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ひとりおもふ
宇宙の法則
 サッカーや野球などスポーツの観戦で客席を彩るサポーターや私設応援団が、ひいきのユニフォームを着用して、メガホンをたたき、旗を振り乱して応援する光景がテレビに映しだされるたびに、「おお! やっているなあ。」と思わず笑みがこぼれてしまう。
 特定の選手を応援したり、チームそのものに対して応援したり、応援の目的はそれぞれであろうが、サッカーの応援には特にすさまじいものがある。

 J1「浦和レッドダイヤモンズ」(通称「レッズ」)のサポーターは、あらゆる面において特筆すべきものがある。これは、他のひいきチームのサポーターも認めている周知の事実であるが、サポーターの数、統制がとれていること、試合観戦態度などどれをとっても「模範」とすべきことが多いので、良く言えば「熱狂的サポーター」、悪く言えば「きちがいサポーター」とも呼ばれている。

 先日、新横浜にある「日産スタジアム」で行われたJ1「横浜F・マリノス」対「浦和レッズ」の試合は、結局は0対1でレッズが勝利したが、テレビ観戦した限りでは、レッズサポーターがマリノスサポーターよりあらゆる面ではるかに上回っていたと感じた。特に、試合終了後の勝利をたたえる合唱などはすばらしいのひとことにつきた。ただ、比較されたマリノスサポーターにも同情する余地があるので、相手が悪かったとしか言いようがない。

 サポーターの比較については、ネット上で知り合った方が熱狂的マリノスサポーターの一人であるため、非常に書きづらい面もあるのだが、今回の試合ではご当人もマリノスのサポーター席でいつものように熱狂的応援をくりかえした反面、試合後のレッズサポーターの光景に感動したとあった。そして、マリノスサポーターもこのくらいになってくれればと思ったそうだ。試合前にマリノスサポーター同士でいざこざがあったそうで、そのことにも嘆いておられた。

 北海道で初めて誕生したプロスポーツとして、今はJ2を低迷している「コンサドーレ札幌」(通称「コンサ」)があり、ここのサポーターもその規模こそ違うが、レッズとひけをとらないくらいの熱狂的サポーターである。
 北海道には、昨年からプロ野球「北海道日本ハムファイターズ」が札幌ドームを本拠地として活躍しており、新庄効果もあって、人気はうなぎのぼりである。しかし、応援のかたちからすれば、コンサのほうがかなり熱狂的であるような気がする。

 コンサの母体は、東京にあった東芝の実業団チームであり、1996年に「北海道フットボールクラブ」が発足し、札幌に本拠地を移して、「コンサドーレ札幌」としてJリーグに加盟したのは1997年である。
 ちなみに「コンサドーレ」とは、逆さから読むと「ドサンコ」・・・つまり、「道産子」という日本語をラテンっぽく表現したものである。

 コンサは、その年の97年にJFLからJ2に昇格し、翌98年にはJ1参入決定戦にコマを進めたものの敗退し、再びJ2で戦うことを強いられた。
 しかし、同年12月に元日本代表監督の「オカちゃん」こと岡田武史氏(現マリノス監督)を監督に迎え、J1昇格へ向けてのチーム強化がはじまったのである。

 オカちゃんの采配で、2年後の2000年のシーズンにはダントツで優勝し、オカちゃんの公約どおり、晴れてJ1の舞台へと昇格することとなった。
 そのときに一緒に昇格したのが2位のレッズであった。レッズは今でこそJ1常連チームで優勝を争える位置にあるが、J2へ降格した苦い経験をもっている。そのわずか1年間のJ2時代でもサポーターは懸命に応援した。レッズはそのままJ1に残留したが、コンサはもののみごとに2年で再びJ2へ降格した。2002年のことである。

 レッズサポーターは、J2降格という屈辱を知っているからこそ、熱狂的に応援していると僕は思っている。もちろん、選手だって忘れてはいまいが、J1に復帰するまでは、スタンドの椅子を壊して芝生へ投げ込んだり、発炎筒をたいたり、いわば「手のつけられない」状態であったが、今では過去の遺物であり、その面影は「熱狂」と変わり、サポーターのなかでは群を抜いてその姿勢は立派な「模範」となっている。

 さて、コンサにとって運命の2002年に話を戻そう。
 監督がオカちゃんから、元日本代表キャプテンである柱谷哲二氏(通称「テツ」)へバトンタッチされ、J1での2年目を迎え、サポーターのボルテージが最大となった年でもある。しかし、序盤からつまずき連敗が続く。責任をとるかたちで、あえなくテツは解雇され、その後は監督交代を続けながら最下位の指定席に座り続けた。
 サポーターは最下位脱出とJ1残留を願い、懸命に応援する。が、結局は最下位のままシーズンを終えた。
 J2降格が決定した試合では悲鳴に近い叫びがスタンドを交差した。サポーターのほとんどが涙した。もちろん、テレビ観戦したファンも涙しただろう。そのなかに僕もいた。コンサを愛する北海道民が泣いた日であった。

 この2002年がサポーターにとって、忘れることのできない年となった。

 来年からまたJ2でプレーすることになるのだが、1年で絶対にJ1へ復帰するんだと、そういう願いを抱き、翌2003年のシーズンを迎えた。
 2003年は、選手とサポーターが一丸となってJ1復帰という目標へと突き進むはずだったのだが、いざフタを開けてみると、その目標がだんだんと遠ざかっていく。こんなはずではない。J1で戦ってきたチームがこんなに負けるはずがない。レッズだって1年で復帰したではないか。熱きサポーターの応援で選手たちが勝ちすすんだではないか。サポーターの誰もがそう思ったに違いないだろう。加熱する応援も負けが込むにつれて、その情熱が冷めていった。
 結果は9位。J1昇格の2位にはほど遠い位置だった。サポーターにとって暗い時代が始まった年でもあった。

 2004年は、前年までジュビロ磐田の監督を務めていた柳下正明氏を監督に迎え、外国人選手抜きの若手主体のチームに変貌し、長期構想で早ければ3年後にはJ1昇格を目指すという目標が掲げられた。
 結果は最下位という屈辱。しかし、サポーターは最下位という結果が出されても、この結果は仕方がないとむしろ余裕さえあった。それは、2年後、3年後に期待していたからであった。早々と最下位が決まっても、そのことを信じるサポーターは札幌ドームに足を運び、そして応援した。案の定、シーズン終了近くになると、その結果がみえはじめていた。負けないのである。来年に希望が一気にふくらんだ。来年こそは、と。

 2005年の目標は5位以内だった。選手もたくましくなり、これはもしかして・・・という期待をサポーターが抱くようになった。
 開幕すると、負けはしないが決定力不足で勝てない、いわば引き分けの試合が続いた。現在までのところ8位の位置である。が、おそらく常勝していく気配をサポーターは感じているに違いない。

 J2のチームで、ホームゲームで約1万人以上の観客動員数があるのはコンサだけであろう。その熱き誇りを胸にしたサポーターのバックアップを受けて、選手たちは試合に臨んでいる。レプリカのユニフォームを着用し、チームカラーである赤と黒の旗が今日も揺れ、「コンサドーレ!」の合唱が響き渡る。
 前述の熱狂的マリノスサポーターが開設するHPの「マリノス応援」コーナーのBGMには、ZARDの「揺れる想い」が使われている。どのサッカーチームのサポーターも一喜一憂しながら、まさに応援旗のように、その気持ちは「揺れる想い」なのであろう。
写真提供
湘南マリリンさん
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湘南マリリンさん