反射

 息を切らし咳をしながら、私は、片肘を立てて横向きになったまま、口中の草と泥を吐き出していた。騎乗していた馬は私の足首にのっていた体を起こしてよろよろと立ち上がり、同情の気配も見せないで走り去った。私は心身が落ち着くのを待っていた。胸が激しく起伏し、衝撃であちこちの骨がまだガタガタしているが、時速三十マイルで宙返りを打ち、何回か地面を転がったために混乱をきたした平衡感覚がしだいに戻り始めていた。

原題 Reflex
著者 ディック・フランシス
訳 菊池光
出版社 ハヤカワ文庫

さんまさんが中央競馬会のCMに引っ張り出されていたけど、日本の競馬は人気者に頼らないと経営が厳しいところにきてしまっているんでしょうか。
 この小説は有名な競馬ミステリという変わったジャンルのシリーズで、著者のフランシスは前歴が騎手で、イギリスのチャンピオンジョッキーになった経験もある。イギリスだけじゃなく世界中にファンがいて、日本にも根強いファンがたくさんいる。
 おもしろいことにこのシリーズのファンは、競馬ファンと競馬なんてやったこともないファンとが混在している。これはすごいことだと思う。特異なジャンルの小説は、そのジャンルのプロから認められるか、または馬鹿にされるかどちらかの場合が多い。このシリーズのようにその道のプロからもアマからも支持されるというのは、珍しいことだ。

 シリーズは2004年現在で38冊刊行されているが、ファンからは初期の作品の方が人気のようだ。初期の作品は競馬界で働く人が主人公の場合が多く、筋の運びもスピーディなものが多い。後期になるにしたがって、作品自体が長くなり、筋立ても複雑になる傾向がある。この作品は中期あたりになると思うが、あまり好意的な感想を聞いたことがない。でもぼくはすごく気に入っている。

 主人公はフィリップ・ノア。障害騎手としてはベテランだが、選手としてはやや盛りを過ぎている。趣味はカメラで、いつでもニコンを抱えている。彼はなかなか複雑な生い立ちで、父親を知らず母とは小さい頃に生き別れになっている。それだけでなく、小さい頃は母の知り合いの家に預けられ、ほとんど学校にも行っていない。
 物語は主人公が、悪天候の客もまばらな競馬場で落馬する場面から始まる。そして、主人公の落馬事件をきっかけに様々な出来事が次々に起こる。一応列記すると。
1 騎手仲間がレースで骨折をする。
2 その騎手を家に送ると、強盗に入られてさんざんなことになっている。
3 TV映画の監督が競馬場で大げんかをする。
4 主人公の祖母の弁護士が祖母に会ってくれるように頼みにくる。

 この4番だが、私生児のフィリップを生んだことで母は祖母と仲違いし、そのためフィリップも祖母と絶交状態になっていることがだんだんわかってくる。いやいや会いに行った祖母から、フィリップは自分には妹がいることを知らされる。祖母は死期が近いことを感じて、大嫌いなフィリップ以外の肉親に自分の遺産を残すために、行方不明のフィリップの妹を捜していたのだ。しかしどうしても見つからないこの妹を捜すために、フィリップを呼び寄せたのだ。
 フィリップは祖母に反発しながらも、妹の存在を知り動揺する。そして、いやおうなく妹探しを開始することになる。

 物語はこの妹探しを軸に展開するのだが、主人公がいやいや探しているものだから、妹探しは遅々として進まない。その間に他の事件などの方がどんどん展開する。一見関係ない事柄がストーリーの展開に従って複雑に関係していく。このように複数のエピソードが平行して語られ、最後に合流してクライマックスを作り上げる手法は、後期のフランシスの特長ともいえるが、この手法が完成したのがこの反射という作品だと思うのだ。だから回りくどい展開だというのはもっともなのだが、小さな布石の組み合わせとそれを小出しに出してくるタイミングが絶妙で、傑作だと思う。

 この作品はただ構成が巧みだというだけではない。複雑な構成はまた、主人公の内面の変化を明らかにしていく。
 フィリップは根無し草的な生い立ちから、希望を持たず目の前の状況にだけうまく合わせる暮らしを続けてきた。カメラを趣味にしているのは、ホモのカメラマンカップルに預けられていたからだし、障害騎手になったのも調教師に預けられていたため、たまたま才能を見いだされたからだ。
 その主人公が妹探しの過程で、いやおうなく自分の過去にも向かい始める。自分の過去と母の関係などを探るうちに、本当の自分は何者なのかという問題に引きずり込まれていく。主人公がおずおずと手探りで進んでいく過程が、なんともスリリングだ。

 主人公のフィリップはフランシスの全作品中でも、最も個性がないというか内向的な性格だろう。自分の殻に閉じこっていると言ってもいい。最近のサイコものなどはひたすら暗い話が多いようだが、この作品のエンディングは明るい。ハッピーエンド好きのぼくにはぴったりの作品だ。
 ヨーロッパの小説には、ビルドゥンクス・ロマン(青年の成長物語)の伝統があるけど、この小説もフィリップの自己発見の旅ともいえるんじゃなかろか。
 ちょっと難しい話になってしまったけど、小説自体はスリリングかつ深い味わいのあるいい作品です。

おすすめ
 ハードボイルドでハートウォーミングなお話の好きな人。
 競馬が好きでなくても、草の香りはすてきです。