メイム

「なんてひどいとこ、まるで地獄だ!」とノラは叫んだ。
 ぼくたちが立っているのは、まっ黒に塗られた玄関の間だった。明かりといえば、チーク材の台の上に鎮座ましましている、頭が二つ、手が八本の薄気味悪い異教の神様の目からさしている光だけ。ぼくたちの真正面の奥には緋色のドア。どう見ても、スペインふうのレディーが住んでいる場所とは思えない。それどころか、どんな人間だって住んでいそうな所じゃなかった。
 もう十歳になっていたぼくですら、思わずノラの手をつかんだほどだ。

原題 Autie Mame
著者 パトリック・デニス
訳 上田公子
出版 角川文庫

 2004年現在のアメリカ合衆国はどんどん保守的な傾向を強めているように、ぼくには感じられる。ブッシュ政権が誕生してから力任せの外交を積み重ねるアメリカは、その本来の良さである多様性を捨て去ってしまったかのようだ。ちょっと悲観的な出だしになってしまったけど、ぼくがすごく好きだったアメリカはO・ヘンリーの人情だったり、フランク・キャプラの映画だったり、小澤征爾を受け入れたアメリカ音楽界だったりするんだ。つまりすべて良きものを受け入れるおおらかな多様性だったわけで、だからこそ最近の内向きのアメリカを見るとつらいなあと思うのだ。
 メイムおばさんの世界は、ぼくが好きな良きアメリカ、何でも受け入れる多様性とバイタリティに満ちたアメリカそのもののように思える。この物語は、作者パトリック・デニスの思い出話の形で始まる。パトリックはたまたま読んでいた雑誌(リーダーズダイジェストらしい)の中の「忘れがたき個性の持ち主」という記事に引っかかりを感じる。なぜなら、その記事の人物とは比べものにならない個性の女性をよく知っているからだ。その女性こそ、この物語のヒロイン=メイムおばさんだ。
 パトリックは幼くして父と死に別れる。父は幼い一人っ子の成長を案じて、妹に養育を頼むよう遺言する。「パトリックはプロテスタントとして養育され、また保守的なる学校にて教育を受けさせること」わざわざこう記された遺言で父が心配していたこととは何だろう。それが唯一の親族メイムのことだった。実の兄から不信に思われているメイムとはどんな人物か。
 家政婦に連れられて初めてパトリックの前に現れたメイムは次のような姿だった。
「おかっぱで、前髪の下はつり上がった眉。縫い取りのある金色の絹のきものの裾をうしろに長くひきずり、足には宝石をちりばめた小さな金のスリッパをつっかけ、ひすいと象牙の腕輪を両腕にカチャカチャ鳴らしている。淡い緑色のマニキュアをした手の爪は、ぼくが見たこともないほど長い。まっ赤な唇には、竹でできているとてつもなく長いシガレットホルダーをものうげにくわえていた」
 ううん。かなりエキセントリックですねえ。パトリックも度肝を抜かれる。なにしろ時代は1929年。アメリカがまだピューリタン的伝統を常識としていた頃だからね。
 さてパトリックを引き取ったメイムおばさんの生き方は、そのスタイル以上にぶっ飛んでいる。フロイトの学説を振り回し、シェーンベルクの曲がお気に入り、そしてフリーラブを信条としているのだ。おまけに何十人もの何をして暮らしているのかわからないお友達を持っている。
 十歳にもならないパトリックは、メイムおばさんからおばさんが理想とする育てられ方をされることになる。
物語は11章に分かれていて、第1章から10章までがパトリックの成長記になっている。彼はこのおばさんに育てられはしたものの、無事に社会人となり結婚し子どもも生まれる。一方おばさんの方は波瀾万丈。破産、結婚、夫との死別、作家への挑戦、慈善事業、戦災孤児の養育などなど、ありとあらゆる事態に勇敢に立ち向かっていく。
 後書きの中に、メイムおばさんを評したアメリカの読者コメントが紹介されている。
「メイムはアメリカの一部だ」そうアメリカの持つすべてを飲み込むおおらかさの象徴がメイムなのです。
おすすめ
 他人からきまじめだと思われているけど、実は変な人の方に親近感を持っている人。
 ちょっとユニークなアメリカンドリームが満喫できます。
P.S.
 メイムおばさんは2度映画化されていて、2度目の映画はミュージカルになっている。主演はおじさん世代には懐かしい「アイ・ラブ・ルーシー」のルシル・ボール。ぼくは映画は観ていないが、ミュージカルが好きなので、サントラ盤のレコードを持っている。その中のテーマソングは次のような歌詞で始まっている。
「何でもやりとげるメイム
 だれにも愛されるメイム」
ハッピーでいかにもアメリカのミュージカルナンバーという感じの曲です。