技術の蓄積
 
生まれて初めて射撃をしたときのことを考えてみよう。射手は少なくとも次のことを学習する。
@       銃の操作方法
A       呼吸の停止法
B       照準方法
彼はどれひとつ完全にはできないであろうが、これらの各段階での努力、集中は相当なものである。一生懸命にリングを黒点に合わせようと努力し、まん中に黒点が来るや大あわてで引き金を引く。仮に10点を捉えれば大喜びをするといった次第であろう。彼は銃に弾を入れ、呼吸を止めて、照準し、引き金を引くといったプロセスを全て頭のなかで考えながら行っているのであり、複雑な行為の組み合わせの結果得られた10点は非常に貴重なものである。
何年かトレーニングを重ね、中級者程度の技術を身に付けた場合はどうであろうか。果たして彼は、“どうやって弾を込めるか”を毎回考えるであろうか。呼吸の停止についてそのタイミングに注意を払うであろうか。おそらく照準については最大限の注意を払うであろうが、その集中は照準映像の評価ではなく、撃発にいたるスイッチとしての効果を望んでの集中であろう。その時点の彼は、何年かのトレーニングによって銃の操作や呼吸のコントロールは体で覚えてしまった段階にある。
体で覚えた技術とはどういうことを意味するのであろうか。射撃以外の例を見てみると、人間の歩行行為、水泳、ピアノを弾くこと、タイプを打つこと、これらは全て後天的に学習された行為であり、全て学習を通じて体が覚えてしまった技術であるといえる。どれをとってみても初心者の段階では頭であれこれ指示をして体を動かしていた行為であるといえる。
どのような行為であれ、初心者は意識的に行動・動作をコントロールしようとする。キーボードでAを打つ場合、目でAのキーを捜し、指で隣のキーに触れないように恐る恐るキーを叩く。キーを捜す行為とキーを打つ行為は連携しているが同時性はない。しかしキーを捜す行為、キーを打つ行為をそれぞれ個別に考えた場合、それらはかなりの練度を持って実施されている。文字Aと文字Bの相違は頭で考えることはなく自動的に判別している。彼はABCについては自動的に判別できるが、キーボードのキーを自動的に識別することはできない人であるといえる。彼を射手に例えると、銃は難なく操作できるが据銃する際に手の位置、足の位置、肩づけの様子をチェックしながら射撃する人といえるであろう。速く正確にキーを打てるようになるには、適正な指使いを体得することが重要であるように、射撃では合理的な据銃姿勢や、集中方法がこの指使いに相当する。
簡単すぎるのは承知の上だが、射撃行為の学習を図式化すると次のようになる。
良い射撃では意識の命令により潜在意識に蓄えられた射撃技術が自動的に弾を撃つ。初心者は潜在意識に技術の蓄えが無く、全ての動作が直接意識の命令の下で実施され、行動もぎこちなく得点も低い。この簡単な図式は練習の注意点や技術の学習方法に様々な示唆を与えるので各パートの仕事と特徴について理解を深めたい。
 
A 意識
心の領域では意識は“頭で考えること”を受け持つ分野であるといえる。一般的には意識は4つの働きを瞬時に行う。第一は五感で情報を感知すること、第二はその情報を過去の経験に照会すること、第三は情報と経験を比較・評価すること、そしてその評価に基づいて対処を決定することである。
例えば9点を撃ってしまったときに、射手はまずその事実をスコープで知り、次に自分は10点で撃発したはずなのにおかしいと感じ、風の変化に気付く。そして風の強さを評価しそれに応じてクリックを回す決定をするといったことであり、これらの作業はほとんど瞬時に行われる。風を評価するのに時間がかかる場合、風に対応する部分の技術が低いといえる。
諸説あるが、意識は普通1分間に2000以上の異なった単語を非常に速いスピードで判断することができる。しかし一つ一つの集中をスピーディーに切り替え流れを作ることには長けているが、同時に二つ以上のことに集中したり考えたりすることはできないという特徴をもつ。例えば頭の中で赤い車と白い車を交互に考えることはできるが、同時に集中することはできないといったことである。
射撃では体の全ての機能を同時にコントロールしなければならないので、マルチタスク機能に乏しい意識でのアクションではその能力に限界がある。初心者は全ての体のコントロールを意識で支配しているか、全くコントロールできていない状態であり、上級者はほとんどの部分を体が覚えた自動化された“技術”がコントロールする。どのくらい自動化できているかどうかが初心者と初級者・中級者の違いであろう。
 
B 潜在意識
潜在意識という単語にはたくさんの意味が含まれるが,ここでは記憶や体で覚えた技術を蓄えておくデータバンクということで理解してもらいたい。
潜在意識は大別して二つの機能を司る。ひとつは人間が生まれながらもっている本能的能力であり、心臓の動き、細胞分裂、呼吸作用などの自律神経系の働きをコントロールすることである。いまひとつは後天的に学習したことを自動化する機能である。そのなかには記憶のファイル、技術的なデータバンクといった機能も含まれる。(これらはそれぞれ生理学的には全く異なった器官が関与するがここでは概念的説明として理解されたい)
運動技術論では潜在意識には情報の正誤を判断する能力はない。したがってどのような情報、或いは誤った技術も全て等しくファイルに収めてしまう。情報は意識から送られてくるもので情報の選択は意識によって行われる。
意識と潜在意識の関係はプログラマーとコンピューターの関係に似ている。プログラマーが誤った数式を潜在意識に記憶させると潜在意識はその正誤に関係なく数式にしたがって演算を実施する。5x5=10をプログラミングするとその誤りを訂正するまで5x5=10と潜在意識は答えてしまう。射撃のトレーニングがコントロールされなければならない理由はここにある。演算は実施するがその方法が誤っていれば正解が出ないし、射撃技術の場合あちこちに誤った演算方法が増殖してしまうからである。何年もかけて射撃技術のあちこちに散らばってしまった数式を訂正することは実は新たに数式を打ち込むことよりはるかに困難である。
潜在意識はインプットされた情報を全てファイルしてゆくが、それらの情報を引き出す回線はすべてあるわけではなく、引き出す努力をした回線のみ生き残って残りは断線するか、容量が極端に低下する。時々何かの拍子に回線が繋がって突然忘れていたことを思い出すことがあるが、思い出す努力をしないとその回線は再び切れてしまう。その回線を保持するためには反復して記憶を引き出す努力をしなければならない。情報のファイルも始めは少ない情報量であったものが、何度も繰り返すうちに多くの情報量を持つようになり、意識から照会があったときに多くの情報を回答として引き出すことができるようになる。
潜在意識は同時に無限に近い数の行動をコントロールすることができる。例えば正しい据銃をしながら呼吸調整を行うことも可能になる。後天的に学習しそれを自動化する過程がトレーニングであり、初めて行う行動は潜在意識にデータが入っていないため各段階で意識の直接命令が下される。その命令が潜在意識に情報としてインプットされ、長いトレーニングを経て情報量が増加し、以後意識が“思った”だけで潜在意識が体を自動的にコントロールする技術が身につくのである。また潜在意識は意識が思っている方向で行動を起すという特性も持っている。即ち潜在意識にプラス・マイナス両方の技術が存在する場合、意識が連想する方向での技術が発揮されやすいという傾向がある。
ピアニストがピアノを習った過程において、初めに意識が動作をコントロールしていた時は、意識には一度にひとつのことしか集中できないという規制があり、いかに集中をすばやく切り替えたとしてもその処理能力は潜在意識に比べて大きく劣り、動作はぎこちないものであったはずである。しかしそれを反復練習してゆくうちに潜在意識に蓄えられる情報量が増大し、音符を見ただけで潜在意識より必要な全ての情報をとりだし、しかも潜在意識による技術的な行動、すなわち同時に体の全ての部位をコントロールする高度な技術行使であるため、スムーズで完全な動作として表れてくるのである。
このように技術が蓄積されるパターンを再検討していくと、トレーニングがどのようにコントロールされるべきかは明らかである。パソコンのキーを2本指でたたいても(実際にこの原稿はそのようにたたかれている)、実用上文章は作成できるが、その正確性やスピードは正しい指使いをするものに比較して比較にならないくらい劣ってしまう。2本指ではブラインドで文章は打てない。射撃では初心者のうちの自己流がこれにあたり、そのまま90点で停滞期を迎えたものにとって初めから指使いを習い直すのは大きな決意が必要である。導入時に学習すれば楽であることは自明の理である。ブラインドでキーがたたけなければ競技にならない。すなわち最も基本的なボーンサポートやバランスの要件が満たされていないと、進歩する第一要件が欠落しているということである。またどのようなパーフォーマンスも潜在意識に蓄えられるとすると、弾数だけに頼ったトレーニングの有効性は大いに疑われる。何年か停滞しているものにとっては、仮に思い当たれば2本指から10本指への転換は必須事項であり、何ヶ月は初心者メニューの確実な実施は結局上級者への道であるといえる。


C 自己評価(セルフイメージ)

何年かのトレーニングを経て技術的に10点を得る能力が備わった射手にとって、室内の射撃のように外的条件が一定の場合、良い集中ができれば10点が撃てるはずである。潜在意識の能力としては実際に10点を撃つのであるから、10点を撃つための能力はもっている。しかしその能力を60発なり120発の競技の発射弾数全てに100%発揮した人は極めて少ない。一流のレベルにおいても60発の何割かはその得点結果に関係なく潜在意識の能力を発揮できずに終わっている。この能力を何%発揮するかを司るのが自己評価である。

自己評価は自分の能力を絞るバルブの働きをする。このバルブの開閉は自分自身に対する本心の評価、すなわちセルフイメージによりコントロールされる。

例えば自分は全日本選手権で8位以内には入れるかもしれないが、優勝は無理だという自己評価を持っていたとすると、仮に効果的なトレーニングにより潜在意識が優勝に必要な技術的能力を身に付けたとしても、セルフイメージが小さいために能力バルブが充分あかず結局入賞程度に終わってしまう場合が多い。勿論この場合も自分の評価どおりの結果を得ているわけだから本人は満足感を得る。

国際規模の大会を見ても、年代順にチャンピオンになった人を見てゆくと、特定の人がかわるがわるチャンピオンになり、1度チャンピオンになった人が再びチャンピオンになることが非常に多いことに気付く。チャンピオンになれそうな人は大勢いるが、チャンピオンになった人は僅かである。チャンピオンになった人の大半は、自分がチャンピオンになれると思い努力した人たちである。トレーニングを通じて自分はチャンピオンになれるというセルフイメージが形成され、必要にして十分なトレーニングを積んだときに、持てる能力を大きく発揮できるような穴を自己評価のバルブが開けてくれたのである。そしてそのような人々は、1度チャンピオンになると、チャンピオンであるという確固たるセルフイメージが更に形成され、次の試合でもバルブが開き、再びチャンピオンになる確率が高くなる。

このように自分自身のイメージをより高く持つことが、勝つためあるいは自分の設定したゴールに到達するためには必要不可欠である。もちろん中には偶然チャンピオンになった人もいるが、そういう人は何年かすると上位にも顔を出さないし射撃を止めてしまう人が多い。(これは非難されるべきことではないが…)

セルフイメージは換言すれば“本心”であう。セルフイメージはそれぞれの行動または成績の基準であるともいえる。その基準は“本心”に従って自分らしい自分を結果的に表現しようとし、コンフォートゾーンを形成する。コンフォートゾーンは各個人にとってあらゆる分野での“居心地の良い範囲”であり、ファッション、社会生活、スポーツ等にみな全員持ち合わせている。例えば老人が赤いスポーツカーを運転している姿を見て、ある人は不愉快の念を持ち、ある人は羨望の気持ちになり、またある人は影響を受けるであろう。これらの反応も全て各個人のコンフォートゾーンに左右される。

コンフォートゾーンは自分の環境、すなわち育ち方、友人やマスコミの意見、自分の実績により形成される。射撃においては、何点以上撃てれば嬉しいという得点と、これ以下なら腹立たしいという得点の範囲がその射手のコンフォートゾーンであるといえる。例えば立射で90点平均の射手のコンフォートゾーンは、おそらく88点から92点くらいの範囲であろう。この射手の射撃の内訳は概ね次の3つのパターンに当てはまる。  

A

9

9

8

10

10

8

8

9

10

9

 

90

B

9

6

9

7

10

10

10

10

9

10

 

90

C

10

10

10

10

9

9

10

8

7

7

 

90

Aのような点数配分で射撃が流れている間は自分自身安定感がある。ところがBのように9・6・9・7といった得点でスタートすると、セルフイメージがそれを許容せず後半は必死に盛り返し、自分のコンフォートゾーン内の成績まで引き上げる。逆にCのように10・10・10・10といつもよりハイアベレージで射撃が始まった場合、得てして後半崩れ平均的な合計で終わりがちである。よく試合の流れを省みて、“前半は良かったが…”とか“最後に崩れて…”といったことをよく耳にするが、その現象のなかにはこのコンフォートゾーンにセルフイメージが行動をあてはめようと働いた場合が多い。

射撃競技におけるコンフォートゾーンはそのほとんどがトレーニング時の点数により形成される。すなわち採点射撃はセルフイメージにコンフォートゾーンを創造する資料を与えることであり、その積み重ねによりバルブの開閉量が決まる。トレーニングでは採点射撃の状況を冷静に把握しセルフイメージが高まる形態での採点射撃の実施等に注意を向けなければならない。

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