ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

今さらという題材である。

季節感を表す定番は着用衣類であり、具体的には「半そで」「長そで」の区分けになるのだろうが、今ではそれも微妙となりつつある。

着用衣類のほかには「くだもの」が掲げられるが、これはもうとっくに崩壊しているのが現状であろう。

ひと昔は、「みかん」は秋から冬までと相場が決まっていたが、これから夏になろうとしている今時期に「ハウスみかん」なるものがスーパーに並べられている。

この逆のパターンとしては「いちご」がある。

でも、季節感を忠実に守っているくだものもある。

「なし」「かき」「さくらんぼ」「もも」がそれであろう。

これらのくだものは、ハウス栽培がおそらく不可能なのだろうと思うので、実際にそれが理由となって、可能・不可能とに分かれるのだろう。

昔は、秋になって冬が忍び寄ってくるころに「みかん」が店頭に並び、陳列された「みかん」を見て、『ああ、年の瀬だなあ。』と思ったりしたものだった。

「りんご」もしかりである。

それが、今ではその定説が完全崩壊している。

たしかに一年中いつでもクチに入るということは画期的であるかもしれないが、果たしてそれでいいのだろうか。

懸念することではないにしろ、こんな「贅沢」を味わっているのは世界中で日本人だけではないのかと、僕は思ったりしている。

根拠は何もないが、日本人以外の人たちは、きっとくだものに季節感をまだ残しているのではないかと思うのだが。

でも、いつからこうなってしまったのだろう。

くだもの以外の食品では、冷凍技術の進歩でこれも一年中いつでもクチに入るようになったし、北半球で収穫が終わった野菜などは、季節が全く反対である南半球のオーストラリアやニュージ-ランドから供給が可能となった。

また、冷凍まではいかない、いわゆる「パーシャル」というものもある。

そういった保存技術の向上と流通の効率化とが、世界のあらゆるところから調達可能となった要因であると思う。

それにしても・・・である。

自然の原理というものを全く無視したかたちの供給は、ほんとうに良いのだろうかと、このごろ疑問に思う。

季節感のなくなった衣食生活のなかでは、温度と太陽光線、風景と樹木、そういったものでしか春夏秋冬の移り変わりを知ることができない。

こういう話をしていると、やっぱり日本人はどこへ行くのだろうと、将来に対する不安がますます募ってくるのだが。