愛に時間を

 ぼくらは似合いの夫婦だったよ、ミネルヴァ。ローラは二十歳だったが、ぼくは若返り処置を受けたばかりのところで、外見を三十代初めに保っていた。ぼくは数人の子供を作り、−−−九人だったと思う−−−それから四十年ほどすると彼女はぼくに飽きてきて、ぼくの五番目/七番目の従弟ロジャー・スパーリングと結婚したいといいだした−−−ぼくはそのことを嘆いたりはしなかった。なぜならぼく自身、田舎紳士の暮らしをつづけていることにいらいらしはじめていたからだ。とにかく、女が別れたいといいだしたら、好きにさせることだ。ぼくは彼らの結婚式に立ち会ってやった。

原題 Time Enough for Love: The Lives of Lazarus Long
著者 ロバート・A・ハインライン
訳 矢野徹
出版社 ハヤカワ文庫

 ハインラインはアシモフと並んで、アメリカでSF黄金時代の中心となった作家だ。でもどちらかといえば、アシモフの方が日本人受けするんじゃないだろうか。アシモフのSFは、ストーリーの起承転結がはっきりしているし大げさな表現もない。ハインラインの方は予想のつかない展開という点では独自のものがあるけど、ストーリーは広がりすぎて収拾がつかなくなる場合がある。
 ただSFファンの場合はどうかというと、ハインラインには熱烈なファンが多い。ネットで彼の代表作ともいえる「夏への扉・the door into summer」のキーワードで検索すると熱烈な愛好者の声がひろえる。中にはホームページの表題に使っている人もいる。ぼくも夏への扉でハインラインが大好きになった一人だ。ではハインラインのどこがいいのかといえば、だれも想像できないようなストーリーの設定も独特だが、なによりその語り口がいいのだ。
 海外の小説では、時々表紙裏の登場人物の説明を見ないと「こいつは誰だっけ?」とわからなくなることが多いけど、ハインラインの作品の登場人物は造形がはっきりしていて、取り違えることなどないのだ。会話もしゃれていて、とてもスタイリッシュだ。

 さてこの本は1973年の出版で、日本ではその一部がSFマガジンで紹介されたことがある。ぼくは、たまたまその時のSFマガジンを買って読んだけど、話の筋もよくわからなくて「なんだこりゃ?」という感じだった。その後ハヤカワ海外SFシリーズのハードカバーで出て、知り合いに頼んで割引で購入したのを覚えている。手に入れてあまり厚いのでびっくりした。現在は文庫本3冊になっているけど、中身はアラベスクみたいにいろんな話が交じっているから、あまり気合いを入れて読まなくてもいいと思う。

 物語は一人の男が病室らしい場所で意識を取り戻す場面から始まる。もっとも、前書きで物語の背景となる世界史が紹介されるが、全作の「メトセラの子ら」を読んでいるか背景など先に知りたくないという人は飛ばしてもかまわない。さて、主人公は不機嫌だ。なぜなら病室に閉じこめられているからだ。そして彼の前に「ファミリーの臨時議長」を名乗るアイラが現れる。何がなんだかよくわからないうちに、二人の緊迫したやりとりが始まる。主人公が要求しているのは、病室から自由になることなのか。とんでもない、彼の望みは死、自殺することなのだ。その自殺を許さない病院とアイラに対して、腹を立てていたのだ。
 このやりとりから、二人の関係と物語の背景が徐々に明らかになってくる。主人公の名前はラザルス・ロング。彼はこの時点で2360歳。人類が医学の進歩で長命になったとはいえ、最長命の人物だった。彼は長命人が短命人(普通の人類)から迫害され地球外に亡命した時のリーダーであり、その後の銀河系への植民を指導し、銀河中に広がる文明を作り上げた功労者であったのだ。アイラが臨時議長を名乗っているのは、ラザルスが600年の間行方不明だったため、現れたときいつでも議長になれるように、最高権力者は臨時議長という形をとる習わしなのだと説明する。
 ラザルスはその生涯の中で初めて、生きることに疲れ切っている。そしてこの世界では誰もが望む限り長生きできるため、死は自身が望んだときに迎えるものなのだ。彼は自殺するためのスイッチが病室に無いとアイラにくってかかる。
 アイラは袋小路に入りつつある銀河系政府に新しい展望を開くため、ラザルスを必要としていた。だからなんとしてもラザルスに生き続けてほしかったのだ。長いやりとりの末、ラザルスは、いやいやながら自殺を留保する。ここまでだけで、そうとう長い。映画だったら1分で済んでしまうだろうこの導入を、ハインラインは省略することなく延々と描写する。しかし二人の緊迫した長いやりとりが、物語にリアリティを生み出している。

 ラザルスはアイラに賭を持ちかける。2000年以上生きたラザルスがまだ体験してない新しい人生の目的を示せたら、死を撤回するというのだ。アイラがその新しい体験を見つけだすまでは、アイラに協力する約束だ。物語の土台としては、この賭がどちらの勝ちに転ぶかなのだろうけど、アイラの回答が明らかになるのは、物語の後半に入ってからだ。前半は、ラザルスが語る彼の人生そのものだ。ラザルスはその生涯に数え切れないくらいの名前と様々な仕事や戦争を体験してきた。その一つ一つに一人の人間の人生が詰まっているのだ。そしてこの数多くの人生のストーリーこそ、この物語の中心と言っていいだろう。がんこに生き方を変えなかった男が様々な人物と様々な出会いをする。その人間模様がこの物語の魅力だ。

 特に大きなエピソードの二つ。「そうでなかった双子の話」と「ある養女の話」は何をおいても読む価値がある。ぼくの好みは「ある養女の話」。ハインライン特有の硬派で男臭い語り口なんだけど、泣けます。

おすすめ
 O・ヘンリーの人情話が好きな人などに意外にいいと思います。
 大長編なんだけど、ある人生の一瞬の輝きがいっぱい詰まっています。

P.S.
 この本にはラザルス・ロングの名言集?がはさまってます。
 その中で、ぼくが好きなものを一つご紹介。
「ものを書くことはかならずしも恥ずかしいことではない。−だがやるときはこっそりと、あとで手を洗うこと」
 うん、しっかり洗おう。