)を除く一切を灰にしたが、後に再興した。一銭職の供養碑がある。

 

55.常 住 寺 (日蓮宗久遠寺末)

 明治12年(1879)9月区内亀×町に説教所をもうけて話僧を置いたのが始まりで、信徒が次第に増加して来たので蓬莱町49番地にー寺創設を願い出、明治16年11月許可を得て、常住寺と称した。

 明治22年(1889)相生町42番地の旧函館監獄支署跡の現在地に移転した。

 現存する建物は昭和9年の大火により焼失したのを再建したもの。

 

56.大森浜堤防築造

 明治の初め頃、東川町のあたりは区内で最も土地の低い所で、甚だしい時には海面より高さが45p位の所もあったと言われる。このため大波の被害をしばしば受ける事があった。

 このため新妻甚八という人が明治18年(1885)区内の各家庭からでるゴミを利用して堤防を築く事にし、適当な区域を設けてゴミを集めて置く敷地とし、区費をもって塵芥焼却がまを2ケ所設置し、灰や汚泥などを集めて堤防を築造し、東部発願のー助となった。

 

57.高橋掬太郎歌碑

「酒は涙か、ためいきか、こころのうさのすてどころ」この歌が世に出たことによって彼は一流の作詩家の地位をかため、又この曲によって作曲家古賀政男の名を高め、後年古賀メロディ一を有名にした記念すべき作品である。

 この歌のヒントは、彼の函館における新聞記者時代銀座界隈のネオン街で得られたものと言われている。

 

58.東照宮「今現在は陣川に移転した」

(徳川)家康を祀る神社、寛政年間幕府は東エゾ地の様似に社殿を建造させたが、北門の警備のため五稜郭を築造するのに当り、箱館奉行の小出大和守秀実が幕府に請願して五稜郭から22町(約2.5km)の上山村が五稜郭の鬼門(東北)に当ると言うことで、ここに社殿を造営して蝦夷地の鎮護として奉祀したいとたのんだ。幕府はこれを認めて、ここに社殿を建立した。社殿の大きいことはエゾ全島の大社と称され、エゾ日光の名もあった。

 明治2年(1869)箱館戦争の戦火にあい、社殿は灰塵に帰したが御神体は箱館の天祐寺に移した。

 明治7年(1874)谷地頭南新町(現在の市役所分庁舎坂上一帯)に移転したが、上水道工事のため

 昭和24年(1891)に旧現在地に移転した。

 昭和9年の大火で類焼し、仮社殿を建てたが、昭和29年の15号台風で倒壊したので、新社殿を完成した。

 高田屋のお蔵稲荷、高田屋嘉平衛の船中に奉有していた金刀羅官を合祀している。

 

59.新蔵前

 元の東川町と宝町の境の地名で現在の市電東雲線の附近である。

 昔の蔵前町や歳前造りにちなんだ名前で明治の中期から大正の初期にかけての函館の盛り場の一つである。

 

60.高田屋屋敷跡

 高田屋嘉兵衛はエゾ地における漁場の開拓、航路の進展、ゴローニンの幽囮事件など、日露両国の国交調整に努力するなど、函館の発展に貢献したことは当市にとって忘れられない人物である。

 嘉兵衛は、明和6年(1769)1月1日、兵庫県淡路島の都志本村生まれ、ヱゾ地に来たのは寛政7年(1795)彼が27才の時が最初である。

 寛政8年(1791)箱館に来航して大町(現在の大町9番)に店舗を設けた。

 箱館が幕府直轄地になったとき、豊川町に築島を築き荷揚場と排水を兼ねて堀割を作った。そこを埋め立てて今の銀座通りが出来た。

 嘉兵衛に代った弟の金兵衛は市街地に5万坪借りて米倉を数棟建ててエゾ地の凶作に備え、別に長屋敷を建てて、番頭や使用人を住まわせた。又そのー画に別荘を建てた。

池を堀り、庭木を植え、奇石を置き、泉水には橋をかけるなど豪華で壮大な建物であったと言う。

 

◎.女紅場跡

現在の宝来町郵便局のあたりで、明治維新(1868)以来、日本の文化は日を追って進み、女子

でも学校教育を受けるものが増えてきたが、芸妓、娼妓は浮草生活でまだ教育を受けるものは

少なかった。

太政宮は明治6年(1875)7月女紅場略則を作り、各地に女紅場を作り遂次全道に及ぼそうとした。

明治11年(1878)3月、当時の花街蓬来町に接していた小島重兵衛の居宅が広く、その上堀割がめぐらされてー区画をなしていたので買い上げて女紅場とした。

 

61.宝小学校跡

明治13年区の吏員らが学校の設立を計画し、区民の寄付を集めて設立した学校で3月に工事を始め7月に完成した。建坪300坪、教室数は10教室もある大きな学校で明治12年には大隈参議等が来校している。

この学校も昭和9年3月の大火で焼失し、第2東川小学校とともに新設の東川小学校に合併された。

 

◎.函館区会の始め

明治13年(1880)4月太政官布告、第18号をもって区町村会法が公布されたが、これには北海道が除外されていたので、函館区民は7月6日連署して、区会開設について大書記官時任為基に出願した。

 その結果11月になって、長官黒田清隆から函館区を開設する旨の達しがあった。

 それで明治14年1月4日函館区会規則が定められ、同月23日宝小学校で選挙会を開き議員30名を選挙した。

 同年3月1日区役所内において臨時区会を、同14年4月5日-7月10日まで第1回通常区会を

開いた。これが函館区会の始まりである。

 

62.蔵前跡

 保健所跡と豊川消防署跡附近を蔵前通りと言った。明治2年にはすでにこの地名はあった。これらは共有米を貯蔵する官の倉庫があったのでお蔵前と言った。

 明治4年8月蔵を高砂町に移したので間もなく消滅したが、その後このあたりは遊園地となり、当時函館第一の盛り場であった。

 

 

2003年6月11日