ひとりおもふ
トップ 随想トップ
幻の「キラク」

  「いやあ、しばらく。11年ぶりだよねえ。」
 
「ほんと、稚内で再会するなんて、なんかの縁だよね。こっちには希望してきたの。」
 「そう。現場でまた仕事したいと思って。根室の4年間、忘れられなくてね、北海道を選んだら稚内に来てしまった。いちおう3年契約。」

 「単身?」

 「そう、単身。女房と子供を東京に残してきた。
 
 
ゴールデンウイークが明けて、とある事務所で打合せをしていたとき、偶然、彼と再会した。
 彼は朝日新聞の記者で、今から11年前、僕が根室で仕事をしていたときに世間やその構図というものをこまめに紹介してくれたある意味での「恩人」。


 1995年の3月に根室から東京へ転勤されて以来の再会だったが、少し老けてめがねをかけた以外、ほとんど変わっていなかった。
 
新聞記者というよりは執筆活動をされたほうがいいのではないかと思うほどの文才があり、いつも絶妙な文章を披露してくれた。

 その彼が根室時代に記した記事を未だに覚えているし、そのコピーを「宝物」にしている。


 北海道の東、知床半島と根室半島とのちょうど中間にある「野付(のつけ)半島」にある伝説。

             『半島に潜む200年の伝説・・・幻の歓楽街』

 幻の街に魅せられた。根室市内に住む郷土史愛好家が集まった今年の新年会。熱燗をぐびりぐびりやりながら、佐々木弘幸さん(47)の言葉は次第に熱をおびた。

 「『キラク』を探しに行かないか」

 北海シマエビで有名な根室支庁別海町の野付半島に伝説は残っていた。その 湾曲した野付半島の先端に、和人によって今から約200年前の江戸後期に築かれ、明治の初頭、こつ然と姿を消した歓楽街『キラク』が存在したと伝えられる。

 「武家屋敷が並び、道路は敷石で整備されていた」
 「遊郭があり、多くの女性が住んでいた」

 いまだに実証されていないが、こんな話が明治のころから地元の古老の間で語り伝えられてきた。

 別海町郷土資料館調査員の吉川新一さん(66)に聞くと、気楽、嬉楽、喜楽といった漢字が当てはまるようだ。野付湾の出入り口に面し、国後島にも近かったことから、サケ・マスなどの漁場や海の交通の要衝として栄えたという。しかし、伝染病がはやったのか、乱獲で漁業が衰退したのか、街は消えた。

 なぜ、この街に魅せられたのか。

 「歴史のミステリーだろうね。かつてにぎわいを見せた街が跡形もなくなったところに魅力を感じる」

 JR根室駅前で土産品店を経営しながら、探検の想を練っている佐々木さんは、雪解けを待って現地を訪れる計画でいる。

 道立自然公園にあるため、入域の許可を取るなど細かい準備が必要だ。本格的な調査はここ30年ほど行われていない。昭和、平成と時代が移るにつれ、「キラク」を知っている地元の人も少なくなっている。

 存在を裏付けるものを発見できる根拠はまったくない。空振りに終わる可能性が高いが、佐々木さんの仲間も「キラク」という謎めいた言葉の響きに魅せられたようだ。

 偶然にも現代の根室に、同じ発音のスナックが店を構えている。ママに聞くと、「私も連れて行って」という答が返ってきた。

【メモ】

 秋田県八森町の加賀家に伝わる古文書などによると、漁場の将来性を見出した松前藩の豪商の支配の下、加賀家は寛政年間(1780−1801年)から4代にわたり、現在の根室から野付半島に広がる地域でアイヌ語の通訳として働いた。半島の先端に、番屋を連ねた街や港、畑が続々と築かれ、漁期になると、出稼ぎでにぎわったという。だが、「キラク」という3文字は古文書にも記されていない。

(1995年1月22日付朝日新聞北海道日曜版から)

 僕はこの記事を読んで、しばし釘付けとなった。
 子供のころに読んだことがある「ムー大陸」や「アトランティス大陸」の伝説のようなミステリアスさがよみがえった。

 日本の、それも根室のすぐそばに失われた街の伝説があるのだと思うと、いてもたってもいられなくなった。

 根室は鉄道よりも先に港ができたので、マチは港から発展していった。
 さきほどの『メモ』に記載された「松前藩の豪商」とは、おそらく「高田屋嘉兵衛」のことだろう。

 嘉兵衛は、司馬遼太郎の「菜の花の沖」によれば、江戸時代中期の寛政年間に、函館〜室蘭〜様似〜根室〜国後〜択捉という海路を開設、現在で言う「北方四島」付近での豊富な水産物資源を開拓した人物である。

 その根室という港は、国後島への中継的な役割をしていたし、その野付半島のことも少しではあるが描かれていたという記憶も残っている。

 この記事が掲載されたのが1月だから、その2ケ月後に彼は東京へ移動した。
 僕はそのあと1年3ケ月間根室にいたことになるが、その夏だったか秋だったか記憶が定かでないが、その「キラク」の特集が地元マスメディアに大きく取り上げられた記憶も同居している。

 「キラク」があったとされる野付半島の先に、たしかに石畳の道路跡が発見されたし、「銚子」「ご飯茶碗」などの瀬戸物も採掘された。それが「キラク」という繁華街かどうかは不明だが、そこにほんとうに「街」があったことが実証されたのだ。

 野付半島へはもう10年も前のことだが、一度訪れたことがある。この「キラク」のことが気になってのことだったが、有名な「トドワラ」を過ぎたあたりの中央部付近で道路は通行止めとなっていて、そこからは一般人は進入できない。

 この目でその「キラク」を確かめてみたかった。その夢は実現しなかったが。

 月日が流れても、僕のこころの奥底には、「キラク」という3文字が永遠に刻まれていたことはたしかだ。

 その3文字が、今回の彼との再会でまたよみがえった。

 「東京本社の社会部で記者していたころに、本を出したんだよ。そのうち進呈するからね。楽しみに。」
 「ありがとう。楽しみだね。それから再会を祝して、近いうちに一杯やりましょう。」
 「もちろん。やりましょう。喜んで。」

 彼との思わぬ再会で、なんだか僕自身、ウキウキしてしまった。
 楽しみがまた増えた。それに、彼も「単身」である。
 糖尿を患っているという。僕と同じだ。

 それで、ジムへ通うことを勧めたら、「契約しようと思っていたんだ。」とのこと。

 支局へ立ち寄った際に、「東京下町」(創森社刊)という彼が執筆した本をいただいた。今、ベッドに入りながら、少しずつ読み始めている。

 これで、現在は沖縄で仕事しているNHKの「K」がそろえば、根室時代がまたよみがえってくる。

 「K」よ、オレたちは、今度は北の果て、稚内で待っているぞ。