ムーンレイカー

 エレベーターのドアがあいて、ボンドは乗りこんだ。エレベーターボーイがいたら、ボンドの火薬の匂いがわかったろう。射撃場から上がってくるときは、みんなその匂いをつけているのだ。ボンドはその匂いが好きだった。軍隊のことを思い出す。ボンドは八階のボタンを押して、左手首を制御ハンドルにかけっぱなしにしておいた。

原題 Moonraker
著者 イアン・フレミング
訳 井上一夫
出版社 創元推理文庫

 言わずと知れた007ジェームズ・ボンドシリーズの一冊。
 007映画を観た人はたくさんいると思うけど、さて原作を読んだことのある人はどれくらいいるだろう。小説と映画は別物だとは誰もが言うことだけど、本好きの人はたいがい原作を読んでから映画を観るから、がっかりすることが多いのじゃないかと思う。ぼくの場合も同じだけど、これは本を読んでいるときに自分なりのテンポやリズムが出来上がってしまうからじゃないかと思う。映画のテンポが、自分の中のテンポやリズムと合わないんだね。だから乗れない。

 映画の007は、ハイテクの秘密兵器やハイセンスな悪者の基地、スポーティなボンドカー、ファッションばっちりのボンドガールと、これでもかと続く豪華な映像が売り物だ。計算しつくされたカメラワークで、特殊効果も決まっていて、切れのよいアクションががんがん続く。まあアクション映画の見本ともいえるんじゃないだろうか。

 ところがフレミングの原作を読めば、たいていの人はびっくりすると思う。たしかに新兵器的小道具も出てくるけど、本筋はすごく古典的なスリラーなのだ。
 この作品はオリジナルシリーズの第3作、発表は1955年だから東西冷戦のさなかという時代だ。物語は、ボンドがルーティーンワークの書類仕事にうんざりしているある朝から始まる。もっともその仕事とは、各国特務機関から届いた敵対組織の最新情報を読んで頭にたたき込むことだから、そこらの会社員の日常とは確かに違う。だけど、スパイがデスクワークにうんざりしている姿というのが、なんだかパロディのようでおかしい。こんな導入は映画には絶対出てこないと思う。
 小説は映像じゃないから、主人公がスーパーマンでもその周りの状況はとことんリアルじゃないと物語としてのリアリティがなくなってしまうわけで、フレミングはそのあたりの計算が実にうまい。つまり映画はアクションばかりでにおいがないけれど、小説には紅茶や煙草のにおいがぷんぷんしているのだ。

 007といえば悪役も重要だけど、この作品の悪役はヒューゴー・ドラックスという大金持ちで、西側の防衛力増強に協力するために、大陸間ミサイルを寄付するというとんでもない大人物。マスコミでも騒がれるイギリスのヒーローだ。そんな大物が名門クラブでカードのいかさまをしている疑いをかけられる。上司のMから頼まれたボンドは、クラブに乗り込んで真相をさぐることになる。このあたり、ブレイズクラブというロンドン特有の会員制高級クラブの有り様や使用人のたたずまい、夕食のメニューなどいかにもイギリスといった雰囲気でなかなかいい。酒や煙草などにブランド名がどんどん出てきて、カタログ小説のはしりと言われたのもよくわかる。
 ここでのカードゲームはコントラクトブリッジといってヨーロッパでは一番ポピュラーなゲームなんだけど、ぼくは正直この本を読んで初めて知った。高校の時、友達同士で少しやってみたことがあるけど、駆け引きと計算が難しくて、2・3回やっただけで放り出してしまった。ブリッジは2人1チームで4人制、つまり2対2で行うゲームで、配られたカードから1枚ずつ場に出していって1周4枚の中で一番強いカードの人が4枚取れるというものだ。この4枚が1組でどちらのチームが多く組を取れるかが勝負となる。ただ、最初に競りがあって、何組取れるか多く宣言した方がゲームをリードする仕組みになっていて、例えば8組取れると宣言して7組しか取れないとする、相手チームは6組で組数は多いけど、8組取るという宣言は守れなかったわけで、これはゲームでは負けとなる。最初の競り合いで、相手チームだけでなくパートナーの手札も予想できないと負けてしまう。駆け引きと推理力がいる難しいゲームだ。
 小説ではこの後ボンドが逆にいかさまを仕掛けて、ドラックスを引っかける場面が続くが、このとき配られた手札が印刷されていて読者も見ることができる。「おお!麻雀放浪記かい!」てなもので、その時点とすると斬新だったのだろうと思う。
 カードでこてんぱんにドラックスをやっつけた翌日、ドラックスの研究所で不審な死者が出たことから、ボンドはそれが単なる事故死かサボタージュなのかを探る指令を受ける。

 ここからがスパイスリラーとしての本筋に入っていくのだけれど、ここからがまた地味、地味一色と言っていい。先に潜入していた警視庁の捜査官(当然若い美人なのだな)とのつかず離れずの関係もスローテンポだし、肝心の捜査の方もあやしげな部分はたくさんあるけど、みんな難しいジグソーパズルのようにピチッとはまらないのだなあ。
 ともかくカーチェイスもほとんど無し。立ち回りもほんのちょっとという感じで、映画しか観たことのない人はそのギャップに驚くと思う。
 でも、その地味なところ、こつこつと真相に迫っていくところが、逆にいいと思う。「これこそスリラー!」としみじみ思ってしまう。
 それとこれだけは映画よりすごいと思うところは、サディスティックな場面だ。このムーンレイカーに限らず、ボンドはきわどいところで悪者に捕まって拷問を受ける。映画だと倫理規定があるから、あっさり脱出しちゃうけど、小説ではかなりしつこい描写が続く。読んでいると、実にこれが生理的に痛い。「やめてくれ!」と言いたくなる。
 だからこそ、窮地から脱出できた時の「やったぜ!」という爽快感は、映画より数段上だと思う。ラストがこれまた「ありゃー?」という感じで、映画を観ている人ほど拍子抜けすると思う。

おすすめ

 ヨーロッパ特にイギリスの暮らしにあこがれている人。
 また、最近のアメリカ映画のアクションはうるさすぎると感じている人。
 ちょっとしたイギリス風スリラーを楽しんでください。