姿 三四郎

 黎明の冷たい空気をふるわせて、さいずち和尚の勤行の声が耳を打った。
 道場の受け身の音がつづき、その響きが池の面に縮緬のような波をたてた。
 三四郎の心気が明るく澄んで来た。
 池中の彼に関係なく、ここに常の一日が始められたのだ。三四郎は不覚にも喜びの涙を瞼に感じて眼を閉じた。
 日が高く昇り、やがて、赫々と彼の頭を焼いた。

姿 三四郎
著者 富田常雄
出版社 新潮文庫

 日本人の生活感の移り変わりはめまぐるしい。
 2004年のNHK大河ドラマは「新撰組」ということで幕末の京都が舞台となっている。日本刀を振り回すのも、時代劇として当たり前のように観ているが、さて今から何年前ぐらいかと考えると、たった140年のことなのだ。長い歴史を持っている国で100年200年の期間で日本ほど生活感が激変した国はないのじゃなかろうか。この姿三四郎の時代背景は明治中期だ。明治という時代はさて江戸時代以上に現代人にはぴんとこない時代なんじゃないかと、この小説を読んでいて思う。
 小説の主人公は題名の通り姿三四郎。名前くらいはどこかで聞いたことがある人が多いと思う。内容は柔術を極めたいと念願する青年が、様々な障害を乗り越えて修行を続けるといった青春小説なのだが、一読して感じるのはその姿三四郎が生きている明治という時代の生々しい生活感なのだ。一部の登場人物をのぞけば、ほとんどは和服であるし、米を炊くにも洗濯をするにも井戸の水は欠かせない。街に漂う匂いも埃っぽく猥雑で、下町に住む人々には、江戸の空気が色濃く残っている。物語はそんな下町の人々の暮らしぶりや素朴で一本気な生き方に共感して書かれている。だから、文明開化を気取るインテリは、悪役として実にいやらしく対比して描かれている。このあたり、実に大衆小説としてわかりやすい。三四郎の直接の敵としては、対立する柔術家や外国人のボクサー・レスラー、空手家などが登場するが、そんな直接のライバルよりも三四郎を悩ませるのは、柔道を野蛮で時代遅れのものとしてさげすむインテリであり、また金儲け主義の商人たちなのだ。
 実はこの小説で三四郎が登場するのは、冒頭から五分の一ほどが過ぎてからなのだ。では初めの部分ではどうなっているかというと、この冒頭部分の主人公は矢野正五郎という人物。彼は東京大学のエリート学生だが、柔術各派を統一して柔道という新しい武道を作るあげようという望みを持っている。三四郎の登場までは(ある意味登場後も)彼の旧柔術派との確執や世間からの無理解との戦いがテーマとなっている。この矢野正五郎が実に寡黙でかっこいいのだ。彼こそ明治の男という感じで、人間の厚みが現代とは違うなあと思うのだ。
 矢野正五郎が開いた道場が紘道館という名前になっているが、これにはモデルがあり現在の講道館がそれだ。登場人物もほとんどが柔道初期の実在の功労者がモデルとなっていて、矢野正五郎は講道館を創始した嘉納治五郎だということになっている。つまりこの小説は講道館柔道の創設期を題材としたモデル小説なのだ。
 でも、小説では人物構成に実在の人物を使っているだけで、ストーリーはすべて作者の創作と言っていいと思う。なにしろ矢野正五郎の悲恋の相手は豪商の箱入り娘で、彼女は気に入らない縁談を強制されたあげく肺病でこの世を去っていく。三四郎の恋敵は旧柔術派の若きエースだし、とにかく大時代なストーリーでメロドラマとしてはいかにもありがちな小説といっていい。
 ところが、この大時代な設定がまったくそらぞらしくない。つまり明治に生きた人々の生々しい暮らしや感情が、その時代の空気を知っている作者によって実にいきいきと活写されているからなのだ。たとえば三四郎の親友として真崎東天という壮士(政治活動家)が登場する。彼が訴えるのは鹿鳴館に象徴される欧化主義の危うさである。一見保守的に見える真崎の活動だが、清朝の弱体化などアジアの植民地化の危機を訴えるなど、たいした情勢判断をしている。三四郎は彼の活動に共感するが、自分に何ができるのか悩まざるを得ない。三四郎は明治の男らしく真摯に生きようとして、時代にもそして柔道にも翻弄され続けていくのだ。
 姿三四郎は確かに大時代なメロドラマだ。しかしどのページにも、あつい情熱に満ちた明治という時代がぎっしりつまっていて、どんどんのめり込んでしまうのです。

 富田常雄の小説もいくつか読んでみたけど、正直いって明治もの以外は単なるメロドラマでいまいちの出来が多い。でも明治を背景にしたものは、どれもなかなか力作で読ませるものが多い。ぼくのおすすめは、姿三四郎の二番煎じぽいけど「柔」。それから川上音次郎をモデルにした「白虎」。どちらも明治の匂いがつまった物語です。

おすすめ
 泣けるメロドラマに目がない人。でもメロドラマが嫌いな人にも、硬派な描写だからけっこういいかもしれません。明治ってどんな時代だったかも実感できると思います。