遊覧日記

「このあと三階の演芸場にも行ってみたいけど、順番で何か歌えっていわれたら、どうする?」
 じっと、お湯に浸かったまま考えていたHは、
「このさい、歌っちゃう」という。私もお湯に浸かったまま、ひろびろしてきた気持ちの中で、よし、そうなったら美空ひばりの『花笠道中』にしよう、と決める。

−浅草観音温泉−より
著者 武田百合子
出版社 ちくま文庫

 著者の武田百合子さんを知ったのは、ずいぶん回り道してからだった。きっかけは本屋で見つけた野良猫の写真集で、カメラマンは武田花さんとあった。この本に載っている猫は正真正銘の野良猫ばかりで、キャラクターショップの店頭にある媚びた猫の写真とは全然違って、精悍かつ野性的なのが気に入ったのだ。
 それからしばらくしてやはり本屋の棚で、この本を見つけた。
「うん?武田百合子 写真武田花。同じ姓だなあ」同じ姓であたりまえ。花さんは百合子さんの娘だったんだ。だから、この本は写真につられて買ってきたのだが、一読して文章の方もすっかり気に入ってしまった。

 内容は百合子さんが、気の向くまま東京都内や日本のあちこちをぶらぶらと訪ねるといったもので、まあエッセイと言っていいだろう。
 でもいわゆるエッセイとは、どこか違う印象を受ける。
 エッセイは身の回りの出来事や光景を表現したものだから、小説とは違って素材そのものは現実であることは間違いない。だけど、たいがいのエッセイは作者の主観を通して見た現実だから、どうしても作者の主観なり感情なりのフィルターがかかっている。逆に言えばエッセイの個性とは、その作者の視点から生まれるのだ。だから気に入ったエッセイを読むのは、気のあった人との楽しいおしゃべりに似ている。エッセイが気に入るというのは作者と肌合いが合うということかもしれない。

 ところが、百合子さんの文章からは彼女の体臭や体温のようなものがあまり感じられない。彼女がどこに行って何を見ても、その場の空気に同化してしまって、彼女自身が風景になってしまうように感じる。
 じゃあ、単なる観察者なのかというと、そうともいいきれない。彼女自身の感情めいた表現はほとんど無いんだけど、彼女自身の存在ははっきりと感じるのだ。表現が難しいので、ちょっと引用させてもらおう。
 両手、手の先までぎっしりと包帯を巻いて、派手な上着を肩からひっかけた男と水商売風の女が、麟鳳という赤紫の大輪のところで立ち止まり、静かな低い声で、しきりに女が話しかけている。
「指輪持っているのよ。こういう色の。誕生石がさ、そうだから。だけど指に合わないのよ」男の方は何も言わない。女は気を変えて、
「いつもおばあちゃんの命日は、うちの牡丹が咲いちゃうのね。今年は全然咲かなかったのよ」などとも言う。

−上野東照宮−より

  どうだろう。行きずりのアベックのとりとめのない会話が、なんともその場の情景を生々しく浮かび上がらせている。これらの光景や会話は、確かに彼女が見聞きしたもののだろうけど、いくつもの見聞の中から、どうしてこう思い切りよく的確な瞬間を切り出せるのか。

 難しい話になっちゃたけど、とにかくこの本を読んでみるといい。場末の公園や平日の遊園地にたむろする人々がなんとも個性的に愛らしく描写されている。ありふれた光景ばかりなのに、非日常的な気分のする不思議なエッセイ集です。

 武田百合子さんの文章はプロの作家からも絶賛されているらしいが、本人はプロの作家のつもりはないのだろう。彼女の夫は作家の武田泰淳さんで、泰淳さん の秘書の仕事もしていたそうだから、もともと文才はあったのだと思う。編集者なら目をつけないはずがない。いずれにしても、武田百合子さんは気持ち的には単なるおばさんなのだけど、すごい観察眼と独自の表現力を持ったスーパーおばさんなのだ。

おすすめ
 観光地へ行くより、知らない街のごみごみした路地をうろうろするのが好きな人。
 家にいながら、見知らぬ街をうろうろできます。

P.S.
 武田花さんもこの本の中に「H」というイニシャルでよく出てきます。どこか世の中とずれている似たもの母娘の姿は、時にユーモラスでいい味を出していると思います。
 冒頭にふれた花さんの写真集も紹介しておきます。

「猫・陽のあたる場所」武田花写真集
出版社 現代書館
ISBN4-7684-7715-1