東京路上探検記


著者 尾辻克彦
写真 赤瀬川原平
出版 新潮文庫

先日、散歩に出かけようと思い子どもたちをさそったら、「行きたくない」とにべもなく娘に断られてしまった。ここで引き下がっては、父親の沽券に関わると「では冒険散歩に行こうか」というとすぐ「行く行く」という。息子も行くというので、雨上がりの空を見て傘を持って出かけた。玄関先で傘をたてて手を離すと、左に倒れた。
「じゃあ、こっちだ」
 三人で傘の倒れた方へ歩き出す。こうして角々で傘を倒しては、倒れた方へどんどん進んだ。
 この散歩はおもしろいのだが、一つだけ欠点があって、家に戻れるかどうかわからないのだ。あるいは、出発して最初の交差点まで行って帰ってくることになる可能性もある。

 この本の著者である尾辻克彦と写真の赤瀬川原平は同一人物だ。もともとは武蔵野美術学校中退の芸術家だ。ぼくも教員養成系大学で美術を専攻したから、デッサンから油彩、工芸、彫刻、デザインと一通りはやってきた。だけど絵が下手だったぼくから見ると、みんな上手なのだけれど、何のために絵を描くかということがよくわからない。どうも「私ってこんなに上手に描けるのよ」的なうさんくさいところを感じて、何を表現していいのか悩んでしまうのだ。
 赤瀬川さんも画家とか彫刻家とかのジャンルからはみ出した人で、あまりにも芸術とは何かを極めてしまって、お札を絵に描いたために「偽札偽造」で訴えられて裁判までなってしまった経歴の持ち主だ。
 ぼくがいちばんびっくりしたのは「宇宙の缶詰」である。この缶詰は下のように一見ラベルのないただの缶詰である。
 


しかし、缶切りで開けてみると、


内側にラベルが貼ってあって中身は何もない。これがなぜ「宇宙の缶詰」かというと、次のような理屈になる。
 
1 缶詰は何かを封印したものである。
2 缶詰の外側にはラベルが貼ってある。
3 よってラベルのある側が、缶詰の外側である。当然ラベルのない側は内側となる。

 つまり、缶詰の中にラベルを貼って封印すれば。我々の宇宙は缶詰の内側となり、この缶に閉じこめられたことになる。
 なんというばかばかしくも壮大なアイデアか!。ぼくはこのアイデアを彼の著書「東京ミキサー計画」-ちくま文庫-で読んで、感動した。こういう風に、論理的イメージをビジュアル化したものを、コンセプチュアルアートというらしい。

 さてこの本は赤瀬川さんと何人かの仲間が「路上観察学会」という会を作って、東京中を観察して回る様子をまとめたものだ。何を路上観察するかといえば、町の中に存在する得体の知れない物を探すのだ。彼らはそれらにトマソンという命名をする。トマソンとは「使いようがなくて無用になっているけれども、何かたたずまいが変な物」という意味だという。別名「超芸術」というが、言葉の説明だけでは何がなんだかわからない。
 例えば、トマソンの一種に「純粋階段」というものがある。次のような階段だ。


 階段は、どこかに上がるか、どこかから降りるために設置するものだけど、この階段は上がっていっても何もなく、無意味に上り下りするだけのものだ。こんな階段があるのだろうかと不思議に思うが、実際にこのような摩訶不思議なものが街には潜んでいるという。路上観察学会員は日々このような物体を探していて、例会には証拠写真とともにレポートを発表し、トマソンといえるかどうかを判定する活動をしている。
 このほかにも、「無用門」「ガム地蔵」などなど、不思議な物体が紹介される。どんな物かは実際に本を読んでいただくとして、これらの紹介に劣らずユニークなのは赤瀬川さん自身の感覚なのだ。
 冒頭に引用したのは、お茶の水の「ガム地蔵」というものを紹介した部分だが、人の匂いが見られるという発想もすごいが、その発想をつきつめていって、目の前に匂いカメラがあるかのように説明できるというのはもっとすごいことだと思う。
 郵便ポストは郵便ポストだというように、機能しか気にしていない人には、街は殺伐としたものにしか感じられないのかもしれない。人より早く街を通り過ぎることしか考えていない人には無用な本かもしれないけど、街の魅力に敏感な人にはこたえられない本だと思う。

おすすめ
 散歩が好きで、ついでに妙な物が落ちていると、つい拾ってしげしげと眺めてしまうような癖のある人。
 自分の街、とくに雑然として汚いあたりに興味がおきますよ。