分解された男

 【・・・だがおれは悲鳴など上げてはいない。きらきら輝く大理石の上で、歌っているのだ。音楽が舞いのぼり、光が燃える。が、見おろす円形の劇場には人っ子ひとりいない。土間は影に包まれて広々と・・・・・・客がたったひとり。声も立てず、じっとにらんでいる。ぼっと立ちはだかるあの姿。
《顔のない男》だ】
 今度の悲鳴は声となっていた。
 ベン・ライクは目をさました。
 およそ冷静とはかけはなれた気分ではあったが、ライクはじっと水浴療法ベッドに身を横たえたまま、落ちつきを装っている。胸はおののき、目は部屋の中を見わたして、手当たり次第の物体に焦点を合わせようとしていた。

原題 THE DEMOLISHED MAN
著者 アルフレッド・ベスター Alfred Bester
訳 沼沢 洽治
出版社 創元SF文庫

 この気まぐれ図書館で取り上げる本は、内容もさることながら、表紙の醸し出す雰囲気も独特のものが多い。中でもこの「分解された男」は印象的な表紙だ。デザインは作家としても活動している「司修」氏で、彼は私と同じ県出身なのでつい目を引かれてしまうのだ。しかし身びいきばかりではなく、わりあいそっけない表紙が多い初期の創元文庫(怪盗リュパンシリーズなどひどいものだ)の中では異色中の異色だろうと思う。デカルコマニーという絵の具と紙を押しつけて偶然できた模様を使っているのだが色合いが何ともいえずシュールでかっこいいと思う。ハヤカワポケットブックもペーパーバック風のサイズで抽象的な表紙と相まってモダンな印象のものが多かったが、この本はハヤカワのものに比べても出来がいいと思う。(※更新後に気がついたのですが、この部分は初版のデザインについての感想です。現在は別の装丁でインパクトは断然初版がいいと思います!・・・)
 さて物語は抽象的な表紙とは裏腹に、しごくテンポ良く刺激的に進んでいく。舞台は太陽系中に人類が進出した未来。また人類の一部には読心術を持つエスパーが誕生し始めていた。エスパーは厳しい倫理規定のもと組織化され平和維持に一致団結している。一方産業界には不穏な動きが始まっていた。ベン・ライク率いるモナーク物産とクレイ・ド・コートニー率いるド・コートニー・カルテルの二大財閥が熾烈なシェア争いをしていたのだ。しかし、ベン・ライクの会社は徐々に市場を奪われ今や独立を保つのに四苦八苦していた。ベンはド・コートニーをつぶすために、最後の手段に打ってでる。その手段とは「殺人」。エスパーだらけのこの世界では不可能と思われていた犯罪に自分を追い込んでいく。

 この小説はSFのみならず、出版界に衝撃を持って受け止められた。なぜなら、テレパシーを使った会話を単に括弧などの記号や活字体の区別だけで表現するのではなく、写真雑誌のレイアウトのように会話自体をページ上にレイアウトするという画期的な表現方法を編み出したからだ。もしテレパシーが可能ならば、会話は1対1や1対複数で行われるのではなく、複数同士が同時進行的に行われるのではないかという仮定に基づいているのだろう。この手法はベスターの次の作品「虎よ虎よ」でさらにはでな効果を上げている。
 しかしこの小説のおもしろさは典型的な倒叙形(犯人の側から記述した推理小説)でスタートし、追う側と追われる側の二転三転するストーリーのスリリングな展開にあるといえる。追われる側のベンは通常人であり、一方の警察はエスパーであるリンカン・パウエル本部長を筆頭にその読心能力をフルに使って追いつめていく。ベンは自分の会社の総力と暗黒街に培った影響力を活用して捜査を壊乱していく。そして物語は殺人現場から逃げ出した犯行の唯一の目撃者バーバラ(クレイ・ド・コートニーの娘)をめぐっての争奪戦となっていく。はたしてベンは逃げ延びられるのか・・・・。
 作者のアルフレッド・ベスターはTV業界の売れっ子作家だったということで、テンポ良くサスペンスを盛り上げるのはお手の物だとは思うが、こりにこった構成にしろ登場人物のキャラクターの造形の見事さなど並の作家ではないと思う。ことにベンとリンカン部長のライバル関係の中の微妙な心理描写はなかなか繊細なものがある。エスパーはその能力を維持するためにエスパー同士の結婚しか許されない設定になっているのだが、リンカンを一途に慕っているエスパーのガールフレンドに対するリンカンの思いなど、なかなか泣ける描写もそこここにあるのだ。

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