ヘリオット先生奮戦記

 春がきたと思ったのは、まったく突然のことだった。三月も終わりの頃で、山腹の羊小屋で羊を診断してからの帰り道、小さな松林の陰で、松の幹にもたれていると、閉じた目蓋の上にふり注ぐ暖かい日差し、ひばりの囀り、潮騒を柔らかくしたような梢にそよぐ風の音などに、突然気がついた。塀の陰の溝にはまだ雪が残り、草は生気がなく、黄色く冬枯れたままだったが、そこにも変化は感じとれた。

原題 All Creatures Great and Small
著者 ジェームズ・ヘリオット
訳  大橋吉之輔
出版社 ハヤカワ文庫

ジェームズ・ヘリオットはペンネームで、作者本来の職業は獣医だ。物語は題名の通り、ヘリオット先生が獣医として動物たちと格闘する話だ。もちろん動物の病気にどう対処するかが中心なのだけれど、ムツゴロウさんの本などとはだいぶ趣が違う。それに動物たちが題材なのだけれど、本当のおもしろさはそこだけではない。

 時代は第2次世界大戦の少し前、イギリスも空前の不景気で、ヘリオットもせっかく獣医大学を卒業したのに就職先は皆無の状態。そこへ奇跡的に見習いでよければ雇ってもいいという手紙が届く。雇い主は、ヨークシャーのダロービーという片田舎の獣医、ジークフリート・ファーノン氏。不安と期待に胸躍らせて、ファーノン氏の獣医医院を訪ねると、医師は留守で、玄関に現れた家政婦は、そんなことは聞いていないとすげない返事。これは何のいたずらか?なけなしの貯金をはたいて帰りの汽車賃もあやしい懐のヘリオットは真っ青になってしまう。どうなることかと心配しながら医師の帰りを待っていると、すごい美人がファーノン氏を訪ねてくる。彼女はお茶にまねかねたという。採用を約束した医師は戻らず、おまけに医師に招かれたという不機嫌な美人と二人きりの気まずいお茶。なんとも謎だらけのスタートだ。
 結局、医師の失念ということで無事見習いとして雇ってはもらえるのだが、その後の仕事や生活も波乱含み、常に危機一髪状態が続くのだった。

 物語は、短編の連作という形をとっていて、一話一話はそれぞれ独立したエピソードが紹介される。全体は見習いから一人前の獣医へと成長するヘリオットの物語なのだが、この物語のユニークさおもしろさは二つある。

 一つは登場人物たちの個性。正直言って登場人物中まともなのは、主人公のヘリオット一人と言っていい。主人公がもっともふつうの人物で、周りが皆変人という設定は実に新鮮だ。主人公は変人ぞろいの村人の中で、生真面目でいようとして、大変な苦労をする。そして、変人中の変人が、雇い主のジークフリート・ファーノン氏ときている。
 もう一つは、情景描写のすばらしさ。長い間ヨークシャー地方で獣医として暮らしてきた作者にしかできない季節感とか雰囲気の描写。これがじつにいい。動物たちはみな個性的だし、動物と関わっている村人も個性的だ。どうしょうもない怠け者もいれば、何十年も黙々と働き続ける農民もいる。それらすべてがヨークシャーの美しい自然の中でいきいきと息づいているのだ。

 殺伐としたニュースに囲まれて、ともすれば他人や社会に対して冷ややかな目を向けがちなぼくたちに、この物語はまったく違った角度から周りをみる見方を示してくれる。作者が獣医だと言っても、紹介されるエピソードがすべて事実であるわけではないと思う。でもエピソードの元となった事実はヘリオットが体験したものであるに違いないし、その上それぞれのエピソードは、ヘリオット自身の目で見えたものを、愛情を通して語られているのだ。原題は「All Creatures Great and Small」で聖書からとった言葉らしい。カバー裏の作者の写真も、ちょっと牧師さん風のやさしいまなざしを感じます。

 さて物語は下巻に入ってから、ヘリオットと一人の女性の出会いが描かれ、そして少しずつ少しずつ二人の関係は深まっていきます。様々な小説にロマンスは登場してきましたが、これほど健康的でほのぼのしたロマンスはちょっとなかったなあというのがぼくの実感です。

おすすめ
動物が好きな人はもちろん、嫌いな人も十分楽しめます。こんな幸せな人生もある。勇気がわいてくる本です。