ライフル射撃競技の基本知識 A 競技史 A-1 オリンピック射撃世界史 T 発足当初のオリンピックソサエティは貴族思想そのものとも言え、彼らの理想とした徹底したアマチュアリズムは20世紀の最後までオリンピック憲章のなかで最も重要な思想として存在した。例えばそのことは初期のオリンピックの参加基準に象徴的に現れている。それは軍人がオリンピックに参加する場合その人は将校で無ければならないというもので、兵卒は肉体を使用するプロフェッショナルと規定されていたそうである。 第1回大会で実施された射撃競技は以下のとおりである。
射撃競技は以後のオリンピック大会では戦禍で中止になった大会と1904年、1924年を除いて毎回競技が実施されており、現在ではオリンピック大会の実施に際して必ず行わなければならないコア競技として位置づけられている。オリンピック大会での実施種目の変更は毎回のように実施されその内容については史書によるべきところであろうが、現在の尺度で”射撃競技“と呼べる形態を完成させたのは第2次世界大戦後のことである ラピッドファイア・ピストル競技の標的の変遷(得点圏のないものはHIT(1点)-NOT(0点)採点を実施する(UIT Official History)。1984年以後はシルエット標的は廃止されされ1990年に黒丸標的に変更されるまでの間は首と脚に相当する部分がなくなった長方形の標的を使用した。 A-2 UIT(Union Internationale de
Tir、現在のISSF)の結成とその後
国際射撃連合の成立は近代オリンピックの始まりから10年の遅れをとっている。史学的な射撃ソサエティの成立は12世紀とも14世紀ともいわれているが、近代的な全国組織としての射撃協会の設立はスイスが最も古く1824年にさかのぼり、政府の認可団体として Societe Suisse des Carabiniers が誕生している。 遅れて1859年にイギリス、1861年にドイツ、1884年にフランスで射撃協会が設立された。
ヨーロッパの国際競技会は1897年より毎年開催されるようになるのであるが、(後にこの競技会を世界選手権大会に算入している)オリンピックの開催が始まったことにも呼応し、1907年にチューリッヒの総会でUIT(国際射撃連合、後のISSF=国際射撃スポーツ連盟)が誕生することとなる。結成当初の加盟国は8カ国で、それらはアルゼンチン、オーストリア、ベルギー、フランス、ギリシャ、オランダ、イタリア、スイスである。当時射撃がもっとも盛んに行われていた国はドイツであったが、UITの結成には参加していない。第1次大戦が1914年に勃発しているがその背景に流れるものは不明である。ドイツがUITに加盟したのは1931年のことであった。
第1次世界大戦で活動を停止していたUITであったが、1921年にパリで活動再開に向けての総会が開催された。この総会には日本からもKIMOSHITA大尉(木下の間違い?)が参加し、活動の再開に関しては満場一致で可決された。総会に参加した日本であったが実際にはそのときにはUITに参加することはなく、UITに加盟したのは1938年のことであった。日本が加盟した1938年現在(第2次世界大戦直前)のUIT加盟国総数は57カ国であり、当時としては国際的にもっとも盛んな競技であったことがうかがえる。尚、戦犯国として資格を停止されていた日本とドイツに関しては1949年に日本が復権し、ドイツは1952年にドイツNOCの成立を条件に仮加盟として復権した(UIT Official History)。
オリンピックの射撃競技がUIT競技規則で行われたのは1924年パリ大会が最初である。この大会では始めてスモールボアライフルの女子種目が採用されているとの記述があるが公式記録は残っていない。
A-3 オリンピック射撃世界史 U
第2次大戦終了後の1948年ロンドン大会ではライフル種目は300m3x40と50mP60の2種目が実施された。現在の射撃競技は実質的にはこのロンドン大会でその姿が固まったといえる。このとき使用された標的は、300mについては現在と同じもの、50mは直径が20cm、10点圏が2cmの2世代前のものであった。優勝得点は300mが1120点、50mが599点であった。
注:1960年ローマ大会より50mライフル標的が300m標的の縮小サイズに(10点圏が12.4mm=一世代前のもの)変更されている。
1964年東京大会は日本にとっては近代射撃の幕開けとも言えるエポックメーキングであった。日本にとっては戦争で中止された1940年大会に対する思いもあったのであろうか、圧倒的な組織力でIOCの評価書にはその点が最高ランクで記述されている。
この大会ではソビエトの優位性がアメリカに取って代わられ、以後1976年モントリオール大会までアメリカの射撃王国ぶりが展開されることとなる。
1964年東京大会成績(以下の3種目が実施された)
1976年モントリオール大会ではオリンピック射撃競技史上初の女性メダリストが誕生した。50m3x40の優勝者は1974年の世界選手権大会(スイス・ツーン)で15個のメダルを獲得したLanny Bassham(USA)であったが、同点の2位に同じくアメリカのMargaret Murdockが入り、国歌が流れる中BasshamがMurdockの腕を取って1位の表彰台にともにあがったことはオリンピックの逸話として有名である。
モントリオール大会の組織委員会はオリンピック史上未曾有の赤字を計上し、以後のIOCの商業化への方針転換のきっかけとなった。このことは射撃の競技運営にも大きな変革を後に迫るものとなるのである。また同大会は人種差別問題でアフリカ諸国の一部が参加をボイコットし、続く大会のボイコット合戦の引き金を引くことともなった。
1980年モスクワ大会はソビエトのアフガン侵攻に抗議する目的でアメリカのカーター政権がアメリカのボイコットを決定し、西側諸国に同調を求めた。イギリス・フランスなどは独自の判断で参加したが、日本はカーターの求めに応じ不参加であった。イギリスなどは政府の後援が得られずオリンピック委員会独自の派遣参加となり、優勝時には国旗、国歌の代わりにオリンピック旗、賛歌を使用した。このボイコット騒動は、続く1984年ロスアンゼルス大会の東側の報復ボイコットを経て終焉して行くこととなる。
1984年ロスアンゼルス大会は現在に至る射撃競技にとって転換点に相当する大会であった。それはエア・ライフルの導入と女子種目の新設である。この大会で実施されたライフル種目は、男子が50m3x40、50mP60、10mS60、女子が50m3x20(スタンダード)、ARS40であったが、それ以前の種目数2(50m3x40とP60)に対して2.5倍増となった。エア・ライフルの導入はISSFにとっても大きな変化をもたらし、それ以後の国際競技会の参加国の爆発的な増大をもたらした。女子ライフルは日本から1名参加し、AR10位、50m11位という結果であった。
1988年ソウル大会からはオリンピック参加権(クォータ・プレース=QP)制度が実施された。実際のQPの配分は1986年のワールドカップ大会から実施されているが、ISSFでは従来ヨーロッパで5月に行われていたマッチ・ウィーク(Match Woche)を発展的にワールドカップ大会に昇格させ、その他の大陸でもワールドカップ大会を開催するようになった。この大会ではファイナルが導入され、導入当初のファイナル得点の満点は11.1点であった。ソウル大会終了後ISSFは50m、10mの標的サイズを縮小し、現在のファイナル得点満点1.0.9点となった。
1992年バルセロナ大会では初めて電子標的が使用された。プレオリンピック・テストマッチでは10mSIUS標的の衝撃波発生のための部材がゴムでできていて、ペレットが跳ね返され誤動作が続き競技そのものがキャンセルされるというハプニングが生じたが、本大会ではその部分が黒紙ロールに変更され無事に競技が遂行された。この大会のAR40では韓国の高校生が金メダルを取り、オリンピック史上最後の男女混合競技となったスキートで中国の24歳の女性選手が優勝するなど、トップアスリートの低年齢化とアジア化が顕著になった。
1996年アトランタ大会からは女子のスモールボアライフルの規格がスタンダードからフリーへと変更された。同時にスモールボアライフルの銃と種目の名称が50mライフルに変更された。(実際には1993年発効の競技規則)またオリンピック憲章からアマチュアの文字が消え、各競技に職業競技者が出場するようになり競技の様相が一変した。
以後射撃競技は世界的に隆盛を誇り、現在に至るまで陸上、水泳に続く参加国数を維持してきている。2008年北京大会のQPを争った国(予選参加国)は121NOCで参加基準点(Minimum Qualification Score = MQS)を獲得した選手は世界で、男女合計5163名である。また、QPを獲得して(ワイルドカードを含む)本大会に参加した国・地域は103NOCにのぼった。
1984年以後オリンピックとISSFの関係は従前に比較し更に強固な連携を保ってきた感がある。商業化に舵を切ったIOCと商業化が困難な射撃競技との連携は比較的成功裏に推移し、様々な問題や不満が存在するものの、ISSFのオリンピック政策は少なくとも「射撃競技をオリンピックで実施する」という意味では成功を収めている。他の競技に先駆けてのQP制度の導入、ファイナルの実施、オリンピックでのファイナル射場の分離、電子標的の必要条件化(オリンピック、世界選手権、ワールドカップ大会のファイナルは電子標的で行わなければならない)などの施策は少なくとも射撃をオリンピックのコア・スポーツとして位置づけることに寄与したことは疑いのない事実といえよう。
A-4 日本のライフル射撃競技史 T
日本の射撃史について多くは史書に任せるべきものではあるが、現在の競技に直接的に関係する事柄を復習しておきたい。
明治維新後の混乱も西南戦争を経て一応の落ち着きを得た1882年(明治15年)、東京本郷にあった射撃場をもとに東京共同射的会社(会社=協会)が設立されたことをして日本の射撃ソサエティの誕生とすることができる。東京共同射的会社射的場は1877年(明治10年)に警視庁の射撃場として開設され西南戦争に出征する警察官の訓練場として使用されたものを宮内省の所轄としたもので、会社の社長には小松宮彰仁親王、発起人には西郷従道(隆盛の弟であるが西南戦争では隆盛には加担しなかった)、山田顕義(長州出身の軍人、伯爵)の名が見られ上流社会の一同好会といった趣であった。会社は明治21年に射撃場を大森山王台に移し、名称も日本帝国小銃射的協会と改め当時の華族や上流階級のあいだで競技が行われた。本郷の射的場跡地は東大医学部付属病院の裏手で住宅地となった現在でも町の区割りから地図上でその面影がしのばれる。
射撃が国民のスポーツとして存在する基礎を固めるまでは、1916年(大正5年)東京帝国大学小銃射撃部が設立され、翌年明治大学射撃部が誕生し、更には1924年(大正13年)11月3日、明治大学の師尾源蔵(後に日本ライフル射撃協会名誉会長)が主唱して開催された第1回関東大学高等専門学校射撃大会の開催まで時間を要することとなる。翌1925年(大正14年)には東京帝国大学、明治大学、日本医学専門学校、法政大学、東京商科大学、東京高等商船学校、早稲田大学、慶応義塾により学生射撃連盟が結成され、同年5月17日大久保射撃場にて第1回学生射撃大会が開催されている。種目は30式または38式歩兵銃による伏射5発競技で、参加校は全8校に加え5大学高校、10中学校であった。学生射撃連盟の成立により射撃は明治神宮国民体育大会の正式種目になった。
1937年(昭和12年)には誠文堂新光社より「児島富雄著、最新射撃大観」が刊行され、そこに最終章にて国際射撃の紹介がなされている。UIT憲章の訳文も紹介され規則の概要も説明されている。結びの中に「・・・欧米各国人の射撃に対する関心と努力の並々ならぬものがあることが看取し得らるると共に、顧みて我が国人士の射撃に関する理解の甚だしき乏しきことに深く省察を加えしめられるのである・・・」とある。推測だがこの書籍は他の射撃関係書と異なり、多数の外国銃器に関する解説や競技方法に触れられており、3年後にオリンピック開催を控え多大な経費と労力をかけて就筆されたものと思われる。
1943年(昭和18年)には旺文社より大日本射撃協会編、「青年体育運動の書」シリーズ「射撃、其の本質と方法」が発刊された。巻頭の写真の裏側の解説には「射撃の終局目的が戦闘射撃にあることは言を待たない。今や校門は営門に通ずるのである。学徒は明日の重きを担って・・・」とある。
1940年(昭和15年)の東京オリンピック開催が中止され、大正から昭和にかけて学生射撃連盟の結成に端を発した競技射撃の芽は、“ライフル”という用語さえ定着させることができず、第2次世界大戦前には国際射撃競技へとは進展せずにその終焉を向かえ、現在の尺度で語る競技射撃の誕生は戦後の再興期まで待たなければならないのであった。
A-5 日本のライフル射撃競技史 U
大日本射撃協会は終戦と共に解散したが、1949年(昭和24年)9月15日先達はクレー射撃界の人々と共に赤尾好夫(旺文社創始者)を会長に日本射撃協会を設立した。昭和26年には日本体育協会に再加盟、UITにも復帰加盟を果たした。日本射撃協会は1953年(昭和28年)に発展的解消がなされ、日本ライフル射撃協会と日本クレー射撃協会に分離された。また同年には日本学生ライフル射撃連盟が再建され、1961年(昭和36年)には高等学校の射撃競技が開始された。
ライフル射撃は国民体育大会には1951年(昭和26年)第6回広島大会から正式競技として採用されている。戦後の射撃競技の発展には国民体育大会の果たした役割は計り知れず、また現行の全日本選手権大会は1950年(昭和25年)に第1回大会が開催されている。
国民体育大会に射撃競技が採用された当初からスモールボア・ライフルは種目に含まれていたが、高額な価格と輸入割り当ての少なさからエア・ライフルがその代用として種目に組み入れられている。国際的にはエア・ライフルの競技が認知されていない時代のことであり、当時の人たちからすれば現在のエア・ライフルがオリンピック種目になることなど想像もできなかったであろうと推察する。日本のエア・ライフル競技はUITにおけるエア・ライフルの規格が決定されるまでの間フリーライフルの代用として実施された。
1960年代にUITによりエア・ライフルの競技規則が制定されると、日本もそれにあわせエア・ライフルをフリーからスタンダードに変更した。それと共に競技用エア・ライフルがドイツから輸入されるようになり、とりわけファインベルクバウの卓越性は圧倒的で日本製のエア・ライフルは急速に姿を消していった。
一方、国際競技のスモールボア種目はフリーライフルを中心に実施され続け、1960年を過ぎたころから銃器はアンシュッツ一色の時代を迎える。それ以前はアメリカ、イギリス、北欧製の銃器が多く使われていたが、共産圏国以外はこぞってアンシュッツを使用する時代となった。UITではスタンダード・スモールボア・ライフル種目も実施していたが、後に女子の射撃種目へと性格を変えていった。日本では1964年の東京オリンピック以後、価格の問題や世界の情勢の読み違いからか、国民体育大会を中心にスタンダード種目に重点をおいて実施し、1980年代までその状態が継続された。当時の多くの競技者はフリーライフルを扱うことなく、オリンピックを目指す自衛隊体育学校の選手のみが恒常的にフリーライフルをトレーニングする状況で、このことは日本の射撃技術の進歩を遅らせたと指摘する意見もある。
1984年(昭和59年)のロサンゼルス・オリンピック大会終了時までは日本には年間を通じたナショナルチームが組織されることはなく、毎回派遣選考会を実施していた。選手のパーフォーマンスが選考会を境にピークアウトしてしまう事例の反省から、1985年以降ナショナルチームが組織されるようになった。制度は1997年まで実施されるが、その後廃止され、2008年(平成20年)からは再度ナショナルチームが組織されるようになっている。
ライフル種目の国際舞台での功績は1960年(昭和35年)ローマオリンピック大会における猪熊幸夫、1964年(昭和39年)東京オリンピック大会の林崎昭裕(両者とも伏射競技で6位入賞)以来20年以上途絶えていたが、1988年ズールワールドカップ大会で源洋子(日本大学)がAR40で優勝、1990年(平成2年)モスクワ世界選手権大会で柳田勝(明治大学)がAR60で銅メダル、1992年(平成4年)バルセロナ・オリンピック大会で木場良平(自衛隊体育学校)が3x40で銅メダルを獲得した。そのほか1976年(昭和51年)ソウル世界選手権大会のAR40で柳田幸子(筑波大学)が4位に、1990年モスクワ世界選手権大会で小島則子(日立情報)がP60で同じく4位に入賞している。また2003年(平成15年)と2004年(平成16年)にはワールドカップ大会で三崎宏美(日立情報)が2度の優勝に輝いている。
1993年(平成5年)からは50m女子種目において、使用銃器がフリーライフルに変更された。UIT規則の変更に伴って即時実施されたが、それは日本の競技規則がUIT規則の変更があった場合自動的に変更される規定になっていたからである。この規定は日本で国際競技規則を基に独自に作られてきた従来の国内競技規則を、一部の国内事情を除いてUIT規則の訳文で統一した1986年(昭和61年)以後の規定である。(国内競技規則は廃止され、国際規則では対応できない部分だけ国内適用規則として制定することとなった)
国際競技では1984年に男女が分離されたライフル種目であるが、国内に目を移せば国民体育大会では平成12年(2000年)から男女が分離された。国民体育大会の種目変更は競技の国際化に対する環境からの要請によるところが大きかった。高校射撃ではこれに先駆けて男女種目が区別されたが、学生連盟では2006年まで国際化の流れは至らず最も最近まで古い競技環境を残した。現在では国内のライフル種目で男女が共に戦う公式種目はない。(300m射撃では便宜的に実施する場合もある)
A-6 強化活動の推移
戦後の日本のライフル射撃が国際競技を基本として推移してきたことは、銃器所持の法的根拠と、1970年(昭和46年)に社団法人(文部省認可)となり日本ライフル射撃協会の存続の根拠をスポーツに求めることとなったことに大きな因がある。
1952年ヘルシンキオリンピック以後、1964年東京大会に至る時代は強化選手を指定しそれらを特別訓練することを核として強化活動が行われた。この時期は東京オリンピックに向けて日本における国際射撃理論の開花期であったといえる。このころの世界の代表的な射撃大国はソビエト連邦であり、1961年7月にはソビエトからシシャーギンコーチを招聘している。また同時に歴史的にも最も充実していたと評価されるソビエトの射撃教本の翻訳も他言語に先駆けて実施された。英文訳本がアメリカで発刊されたのがすでに古典と化した1980年代であるので、その先駆性がうかがえる。
1960年ローマオリンピック大会の報告書に、大会に至るまでの強化活動の記録があるが、1960年に至るまでは、学連(現役・OBを含む)グループと自衛官グループの2グループを個別に強化し、1960年に学連グループから選抜されたもので強化合宿を行っている。(前年、前々年には合宿訓練はなかった)自衛官グループは別途国際射撃班を編成し富士学校にて訓練を重ねた。彼らが現在の自衛隊体育学校射撃班の前身である。前者のグループの合宿は三次にわたって実施され、日程は7日、10日、10日というものであった。オリンピック予選の一次は通信競技により実施され(82名参加)、二次予選は全日本選手権大会で行われた。最終予選は勝ち残った10名の選手により神奈川県富岡射撃場で実施され、オリンピック競技会2ヶ月前に選手が決定された。出発前の2ヶ月間には三次の強化合宿が実施され、オリンピックの競技日と同じ曜日には当該種目の記録会を実施し、ピーク調整に主眼が置かれたトレーニングが実施された。当時としてはかなりのトレーニング量が確保できており評価することができる反面、真夏の猛暑の中の訓練注意事項には「のどが渇いてもできるだけ我慢をして水分を飲まない。どうしても我慢できなければうがいをするか、あるいは茶、紅茶等を予め用意しておきごく少量を飲む」という記述もある。ローマには競技開始が9月5日であるのに対し8月12日に出発している。日本のライフル2選手の使用銃器はアンシュッツとフィニッシュライオンであったが、諸外国の状況は以下のとおりであった。(3x40第1射群、予選時の統計)
尚大会後、チームはヨーロッパの射場、メーカーを周遊して帰国している。
1964年東京オリンピックを終え、1968年メキシコオリンピックから1980年モスクワオリンピックまでのオリンピアードでは日本のライフル種目は振るわなかった。300m射撃は東京オリンピックで代表を育成したものの、それ以前以後を通じて強化策が実施されることはなかった。選手の選考は選考競技会を通じて行うのが常で、年間で選手が固定されるナショナルチームが組織されることはなかった。しかし協会の選手強化に対する情熱が東京オリンピックを終えて終焉したかといえばそうではないと考えられる。特に1970年代になって協会は現状打破を画して新しい試みには積極的であった。世界に先駆けたレーザーとテレビカメラを使用した照準監査装置の開発は歴史的には評価されるべきものであるし、防衛大学校と共同しての照準や撃発のメカニズム研究、民間企業(菅原製作所、東京世田谷)の協力を得てのターナー型の高精度マイクロサイトの試作など、現在よりむしろより挑戦的な試みがなされていた。また1973年には学連の女子選手を集めて従前行われることはなかった女子種目の強化も始まった。この間、1974年には西ドイツよりジークフリート・アーノルド、1979年-82年にはラニー・バッシャムを招いて教えを受けた。
1984年ロサンゼルスオリンピックの最終選考会は、各種目3名に絞られた候補選手により現地のプレオリンピック大会で実施された。この大会では始めて女子種目が実施され、ライフル1名、ピストル2名の女子選手が参加した。この大会では木場良平(自衛隊体育学校)がローマ大会の石井孝郎(20歳)に次ぐ21歳の年齢で初参加し、8年後のメダル獲得の布石とした。
1988年ソウルオリンピックに向けては1985年からその準備が始まったが、二つの大きな変革があった。第1はオリンピック参加にむけてのクォータプレース制度(QP制度)の開始であり、第2はQP獲得に向けて海外転戦の必要性から予選主義を廃止しナショナルチーム制度を開始したことにある。同時に協会にとっては従来になく大きな強化予算を代表選手にかけざるを得ないという宿命を背負うこととなる。1985年を境に従来年に1度程度の国際競技会出場であった日本代表選手はワールドカップ大会転戦が常となりヨーロッパと戦うことが特別なものとはなくなった。同時にますます増強される中国勢とのアジアでの競争時代に突入する。1988年以前のアジア射撃では1カ国1メダル(同じ国の選手が2人メダルを授与されることはないという規則)ルールが存在したが、現在思うと理不尽なこの規則も撤廃され、表彰式での国旗掲揚ポールの独占も珍しいものではなくなった。
1985年-1997年に組織されたナショナルチームの選手はナショナルチーム員(NT)とナショナルトレーニングチーム員(NTT)に分類され、NT員は2年間、NTT員は1年間チームに在籍できるというものであった。選考会は毎年晩秋に実施され、第1週がNTT選考会(2試合)、第2週がNT選考会(3試合、NTとNTTの入れ替え戦)が行われた。年間の活動は選考されたものによるワールドカップ大会遠征(2-3回)と年3-4回の強化合宿を基本として強化、QP獲得を目指すもので、事業予算はおおむね3500万円前後、強化合宿は500人日であり、茨城県営射撃場、山梨八代射撃場を中心に強化活動が実施された。選考会によるナショナルチーム制度は12年間継続し終了するが、その後は国内競技会の成績によるポイントでチーム員を選考する制度(VP=ビクトリーポイント制度、3年間実施)の実施を経て国内競技会の得点で選考されたものをしてナショナルチームと呼称した。この方法は2007年まで継続された。
2001年3月、協会はラズロー・スーチャック(ハンガリー)を在住ナショナルコーチとして招聘し2004年アテネオリンピックに向けて強化を行った。スーチャックのもとで国内競技力は女子を中心に向上し、ワールドカップ大会での入賞も増加したがアテネオリンピックの獲得QPは2個にとどまり、スーチャックは2004年に退任した。
北京大会終了後協会はナショナルチーム制度を復活させることとし、2008年11月に11年ぶりのナショナルチーム選考会が実施され、2009年よりナショナルチームが組織されることとなった。 |