ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

曲:新条ゆきの「金の星」

 風は強かったが、その日も空は青く晴れわたっていた。

 担当医師から外出許可をもらった女房にとっては、およそ2ヶ月ぶりの「おいしい外の空気」だった。

 『相模原から着てきたピンク色のコートを持ってきてよ。』

 『コートなんか誰も着ていないから、ジージャンにしたら。』

 『奥さん、ダンナさんのおっしゃるとおりですよ。だれもコートなんか着ていませんよ。』

 『クルマで移動するんでしょうから、カーディガンで十分だと思いますよ。』

 前日の病室内でのやりとりなのだが、井戸端会議的な会話に珍しく女房が折れた。

 ほんとうはスカートを履きたかったらしいが、まだ寒いのでジーンズにした。

 クルマを正面玄関にまわしてくると、マスク着用の女房が玄関口からすぐに出てきた。

 『外はやっぱり気持ちいいね。』
 
 『2ヶ月ぶりだからね。入院したときは真冬だったけど、もう春になってしまったね。』

 気温はやや低めだったが、日差しが強かったので、車内は気持ちがいいくらいポカポカだった。

 女房とこうしてドライブするのは、もちろん、あの入院のため病院へ向かったとき以来のこと。

 見慣れた函館の街並みを過ぎて、ドラッグストアへ向かう。

 駐車場にクルマをとめて、歩き出したが、女房は僕の左ひじをつまんだ。

 『大丈夫だよ。ゆっくり歩くから。』

 彼女のその行為に、すでに僕の胸は痛みだしていたが、表情を見せまいと、彼女のほうを向かなかった。

 ドラッグストアに入ると、
 
 『カートを押して歩いたほうが、楽だから。』

 と、女房が言った。

 カートを押す彼女のとなりで、僕は手ぶらのまま歩き、彼女が立ち止まって、

 『それをカートに入れて。』

と、指示するたびに、僕はその商品を棚から取ってカートに入れた。

 購入品のほとんどが相模原で一人暮らしを始めた娘の生活用品であり、そのほかは自分が必要とする洗顔クリームなどの化粧品類だった。

 その購入品をカートに入れるたびに、女房は入院していても常に娘のことを想っているのだなと、娘はやっぱり彼女の生きがいなのだなと思ってしまった。

 買い物を終えてから、家にもどった。

 久々の外出で、少し疲れたのだろうか。

 居間のこたつに入ると女房は、座椅子をまくらにして、ウトウト眠りに入った。

 毛布をかけてやった。

 30分くらい、そんな時間が経過した。

 僕は、その間、彼女のその寝顔をずっとながめていた。

 眠りから目覚めた彼女は、さきほど食べかけた「しおせんべい」の残りを口にほおばりながら、

 『今度外出したときに、あたしの衣類を整理しないとね。』

と、僕をみた。

 『そうだね。着れなくなったものもあるだろうから、今度にしようね。』

と、彼女をみた。

 それから、テレビをながめたりして、時間がゆっくりと過ぎていったような気がした。

 時計が午後5時30分を指したので、夕食を外で食べてから病院へもどることにした。

 夕食は、彼女のリクエストで、娘と3人でいつも食べに行っていた近くの高級回転すし店にした。

 このお店では、板さんが握っているので、そのぶん割高になっているが、普通のすし店よりははるかに安い。

 ちなみに、ここの回転すしと通常のすし屋との境目はむずかしく、あえて言えば「シャリの大きさ」がやや小さめという要素しかない。

 これは函館のすしのレベルの問題だろうと思うが、観光客用の高級回転すし店が存在していること自体、函館は「すし文化レベル」がきっと高いのだろう。

 さて、日曜だったので、店内はかなりの客でにぎわっていたものの、すぐにカウンターへ座ることができた。

 女房にしてみれば、2ケ月ぶりの外食。

 好きなネタを注文票に書いて、板さんへ渡す。

 活ホタテ、イクラ軍艦巻き、漬けまぐろ、活ホッキ、そしてズワイガ二と、彼女の好物が次々とカウンターに並び、女房の顔に、久々に笑みがこぼれる。

 彼女が大好きなイクラは2皿の注文だったが、真っ先にそれをペロリとたいらげた。

 6時までに病院へ戻らなければならなかったので、じっくりと味わっている時間はあまりなかった。

 『ふう〜、おいしかった。久々に食べたっていう感じ。』

 『また、外出許可が下りたら、食べにくるか!』

 『そうね。これだけがプチ楽しみ。』

 入院生活となってから、肉類が全然食べられなくなってしまったので、焼肉店やイタメシ、それにハンバーグはしばらく敬遠するしかない。

 次は、いつ外出できるのだろう。

 そう思いながら、助手席に目をやると、彼女はじっと前方をみつめていた。

 今まで当たり前だった暮らしのなかの、買い物をすること、外食することが、こんなに楽しみなことになってしまうなんて。

 そして、家の居間のこたつに丸まって、うたたねをする姿を思い出すたびに、夫である僕が彼女のためにできることは、惜しむことなく全部してあげようと、そう思う彼女の姿だった。