SS<傘とジープ>



 「あ、悟浄。おはようございます」
 雨上がりの朝。水溜りに反射する光も眩しい庭先で、八戒は路地の向こうから走ってくる人影に向かって思わず大きな声を出した。
 「おう、オハヨウさん」
 悟浄も清々しい声を上げ、片手を振りながら走ってくる。大きな水溜りも軽々と飛び越え、誰より愛しい恋人の待つ場所へと駆ける悟浄の肩には、大き目の布袋が下がっている。タオルと一本の傘しか入っていないそれは、悟浄が走るに連れてひらひらと泳いでいるが、八戒と会った後は、そこに大きなアルミの弁当箱が入る予定だ。

 やがて、生垣のところまで辿り着いた悟浄は、いつも通りサッと辺りを見回すと、食べてしまいたいほど可愛らしいと思っている八戒の頬にチュッとキスを落とす。近頃毎朝恒例になっている行動は、悟浄にとって、今日と言う日が始まる合図でもある。
 けれど八戒は、普段なら薄く頬を染めてにっこりと笑うのだが、今日はさすがに申し訳ないといった表情になって軽く俯いた。
 「悟浄………あの………昨夜はすみませんでした。僕、貴方を置いてさっさと帰ってしまって」
 そんな八戒の態度を、もう昨夜のうちに予想していた悟浄は、待ってましたというように手を広げて、垣根越しに細い身体を抱きしめた。
 「イーって。緊急事態だろ?解ってっから……………あーゆーお前って滅多に見れねぇけど、それでも好きだなぁって思ったぜ」
 朝っぱらから臆面もなく吐露する甘い言葉に、今度は八戒もちゃんと赤面して笑顔を見せた。すると悟浄は、そんな暖かい彼の頬にもう一度キスをして、少しだけ腕を緩めて話を続ける。
 「で、大丈夫だったのか?あの仔犬………と、お前」
 「ええ、あの子はもうすっかり元気になりました。昨夜の今朝なんで、今日は一日家の中で様子を見ようと思ってます。…………って、僕?」
 僕が何か?と素の表情で尋ね返す八戒に、悟浄は軽く肩を竦めてきちんと説明してやる。
 「だから、お前は風邪引いたりしてないか、ってコト。それと、帰るの遅くなっちまっただろ?咎められたりしなかったかと思ってサ」
 どっちかと言うと、仔犬のことよりそっちの方が心配だった、正直な悟浄である。すると八戒は、心配して貰ったのが嬉しかったと見え、ありがとうございますと微笑んでから、昨晩の事を詳しく説明した。

 
 「………………そんな訳で、あの仔犬、うちで飼えることになったんです。バタバタしてたから、遅くなったことも有耶無耶になっちゃって、かえってラッキーでした」
 ぺろりと舌を出して首を竦める八戒の仕種が、やけに子供っぽく見える。悪戯っぽい表情の中に、悟浄はまた彼の新しい魅力を見つけて、大層嬉しくなった。
 「それで、ジープって名前にしました。ジープの下で見つけたから。洗ったら、とっても綺麗な白い毛並みなんですよ。凄く利口で、もう可愛くて…………」
 一生懸命話す八戒の口元を飽かず見ていた悟浄だが、その時ふと、袋に入れてきた傘のことを思い出して、肩から布袋を外した。それを見た八戒は、これから仕事に行く悟浄の、忙しい朝の時間を無駄にしてしまったと思い、慌てて縁側に置いてあった弁当箱を取りに戻った。
 「すみません、悟浄。はい、これお弁当。時間、大丈夫です?」
 新聞紙に包んだまだ暖かい弁当を差し出して、八戒は心配そうに尋ねる。すると悟浄は、弁当箱と引き替えにするように、こうもり傘を差し出した。
 「ホイ、これ。お前、昨夜放り出して帰っちまったろ?」
 「あ、そうでした……………すっかり忘れてた。ありがとうございます、悟浄」
 受け取ってみれば、傘は綺麗に乾いている。一寸不思議に思った八戒に、悟浄は少し照れくさそうな表情で笑いながら言った。

 「この傘、昨夜はオレのアパートにお泊りだったからサ。俺の傘と並べて、部屋の中に広げといた。ナンか、そンだけで嬉しいオレって、スゲェ阿呆かと思うけどな。いつかは、傘の持ち主もお泊りに来ねぇかな、とか思ってさ」
 冗談に紛れさせて、実は本気だったりする悟浄の言葉に、八戒は困ったように笑って、でも微かに肯いた。悟浄の心は、ケージの中で回し車を回す栗鼠のように、忙しなく軽やかにクルクルと回る。
 けれどそれは、きっとまだ先のこと。でも、それを楽しみに、ずっとこれから頑張れる。
 悟浄は、傘と引き換えに受け取った弁当箱の包みをしっかりと握り締めた。
 「なぁ、今日のおかず、何?」
 いつもの三倍増しの笑顔でそう尋ねてくる悟浄に、八戒は頬を染めたまま嬉しそうに答える。
 「卵焼きと、ヒジキの煮たのと、ウィンナーです。昨日は買い物しなかったから、家にあるものだけになっちゃって。でも、ウィンナーはタコとカニの形にしてみました」
 「うわぉ!全部大好物だぜ。………って、タコ?カニ?」
 弁当と言うもの自体、植木屋に見習いに入って八戒に作ってもらったのが初めてなのだ。タコやカニの形のウィンナーなぞ知っている筈も無い。
 「開けてみたら解りますよ。ちゃんとそういう風に見えますから」
 そう言って、ニコニコと笑う八戒に、悟浄は今日の昼飯が待ち遠しいと本気で思った。



 その日の夜。仕事から戻った三蔵が、玄関の傘立てにちゃんと入っている八戒の傘を見つけて、首を傾げながら問いかけてきた。
 「おい、傘があるぞ」
 「は?」
 「お前、昨夜、傘を置いて帰ってきたんだろうが。今朝家を出るときに見たら、お前の傘は無かったぞ」
 「あ……………ええと………親切な人が届けてくれて………」
 「ああ?………ここまでか?どうして、家が解ったって言うんだ?」
 「あ、それは………………ええ、そう。名前と住所が書いてあったから……」
 「テメェの傘には、小学生みたいに名前と住所が書いてあるのかっ」
 一寸呆気に取られる三蔵である。几帳面だとは思っていたが、二十歳過ぎの男が、住所氏名を明記した傘を持ち歩いているのは、流石に奇妙だと思う。
 「ええ、傘の柄のところに小さく。だって、そこなら手に持ってしまえば見えませんし…………それに、三蔵や悟空のにも書いてありますよ」
 「…………なにぃ?」

 気付かなかった、と三蔵は玄関に走った。自分が気付かないくらい小さく目立たなく書いてあるのなら、別に目くじら立てることも無いと思うが、それでも何所に書いてあるのかくらいは確認しておきたい。三蔵は傘立ての中から自分の物を選び取ると、先ずはそのままザッと全体を眺めた。柄の部分には、何も書いて無い。当然外側にもだ。それなら中か、と三蔵は傘を広げる。けれど、目を凝らして探しても、それらしい物は見つからなかった。
 
 すると八戒が、玄関までやってきて、三蔵の肩越しに声を掛ける。
 「ああ、三蔵のは、名前なんて嫌がるかと思って、見えない所に書きましたから。ほら、そこです」
 八戒が指差したのは、広げた傘の天辺近く。ペンキでも使ったのか真っ黒な傘に白々と、ここの住所と玄奘三蔵の名前がはっきり。

 「………………こ…………ここに………」

 「ええ、そこなら使ってる三蔵には見えないでしょ?畳めばひだの中に隠れちゃいますし」
 ニッコリと笑う八戒に、全く悪気は無いらしい。寧ろ誇らしげにさえ見えるから始末におえないのだ。三蔵は、思わず宙を見詰めて呆然と立ち尽くしてしまった。

 ───────お、俺はこの傘を差して歩いてたのか…………

 いい年をした大人の男が、天辺に住所と氏名が書いてある傘を差して雨の中を歩く図。
 誰に惚れて貰いたい訳でもないが、これはあんまりだろうと思う三蔵。けれど当の八戒は、機嫌良く微笑んでいるだけだ。
 自分の傘が戻ってきたという事実が、三蔵の頭から綺麗に忘れ去られている言に、こっそりとホッとしながら、八戒は御飯にしましょうと言い置いて台所に戻る。
 三蔵は、そんな八戒に何も言えない自分を少し呪いながら、すごすごと茶の間に戻るのであった。




春の娘婿はここまで。
次からは、夏。そろそろ悟浄の存在が、家族にばれるかな?