東京駅発の東北新幹線「はやて」に乗車し、八戸から特急「白鳥」を乗り継いで函館へ向かう。およそ6時間の旅である。
飛行機だと1時間と少しの旅なのだが、僕はもともと飛行機が嫌いである。
団体で旅する手段としての飛行機は仕方なく多数決にまかれているが、本来は鉄(正確には「ジュラルミン」)のかたまりがどうして飛ぶのかということを理由にして鉄道の旅を選択する。
この昔からの理由に加えて、最近ではあのセキュリティチェックの異常さにあきれて、なおさら嫌いに拍車がかかった。便利なはずの飛行機に乗るために、その代償として、キンコン鳴ると(どういうわけか必ず鳴る)、靴を脱いでまで己の潔白を主張する必要があるのだろうか。
ここに飛行機の旅の不愉快がはじまる。あのセキュリティチェックが緩和されれば、少しは再考しようかなというポリシーは今も崩していない。
長い鉄道の旅に必要なものは食べ物や飲み物が第一であるが、次に「文庫本」と「音楽」が挙げられるであろう。
「はやて」に乗車して3時間、八戸へ到着すると同時に文庫本を読み終えたので、MDで音楽を聴くことにした。タイトルは「2004年ベスト」である。
1曲目は、オリコン1位の平井堅「瞳を閉じて」であり、以下、ミスチルやドリカムが続く。平原綾香の「JUPITER」はどちらかというとMISIAに歌って欲しかったなと思ったりして(高音が出てないし、歌い方が気に入らない)、そうしているうちに青森に着く。
ここで進行方向が逆になるので、座席を回転させる。あと2時間である。
MDの次の曲は久々のSPITZは「正夢」であった。
フジテレビ系で放映されているドラマ「メダカ」の主題歌であるが、このドラマは娘と女房殿が毎週観ているので、僕もつきあうのだが、実に面白い。
定時制の教師をしている「ミムラ」という女優が主演なのだが、脇役が素晴らしいにつきる。でも、最近では彼女の笑顔が好きで観ている。だから、この主題歌である「正夢」が耳元に流れた瞬間に、彼女の笑顔が頭に浮かんできた。
なんだかホロッとして、車窓を眺めた。
すると、小学校か中学校のような建物が目に入った。
次の瞬間、2階あたりの窓から、女子学生2人が笑って力いっぱい手を振っているのが見えた。僕は一瞬フリーズした。しかし、これはジョークなのだと理解した。理解したときにはすでに車窓の景色は変わっていた。
例えば僕が学生であるころに、学ぶ校舎が線路に面していたとしたら・・・。悪友と廊下の窓から景色を眺めていると、列車が通過しようとしていた。
その列車には知っている人が乗車していないことがわかっているとしても、なんだか手を振ってしまいたくなるような、そのときはそんな気持ちにかられてしまうだろう。
手を振る当事者は、おそらく窓から眺めている乗客に対してではなく、列車そのものに手を振るのだろう。あの女子学生たちもそういうことだったのだろう。
車窓が変わってから僕は後悔した。
手を振りかえせばよかったと。
たとえ、手を振った女子学生たちに見えなかったとしても、そのあと僕はほのぼのとした気持ちになれたかもしれないと思った。
SPITZが好きになったのは、今から10年ほど前に放映されたテレビドラマの主題歌を聞いたときからである。
70年代のロックとポップスのどちらとも言えないサウンドが聴いていてなつかしさを覚えた。もちろん、詩も素敵で、その感性にも感心させられた。
「ロビンソン」「空も飛べるはず」が代表曲であるが、ある意味ではなつかしのグループサウンズから発展した「甲斐バンド」的要素をもった彼らのメロディは、僕の世代に妙にマッチしているのは確かである。ギターを手にしたら、真っ先に彼らをコピーしたいと思った。
よく、「○○節」という表現がされることがある。代表的なものとしては、「拓郎節」「陽水節」から「みゆき節」と、メロディを聞くだけで作者がわかる「節」がある。
「メダカ」がはじまって、イントロが流れたときに、この曲はスピッツだと僕は直感的に思った。
と同時になつかしさを覚えた。久々の「スピッツ節」である。
ドラマを観ながらインターネットのサイトへ飛び、ダウンロードした。足りずに、翌日CDを購入した。その日から通勤のクルマでくりかえしくりかえし聴いて、とうとう「耳にタコ」ができた。
僕が手を振らなかったことに後悔しているとはおかまいなしに、MDは「正夢」をくりかえしくりかえし再生している。
やがて、特急「白鳥」は青森を離れ、津軽半島を北上した。
左手に広がる山並みがあざやかな初冬の夕焼けに染まっている。
もう二度と手を振られることはないだろうが、今度、また手を振られることがあったら、そのときは手を振りかえそうと決めた。
そう思ったら、自分の頬が自然とくずれていくのが車窓に映って見えた。
そして、「正夢」を聴くたびに、これからあの手を振る光景を思い出すのだろうとも思った。
僕は、いつのころに、どこへ素直さというものを捨ててきてしまったのだろうか。