トップ 随想トップ
ひとりおもふ
宇宙の法則

函館は、函館山の裾野から港内にかけて開けたマチである。もともとは「箱館」であり、名前の由来は、室町時代の1450年ころに、河野政道という豪族が現在の元町公園付近にある「旧市立函館病院跡」に、「箱のような館」を築いたことによると言われ、それまでは、「宇須岸(ウスケシ)」と呼ばれていた。

 江戸時代後期の1800年ころには、淡路島出身の豪商高田屋嘉兵衛が現在の北方四島との交易の中継基地として、当時の人口約3,000人程度にしかすぎなかった漁村の函館を本拠地とし、私財を投じて整備をすすめたことから、函館は発展していったと歴史書にある。嘉兵衛は、自給自足を奨励するために原野を開墾し、その結果、函館近郊の水田地帯が遺産として残った。この他に「北前船」の修理場所として、秋田・土崎港の船大工を呼び寄せ、これが「函館ドック」造船所の基礎となった。

 江戸時代末期の1854年に、ペリー提督率いるアメリカ黒船艦隊が来航した。太平洋での捕鯨船の燃料と水・食糧等の補給港として、函館の開港を迫ってきた。それがきっかけで、1859年に貿易港として函館は開港することになり、明治初期から昭和初期まで、東京以北では最も発展したマチとなった。

 函館のマチは函館山の裾野から開け、その居住区の19の坂道にはそれぞれ名前がつけられており、その地区一帯を「西部地区」と観光ガイドブック等では呼称している。数ある坂道では、「基坂(もといざか)」「八幡坂(はちまんざか)」「二十間坂(にじゅうけんざか)」「大三坂(だいさんざか)」「幸坂(さいわいざか)」などが有名である。

 「基坂」は、現在の「旧函館区公会堂」や「旧イギリス領事館」のある元町公園から港に広がる石畳の坂道であり、五稜郭が築城されるまでは「箱館奉行所」はこの地にあった。名前の由来は、ここに「里程元標」があったことから名づけられた。前述の「箱館」の由来である河野政道の館はここに建てられていたことから、この地は函館の由緒ある場所でもある。
 数年前に、辻仁成原作の函館を舞台にした小説「愛をください」がテレビ化され、この場所がメインロケ地となり、その美しい坂道の風景が全国を魅了したとも言われ、函館を訪れる観光客は必ずと言ってよいほど足を運ぶ坂道である。

 「八幡坂」は、函館を代表する坂道である。道立函館西高等学校やロシア極東大学函館校が立ち並ぶ頂から港に広がるこれも石畳の坂道であり、真正面には旧青函連絡船の桟橋(今は「摩周丸」が繋留されている)がはっきりと見え、その背後には山並みが美しく広がることから、ロケーションでは最高の坂道でもあり、映画、テレビ、コマーシャルで数多く紹介されていることから、記念写真を写す観光客が絶えない。今は谷地頭(やちがしら)町にある函館八幡宮が大火で消失するまでここにあったことから「八幡坂」と呼ばれている。

 「二十間坂」は、日本初のコミュニティFM局「FMいるか」のところにあり、これも石畳の坂道である。明治20年の大火で拡幅され、二十間(36m)となったことから命名された。防火帯の設置は近代の日本都市計画では初めてのケースとして紹介されている。青空の下に函館のマチ並みが大きく広がる風景は実に美しく、冬の夜は街路樹がイルミネーションで彩られるなど観光スポットとしても有名である。

 「大三坂」は、日本の道百選にも選ばれ、元町カトリック教会をはじめとした和洋折衷の歴史的建造物が立ち並んでおり、数あるなかでは、特に異国情緒漂うエキゾチックな石畳の坂道である。ただ、観光コースではありながら観光客にはあまり紹介されていないため、人影もまばらで、そのせいか、付近住民はひっそりと通年を過ごすことができているようである。

 「幸坂」は、かつては「神明坂」と呼ばれ、頂上には「山上大神宮」とその近くに「旧ロシア領事館」が立ち並ぶ。加えて、私のホームページのトップに掲載している常盤小学校跡の「常盤公園(船見公園とも呼ぶ)」もある。

 「常盤公園」は、数年前にテレビ放映されたドラマ「ランチの女王」でもロケ地となるなど絶好のロケーションが眼下に広がる。この坂は、坂道では最も長く、かつ、最も函館山山麓まで延びており、その勾配もかなり急となっていることから、道幅が途中からかなり狭くなっており、Uターンする箇所がほとんどないので、クルマで登る人は要注意である。

 これらの坂道のほかには、「姿見坂(すがたみざか)」「弥生坂(やよいざか)」「日和坂(ひよりざか)」「チャチャ登り」「南部坂(なんぶざか)」「あさり坂」などあるが、西部地区は市の景観条例の対象地区となっていることから、建物にかなりの制約がなされている。そのため、古い建物が多く立ち並んでおり、休日に西部地区を散策すると、こころが安らぐ空間がそこにあるような穏やかな気持ちになれるのである。

 戦争前の函館山には津軽海峡に砲身を向けた要塞があったため、山を写した写真がほとんど存在しない。山を対象としたすべての写真は津軽要塞司令部が検閲しており、例えば、歴史的建造物や行事等を撮影した写真がそのアングルからして当然のごとく函館山が写っているはずなのに、そこが空間となっているという修正を加えられた被写体もある。
 また、地元出身の田辺三重松氏(故人)などの著名な画家による作品も山を背にした港内風景画がほとんどである。
 そういった歴史的事実があったため、これらの坂道は見下ろした写真や絵画しか存在していないし、逆のことを言えば、軍が敗戦まで函館山とその付近を管理し、山を含めて場所によっては立入禁止としていたことから、付近の自然が手付かずに残ったという珍しいケースでもあったため、西部地区が俗化されずにいたという点においては、今では函館市民のすばらしい財産であるような気もする。

 函館生まれの僕にとって、坂道というのは別に珍しくもなんともない自然の光景にしか映らないのだが、トシをとるにつれて、函館ほど坂道の似合うマチはないとつくづく思うようになった。それは、歴史的建造物が立ち並ぶ異国情緒もそうさせている要素だと思っているが、一番の要素はコカコーラのびん(ご婦人の容姿)のように中心部(ウエスト)を細くしぼりこんだ流線形のような海岸線の美しさのせいでもあろう。加えて、それぞれの坂道から眺める港やマチの風景がそれぞれまた違っており、その眺める位置が高からず低からず、人間が見下ろす角度としては最適であるという理由によるからかもしれない。
 自然と歴史と住んでいる人たちが作り上げたロケーションは、春夏秋冬の四季を通じて、今日も印象的に広がっている。そして朝から晩まで好きなときにそれを眺められる函館市民は、ほんとうに「贅沢でしあわせ者だ」と思っている。

 ちなみに僕がおすすめする風景は、もちろん「常盤公園」からのそれである。