ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

 最近のテレビで、ほぼ毎日のように殺人・傷害事件が報道されるので、なんだか物騒な世の中になってきたなと思うと同時に、倫理という言葉が崩壊しつつあるという現実を肌で感じている。

 この現実を、テレビでのサスペンスドラマやテレビゲームによる影響もあるという見方も否定できないが、いわゆる「やっちゃいけない」というタブーの世界に踏み入っている危機感を、みんなが真剣に取り組んでいかなければ、日本という国に未来はないのではないだろうか。

 毎日のように発生する殺人・傷害事件で、若者が容疑者となるそのほとんどの供述が、

 『誰でもいいから刺したかった。』

と、直接関係のない人を対象とした「無差別性」が特異的に報道される一方で、

 『父親に叱られて、むしゃくしゃしていた。』

 『会社をクビにされて、腹いせに刺した。』

と、動機そのものが単純であることも報道されている。

 ただ、父親も会社も何かの原因があったからこそ、「叱る」または「クビにする」わけであって、よほどのことがない限り、一方的な「責め」はないはずである。

 そういった報道がされると、僕はいつも、

 『原因も何もないのに、ただ一方的に叱るわけがないだろ。因果関係は、お前にあるはずだ!』

と、テレビに向かって、つい怒鳴ってしまう。

 普通の親子の場合は、子供が何か悪さをしたから親が叱るわけであって、その方程式は今も昔も不変のはずである。

 昔のCMで、「反省するならサルにでもできる」というキャッチコピーがあったが、どうやら反省する前に、「自分は悪くない」と開き直って、「世の中に迷惑をかける」衝動的な行動に移ってしまう傾向が強いようである。

 要するに、自己中心的に固まっていて、「やっちゃいけないこと」をする前に、「サーモスタット」が働かずに、思いとどまることができないのだろう。

 「耐える」ということを、何故わからないのかと思ってしまうが、逆に言えば、今の若い人たちにとって、「耐える」という言葉は死語となっているのかもしれない。

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 娘がまだ幼稚園のころ、「こういうことうすると、こうなるなから、絶対にしてはいけない。」ということを、口をすっぱくして再三話した。

 「やめなさい」とか「いけません」と、単純に子供を叱るだけの母親の姿を見ることがあるが、子供にしてみれば何故母親が鬼のように叱るのかわからないはずである。

 それでも子供はわんぱくだから、同じあやまちをくりかえすかもしれない。

 そういったときは、今度は親が悲しい顔をすればいい。

 その親の悲しい顔を見た子供は、「やっちゃいけないこと」だと理解できるはずである。

 また、親たちのごく一部であろうが、子供に対して世の中の善悪をちゃんと教えていないケースがあるように思う。

 学校の先生になる若者が少なくなってきていると言われるが、学校は子供の教育については万全でないはずである。

 僕はそう思っていないが、いつから、学校の存在が子供のすべてを教育するものになってしまったのだろう。

 「学校が教えないから」「学校がしつけてくれないから」と、わけのわからないことを主張する親たちの場合、学校は子供にすべてを教えるところだと錯覚しているようにも捉えられる。

 そんな主張をする親たちも、実は「人のせい」にしているのではと考えてしまう。

 「親の顔が見たい」

 「子供は、親の背中を見て育つ」

 これらの言葉を、親たちはどう考えているのだろう。

 少なくとも、「やっちゃいけない」「世の中に迷惑をかけない」ことは、親が自ら教えるべきであって、こんなあたりまえのことを敢えて書かなければならないのが、つくづく情けない話だと思った。

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 しかし、「誰でも良かった」として、その殺人・傷害の犠牲となった全然関係のない方たちは浮かばれない。

 今、街中では、ミュージック・プレイヤーを聴きながら歩く人たちがやたらと目につく。

 聞くところによれば、例の秋葉原の無差別殺人事件で、イヤフォンをしながら歩いていて犠牲になった方もいるという。

 周囲の悲鳴などに気づかなかったようで、その話を聞いた女房が、相模原に住む大学4年生の娘に注意するよう電話で話していた。

 仮に、ミュージック・プレイヤーで音楽を聴くのを止めていたら、犠牲者にならずにすんだかどうかわからないものの、現場を回避することは少なくとも可能ではなかったかと思える。

 犠牲者に対しては、たまたま居合わせたということから気の毒でしょうがないが、加害者は犯罪に手を染めたという事実があり、それはどんな理由があるにせよ訴追される運命にある。

 それは、れっきとした「犯罪者」であって、弁解の余地は全くない。

 「むしゃくしゃしたから」という動機があっても、それは思いとどまるはできるはずである。

 また、殺人をしたら自分がどうなるかくらい、誰もが承知しているはずである。

 「犯罪者」にならないためにも、「むしゃくしゃのはらいせ」を実行に移す前に、思いとどまることが肝要であることは言うまでもなく、それはバカでもない限りだれもが知っている。