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 「朝ですよ。起きて下さいね、三蔵…………悟空も、早く起きないと朝御飯の時間が少なくなりますよ」
 玄奘家の朝は、主夫である八戒の明るい声から始まる。
 朝御飯の支度を終え、それぞれの部屋の襖を開けて声を掛ける八戒は、爽やかな笑顔の割烹着姿だ。

 「………………ああ………」
 一家の大黒柱である存在の三蔵は、寝起きのはっきりしない頭もそのままに、それでもムクリと起き上がって返事を寄越した。八戒は、台所に戻るついでに、ヒョイと三蔵の部屋を覗き込み、彼の何とも言えない姿に小さくクスリと笑みを零す。
 よれよれの寝巻きの袷に手を突っ込み、ボリボリと腹の辺りを掻きながら、もう片方の手で乱れていても綺麗な金髪を更にわしゃわしゃと掻き回している三蔵。

 「三蔵。今朝のお味噌汁は、豆腐とワカメですよ。この前頂いた金山寺味噌も出しておきましたから」
 八戒は、彼の好物を並べ立てて話しかけ、にっこりと笑った。
 「…………………玉子は?」
 「出汁巻きです」
 好物ばかりの朝食の献立に、三蔵は一見不機嫌そうな表情のまま、それでもそそくさと起き上がって洗面所へと向かう。普段より各段に目覚めが良さそうなその様子に、八戒は再び小さく笑いを漏らした。

 「オハヨ………八戒。弁当とお握り作っといてくれた?」
 そこに、パジャマ姿の悟空が、ふわわわと欠伸をしながら声を掛けた。
 「あ、おはようございます、悟空。ええ、ちゃんと出来てますよ。お握りは、部活の前に食べる分と、後に食べる分。合計四つ」
 悟空は、隣町にある高校に通っている。勉強こそさっぱりだが、元気で明るい体育会系生徒だ。
 「サンキュ!中身は?」
 「それは食べたときのお楽しみ。さ、急がないと遅刻しますよ」
 悟空は、わっと声を上げ洗面所に向かって駆け出した。

 朝の光が燦々と差し込む廊下で、ほのぼのした会話を繰り広げながら、玄奘家の朝が始まった。




 茶の間の座椅子にどっかりと腰を下ろした三蔵は、炬燵の天板に並べられたおかずをざっと眺めてから、徐に手を伸ばした。朝刊とその上に乗った眼鏡は、いつも通り、八戒が用意した物だ。眼鏡を掛けて、バサバサと新聞を広げ、三蔵は眩しさに目を細めながら紙面を眺める。
 やがて悟空が、鞄と学生服を持って茶の間に姿を現すと、見計らったように八戒が台所から出てきた。

 「あ、八戒、牛乳は?」
 自分の席に着いた悟空は、目の前に伏せて置かれた茶碗の隣に、いつもある物が無いと声を上げる。
 悟空は、食事の時には必ず牛乳を飲むのだ。年の割りに背が低いのを気にしての、自己成長努力と言ったところである。呼びかけられた八戒は、持ってきた味噌汁の鍋を畳の鍋敷きに置きながら、慌てたように答えた。
 「あ、すみません。持ってくるの忘れちゃいました。一寸待ってて下さいね」
 そのままそそくさと立ち上がりかけた八戒に、悟空はパッと立ち上がって言った。
 「あ、俺が取ってくるよ。八戒は、飯よそっといてっ。冷蔵庫?外?」
 「すみません、外です」
 毎日配達される牛乳は、門の外側に取り付けた箱の中にある。悟空は気軽に返事をして、茶の間から出て行った。八戒は、悟空の申し出をありがたく受け取って、御飯と味噌汁の用意を始める。
 「………珍しいな、お前が忘れるなんて」
 ホカホカと湯気の立つ真っ白な御飯を、茶碗によそう八戒を横目で見ながら、三蔵がボソッと呟く。読みかけの新聞をガサガサと畳みながらの言葉は、それでも八戒の耳にきちんと届いた。
 「あはは、一寸考え事してて………はい、どうぞ」
 縁起が良いと言う雲竜の茶碗を三蔵の方へと差し出しながら、八戒が苦笑交じりの笑みで答えた。
 「考え事?」
 三蔵は、八戒の表情を目ざとく拾い上げると、茶碗を一旦テーブルに置いて尋ねてくる。
 「ええ、まぁ…………大したことじゃ無いんですけどね。それより三蔵、今日はいつも通り出勤で良いんですよね?」
 けれど八戒は、曖昧な言葉で質問を流し、ほんの少し期待をこめた声音で、三蔵の今日の予定を尋ねて返した。


 三蔵は、この桃源町にある長安山経文寺に籍を置く僧侶だ。住職は、三蔵の師に当たる光明と言う人物だが、現在はきままな世界一周旅行出かけてしまっていて不在である。性格が性格なので、いつ帰ってくるか全く見当も付かない住職の代理は、それなりに忙しく大変だが、それでも三蔵を含め数人の僧侶が手分けして何とか仕事をこなしていると言うのが現状だ。
 経文寺は、小さいながらも由緒ある寺で、檀家も多いから法事などの仕事も結構多い。三蔵の仕事は主に事務系統だが、人手が足りなければ葬式にも行くし本堂の掃除だってする。寺の中にはそれなりに住居空間もあるのだが、三蔵はそれを嫌がって外に住まいを持っていた。この辺りはかなり融通が利くらしい。尤も、住職である光明が鷹揚な性格だから、それも可能なのかもしれない。
 何にしても、三蔵は毎朝自宅から寺へと出勤し、夜になると帰宅する。着て行く物がスーツネクタイではなく、着物に草履だと言うだけで、普通のサラリーマンと大差ない生活だ。


 「いや、今日は休みだ。予定していた会合が、先方の都合で延期になったのでな。昨日帰り際に連絡があったんだが、寺のヤツラに言うと、別の仕事を任されそうなんで、黙って帰ってきた。行ったことにして、今日は家にいる」
 今日の予定を聞いた八戒に、三蔵が寄越した答えがそれだった。
 「はぁ?………良いんですか、三蔵?」
 「構わん。行ったら、待たされた挙句に延期になった、って事にすりゃぁ良い。たまには休ませろ」
 呆気に取られて少し眉を顰め、嗜めるような色を含んだ言葉を紡ぐ八戒に、三蔵はしれっと答えて、ズルズルと渋茶を啜った。
 「そんな…………たまにはって………サボってばっかりじゃないですか」
 八戒は何とも複雑な表情で低く呟いたが、そこへ牛乳を取りに行った悟空が戻ってきたので、話は中途で終る。
 
 やがて朝御飯も終わり、悟空は自転車で家を飛び出して行った。賑やかな彼が出て行った後の静けさに浸りながら、八戒は台所で後片付けを始める。水色のタイルで作られた流しに向かい、水道の蛇口を捻って水を出せば、洗い桶の中の茶碗や小鉢がカチャカチャと音を立てた。

 ─────────今日は、ダメみたいですね………

 増えてゆく水をじっと見詰めながら、八戒はそっと溜息をつく。三蔵が一日家に居るなら、外出も電話も難しいだろう。近所に買い物に行くとかのように、目的がはっきりしていて短時間の外出なら問題はないだろうが、秘密にしている恋人との逢瀬を楽しむようなことは出来そうに無い。電話くらいなら、口実をつけて外に出たときにできるが、午前中はその口実だってなかなかありはしない。

 ─────────もう、一週間も会ってないなぁ………

 八戒は、不安定に揺れる洗い桶の中の茶碗を、指で突いて沈めながら、もう一度溜息をついた。



 三蔵にも悟空にも内緒で、八戒が付き合っている相手の名は悟浄。桃源町の駅前アパートに住む、背の高い精悍な青年だ。付き合いだしてからまだ半年の二人だが、そろそろ将来のことも真剣に考えたいとまで思い出している間柄なのである。
 八戒が、悟浄のことを隠しているのは、彼も自分も男性であるという理由もあるのだが、それ以上に、三蔵が彼を気に入らないだろうという予測が簡単に付くからだ。悟浄の外見もそうなのだが、定職も持たず賭け事で日銭を稼ぐ遊び人とくれば、三蔵が許すわけも無い。
 八戒より一つ年上である三蔵だが、この家の中では彼が大黒柱で父親的存在だ。法律的には、悟空と八戒の身元を預かるのは光明なのだが、その代理として実質的には三蔵が面倒を見ていると言っても良い。 
 八戒も悟空も、三蔵には色々と恩があるから、父親のような存在の三蔵に否やは無いのだが、それも過保護の範疇に入るほどだと、溜息も出ようと言うものだ。



 「おい、どうした八戒?」
 その時突然、八戒の背後から声が掛かった。
 「うわぁ!…………って脅かさないで下さいよ、三蔵」
 八戒は、声を掛けた三蔵の方が驚いて身を引くほどの驚きぶりで、バッと振り返って叫んだ。
 「な、何だってんだ…………俺はさっきから呼んでたんだぞ。茶を入れてくれとな」
 三蔵は、寿司屋で貰った大振りの湯呑み茶碗を握り締めて、ムッとしたように答えた。
 「あ…………すみません。ええと………お茶ですね、お茶…………はい…」
 取り繕うにあたふたと、八戒は湯呑みを受け取って無理やり微笑む。そうして、魔法瓶を持ち上げると、急須の蓋も取らずにそのまま湯を注ぎ込もうとした。
 「お、おいっ!蓋っ!」
 「えっ!……あっ!」
 あわや熱湯が周囲に零れ出るか、と思いきや、そうはならず、八戒はホッとしたように、けれど決まりが悪そうな奇妙な笑みで、三蔵に向かって肩を竦めた。
 「……………空だったみたいです。………すみません、お湯を沸かしますから、一寸待ってて下さいね」
 そう言って、再び流しに向き直った八戒に、三蔵は眉間に深く溝を刻んで、胸の中で呟いた。

 ────────どうしたってんだ、こいつ……………

 近頃八戒は、ぼんやりと考え込んでいることが多いような気がする。そんな時に、何気なく三蔵が声を掛けると、決まって飛び上がらんばかりに驚くのだ。今回も全く同じで、驚いたことを取り繕うようにそそくさと手を動かし始めるのだが、魔法瓶が空であったことさえ気付かなかったらしい。
 「…………おい、何か気掛かりな事でもあるのか?」
 三蔵は茶の間に戻らず、仏頂面のまま、さり気無さを装って尋ねてきた。広くも無い台所で、ただ突っ立っているのもおかしいと、手近にあった梅干の小壷の蓋なんぞを摘み上げ中を覗き込んでみる。
 「え?……………あ、そんな事は……………」
 八戒は、水を入れた薬缶をコンロに掛けると、火をつけて振り返り答えた。チラッと三蔵の手元を眺め、そうしてからいつもの笑顔で長閑に笑ってみせる。
 「そうか?それなら良いが………何かあったら、ちゃんと言え」
 狭い台所で正面から見つめてくる翠の瞳に、三蔵は年頃になった娘に見詰められた気恥ずかしさのようなものを感じてしまった。ゴホンと一つ咳払いをして、それだけを言うと、三蔵は梅干の蓋を元に戻して茶の間へと帰ってゆく。
 その後、暫くして運ばれてきたお茶には、小皿に盛った梅干が添えられていた。



 「………………どうしよう………」
 八戒は、空になった洗濯籠を抱え、庭の物干しに翻る洗濯物を見上げながら、溜息交じりでそっと呟いた。
 「電話………掛けたいのに………」
 もう今日で一週間も会っていない悟浄の、せめて声だけでも聞きたいと思う。けれど、電話は玄関にあって、その直ぐ傍が茶の間なのだ。三蔵は、せこい手段でもぎ取った休みの一日を、のんびりと過ごすつもりなのか、先ほどから炬燵に潜ってテレビの前を動かない。
 
 悟浄と会う時はいつも、八戒の方から電話を掛ける。悟浄はそれを待つだけだ。それは、八戒の方の事情を考慮しての事。
 二人が付き合いだして直ぐの頃、電話番号を聞いてきた悟浄に、八戒は酷く困惑したように口ごもった。その様子で、はっきりとは解らないが何か事情があるのだと察した悟浄は、それならと自分のアパートの電話番号を教えた。大家さんの電話だが、呼び出して貰えるし、午前中なら必ず居るからと。
 それ以来、少しずつ八戒の家の事情も解ってきた悟浄は、彼に迷惑を掛けたり困らせたりすることだけはしたくないと、毎日午前中はじっと電話を待つ生活なのである。

 「…………呼び出しだから、時間が掛かるし………」
 八戒は、再び小さく呟いた。玄関でこっそり電話をするにしても、相手の名前を言って呼び出してもらうわけで、当然三蔵はそれを聞いてしまうだろう。そうして、悟浄が電話口に出てくる前に、茶の間から顔を出すに決まっている。
 「三蔵………出掛けてくれないかなぁ……」
 角の煙草屋でも良いから、と八戒は祈るような思いで踵を返し、家の中へと入るのであった。





 けれど結局、午前中、三蔵は一歩も家から出ず、とうとう昼過ぎになってしまった。
 八戒は、三蔵の居ないところでは、気落ちした表情もあからさまに、黙々と家事をこなす。昼御飯の後片付けをして、次は洗濯物の取り込みだ。
 
 茶の間のガラス戸を開けて縁側に出た八戒は、置いてある下駄を突っ掛けて庭に出た。
 ささやかな庭ではあるが、日当たりだけはとても良い。八戒が植えたチューリップの芽が、小さな花壇の土から可愛らしく顔を覗かせている。庭の片隅の梅の木は満開で、優しい色彩を投げかけていた。
 けれど今の八戒は、冬にしては暖かい日差しも、微笑ましい芽生えも、誘うような色合いのピンクの花々でさえも、心を引き立ててくれるものではない。
 八戒は、機械的に物干し竿から洗濯物を外し、次々と茶の間の中に運び込んだ。

 そうして、最後の一抱えを持って振り返ったとき、生垣の向こうから微かな呼び声が聞こえたのだ。
 八戒、と囁くような声は悟浄のもの。優しく暖かく自分を呼ぶ声を、間違える筈も無い。
 けれどその瞬間、八戒は慌てて家の中を覗き込んだ。三蔵は、どうしているだろうか?

 茶の間を伺い見れば、つい先程まで炬燵に座っていた三蔵の姿は無い。テレビは点いたままだから、一寸席を立っているのだろう。行き先はトイレか自室か?
 おそらく、八戒が庭に出た時に、開け放したガラス戸から入ってくる外の空気が寒かったのだろう。しかし、家事をこなしている八戒に、寒いから閉めろなどとは言える筈もない。三蔵には寒いと感じるその外に、八戒は洗濯物を取り込みに出て行っているのだから。だから三蔵は、それなら寒いついでに用を足してこようと思ったのだろう。
 今がチャンスだ、と思った八戒は、抱えた洗濯物を大急ぎで茶の間に放り込むと、カタカタと下駄を鳴らして生垣へと走り寄った。

 「…………悟浄?」
 それでも、一応声を潜めて、八戒は生垣の向こうを爪先立ちで覗き込んだ。
 ボサボサと茂ったネズミモチの垣根は、八戒の胸元までの高さしかないが、冬でも葉を落とさない常緑樹の深緑で、向こう側を見通すことは出来ない。けれど茂った枝葉の上に、ぴょこんと飛び出して、風に揺れているのは悟浄の髪だ。まるでアンテナのように伸びている赤いそれに、八戒は彼の居る場所を容易に推し量ることが出来た。

 「ばぁ…………」
 すると悟浄は、おどけたように声を上げて、八戒の真正面にパッと顔を出した。

 「ど、どうしたんですか、悟浄………………何か、あったんですか?」
 八戒は、約束も無く突然現れた悟浄に驚きながら、それでも一週間ぶりに見た恋人の姿に柳眉を下げて、こそこそと尋ねる。
 「ワリ…………我慢できなくてサ。一週間も会ってねぇだろ?どうしてるかって、気になって気になって、我慢できずに来ちまった。迷惑だってのは、解ってんだけどサ。でも、直ぐ帰っから………顔見たら、一寸安心したし。突然来ちまって、ゴメンな」
 悟浄は、生垣の向こうでスッと立ち上がると、照れくさそうに頭を掻きながらそう言って謝った。

 確かにか彼の行動は、現状においては無謀で困った事かもしれないが、それでも来てくれれば嬉しいのは、恋人同士の常である。八戒は、少しだけ困った表情を滲ませながら、それでも幸せそうに笑って見せた。

 「連絡出来なくて、ごめんなさい、悟浄。僕も、ずっと会いたかったんです。でも、ここ一週間は、三蔵のお寺の人手が足りなくて、手伝いに行ってたんです。事務担当の人が一人、風邪を引いてしまって………。三蔵と一緒に家を出て、一緒に帰ってくるから、電話も出来なくて……本当にごめんなさい」
 八戒は、生垣の上に片手を乗せて、すまなそうに目を伏せる。そんな恋人の姿に、悟浄はその暖かい掌を彼の手に乗せて、イイよと笑って見せた。
 「そんならイイんだ。オレはまた、お前が風邪でも引いて寝込んでるんかと思ってサ。元気なら、それでイイって。………で、その手伝いとやらは、何時までやんの?」
 「それはもう、昨日で終ったんです。だから、今日は絶対電話をしようと思ってたんですけど、生憎三蔵が休みでうちに居て…………」
 「そっか、そんじゃ………明日とか、明後日とかなら……」
 「ええ、出掛けられると思いますから。また、午前中に電話します」
 にっこりと笑う八戒に、悟浄も大層幸せな気分になった。

 ────────やっぱ、オレ、八戒のこと大好きだワ

 少し会えないだけでも気になって落ち着かない。一寸でも会えて話ができれば、それだけで幸せ。

 悟浄は、重ねた掌もそのままに、急に辺りをキョロキョロと見回した。同じくらいの家が建ち並ぶ路地には、人気どころか猫の子一匹居ない。

 一寸だけ、な。

 そう胸のうちで呟くと、悟浄はスッと顔を寄せて、八戒の唇に軽いキスを送った。チョンと唇を乗せるだけのような可愛いキスに、けれど八戒はポンと音がするように頬を染めてしまう。
 梅の花の暖かな香りが、彼の頬の彩りに誘われたかのように、ここまで流れてきた。
 「…………悟浄…………」
 恥ずかしそうに視線を外す恋人の可愛らしさに、図に乗った悟浄が、もう一度と手を伸ばしかけたその時、家の中から声が飛び出してきた。

 「………おい、八戒?」
 三蔵の声だ。茶の間に戻ってきて、そこから見える庭に八戒が居ないことに気付いたらしい。或いは、垣根の向こうにいる不審な気配を察したのかもしれなかった。声を掛けながら、縁側に向かう足音さえもが聞こえるような気がする。
 八戒は、思わず悟浄の頭に手を掛け、力の限り下へと押し込んだ。

 「ンギャっ!」

 突然、脳天に加えられた圧力に、悟浄は思わず珍妙な声を上げてその場にしゃがみ込む。けれど、八戒はそんな悟浄には目もくれず、慌てて振り開けると不自然なほど朗らかな声で返事をした。
 「はい…………ここです、三蔵」
 三蔵は、積み上げられた洗濯物の山を足で押しのけながら外に頭を出した。足元に目をやっていたので、間一髪、悟浄の頭は見えなかったらしい。
 「どうした?………洗濯物を放りっぱなしで、誰か来たのか?」
 無意識に過保護な三蔵は、八戒が押し売りか性質の悪い行商人にでも捕まっていたら助けてやろうと思っていた。それはある意味、全く必要の無い助け舟であるのだが。
 「い、いいえ…………だ、誰も……」
 「妙な音がしたようだったが?」
 眉を顰める三蔵に、八戒はひたすら笑顔全開で答えるしかない。
 「あ………い、犬です。犬っ………通りかかった犬が、欠伸をして」
 八戒が、三蔵と話をする間、悟浄はひたすら身体を縮めて生垣の向こうに蹲っていた。

 ─────────い、犬っ?……犬の欠伸っ?

 悟浄は、八戒の嘘を援護しようと、必死に頭を働かせた。
 「………………(え、え〜〜と)…………ぐわぁぁぁふぅぅぅ〜〜〜

 犬の欠伸の効果音なんて知るはずも無いが、それでも何とか、それっぽい音を出す悟浄。しかし、どうやら音量が少々大きかったようで、犬と言うよりはセイウチかカバのようである。

 「………………?………犬だと?………品の無ぇ声だな。どうせその辺の野良犬だろう。やたらに餌なんかやるんじゃねぇぞ、八戒。居座られたら厄介だからな。何なら、俺が追っ払ってやろう」

 ───────ひ、品が無いだとぅ〜〜〜。野良犬たぁ、何だよっ!

 思わず腹を立てた悟浄だが、八戒の方は、もう一つの下駄に足を乗せてこちらに来ようとする三蔵を見てしまっては、それどころではない。
 「あ、もう行っちゃいましたからっ。寒いですから、中に入ってて下さい、三蔵」
 慌ててあげる制止の言葉と共に、八戒は生垣に背を向けた。本当は、もう少しだけでも悟浄と話をしたい。けれど、こうなってはもうどうしようもないだろう。
 それならお前もさっさと入れ、と言う三蔵の言葉に、はいと返事をし、何度も振り返りながら家の中に入ってゆく八戒。
 悟浄は、生垣の隙間をこじ開けて、そんな八戒の姿を見ていた。



 「…………………野良犬………か………」
 悟浄は、アパートへの道をぶらぶらと歩きながら、つい先ほどの出来事を反芻していた。
 「似たようなモンかもな………」
 面と向かって言われた訳ではない。自分の姿を見て、投げられた言葉ではない。
 けれど、何故かその一言が、悟浄の胸にしっかりと突き刺さっていた。
 「オレが野良犬なら、餌は八戒自身………ってか?」
 八戒に魅かれ、引き寄せられる様は確かにそうかもしれない。そんな事を考えて、悟浄は口元に苦い笑みを浮かべた。
 「……………情けねぇなぁ………」
 毎日、パチンコやら花札やらで日銭を稼ぎ、定職に就いていない自分を、悟浄は無性に腹立たしく感じた。こんな遊び人では、恋人として紹介してもらう以前の問題だ。ごく普通の友人としてだって、許してなんぞ貰えないだろう。
 「何とかしねぇとなぁ…………じゃなくて、何とかするんだよな。するっきゃ無ぇって」
 悟浄は、ふいに立ち止まって空を見上げた。

 八戒の家の周りを歩いていても、おかしくない立場を得よう。彼が三蔵と歩いている時に、偶然出会っても挨拶を交わせるようになろう。あれは誰だと三蔵が尋ねたときに、八戒がきちんと答えられるように。
 先ずはそこからだ、と悟浄は拳を固めた。
 前途多難だが、それで諦められるような半端な気持ちじゃ無い。悟浄は、胸の中で自分にそう言い聞かせると、しっかりと前を向いて歩き出した。

                              SS1← ・ → 


こんな感じでスタート。
先ずは、家族に内緒の恋人同士から(笑)。
全体を通して、八戒激愛悟浄対八戒盲愛三蔵のバトルになるんじゃないかな?
タイトルは、このシリーズにおける悟浄の立場です(大笑)