ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

曲:新条ゆきの「金の星」

 女房とこんなに多くの会話をすることもなく、26年が過ぎてしまったような気がした。

 特にこの3年間は、離れ離れに暮らしていたこともあって、こうして向かい合って話をするといった時間はほとんどなかったように思う。

 不思議なものだ。

 女房が入院してから、朝と晩に病室を訪れる毎日が続き、いろんな話がそのときにできるようになった。

 単調な入院生活を送る彼女からすれば、僕という話相手が定期的に出没するので、きっとそのときを首を長くして待っているのだろう。

 その会話のほとんどが相模原で就職活動真っ最中の娘のことであり、次に病状のこと、そして次に苫小牧に住む女房の両親の動静といった順番となる。

 話題が途切れると、今度は病室内のおばちゃんらを交えた食べ物の話へ変わっていく。

 そして、どうしても「スイーツ」や「ファーストフード」の話題に集中してしまう。

 女房を含め、病室内のおばちゃんらのほとんどは、医師から食事制限されている身なので、それは仕方ないのだろうと察する。

 函館というマチは老舗の和菓子屋さんが多く、『ああ、あそこの餅屋さんね。コシがあっていいよねえ。』とか、『そうそう、あそこの団子屋さんのあんこがおいしいのよねえ。』といった会話となる。

 そんなたわいのない会話で一日が過ぎていく入院生活を、女房はあとどれくらいの日々をここで過ごすのだろうか。

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 女房が入院してから1ケ月半が経過した。

 当初は、「耳鼻咽喉科」の病室に「仮住まい」していたが、1週間くらい経過して、晴れて「内科」の病室へ引っ越すことができた。

 それから今日まで、この病室では入れ替わり立ち代りメンバーが変わっている。

 実は、この病院の場合、内科病棟は外科で手術を受ける前提の患者が待つ病棟でもあり、また、救急指定病院のため、ベッド数が絶対的に不足しているという現状もある。

 内科はまだ良いほうで、外科は手術を終えると、ベッド数不足を理由にすぐ退院させられる。

 ヘルニアの手術をして、その1週間後に退院という例を挙げれば納得できるが、仮に手術後の療養を要望すれば、救急指定ではないベッド数に余裕がある他の病院へ転院させられるそうだ。

 そういう事情から察すれば、僕の女房は例外中の例外ということが言える。

 そんな状況におかれている女房と、こんな会話のやりとりをする。

 『そのうち、お前がここの「主(ぬし)」になるかもね。』

 『いやだけど、しかたないかな。あ〜あ、早く治ればいいなあ。』

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 病室の入れ替わりが激しいので、いろんなおばちゃんとお友達になれるのだが、そのおばちゃん一人一人にも個性があり、また、話好きや社交好きのタイプによって話も変わってくる。

 おばちゃんばかりでなく若い女性も入院してくるのだが、やっぱり人間って「陰と陽」がはっきりしているんだなあと、つくづく思うことがある。

 原因不明の「咳」のため2週間程度入院していた30歳の女性は、2日目くらいから打ち解けることができたが、「急性肝炎」で緊急入院した22歳の女性は、カーテンを閉めたままの状態が今日も続いている。

 女房の観察日記によれば、その女性は、治療のための点滴を腕に傷がつくからと拒否し、飲み薬による治療も拒否しており、寝て、テレビを観て、三度三度の病院食はほんの少し箸をつけるだけで配膳し、その後は内緒でロールケーキやお菓子を食べまくると言った異常な「療養生活」をしているそうだ。

 すなわち、担当医師は「安静」という処置を施しているということになるのだろう。

 自分の身体が一体どういう状態になっているのかを、まるでわかっていない刹那的なその姿に、病室のおばちゃんたちは初めは心配したものの、今では全く気にしないという状況となっている。

 少なくとも、同じ病室にいる女房を含めたおばちゃんたちには、早く治して退院しようとする気持ちがあるわけで、これは当然の考えであるのだが、この女性に限っては治そうという気持ちを、おそらく持ち合わせていないのだろう。

 そんな空気が流れていた穏やかな夜に、3月初めに退院した同じ病室の女性が救急車で運ばれてきた。

 退院するときはあんなに元気で「バイバイ」していったのに、点滴の「くだ」を2本も腕にさされて横たわっている姿を見るかぎり、意識が回復したときに、どんな言葉をかけたら良いのだろうかと考えてしまった。

 が、彼女の意識が回復してからは、そんなに心配することなく、以前どおりの会話が復活してしまったので、これからはあんまり深刻に考えることはやめようと、いわば「自然体」で接することが一番いいのだろうと悟った。

 それが、この「やさしい空間」のルールなのだろう、きっと。

 人に対して接するやさしさは、自分が持つ24時間のうちの、1時間いや1分いや10秒という時間を、その相手に対して使用する思いやりなのだろうと思うが、もっと現実的に考えれば、相手の視線の1メートル先のことを応援してあげることではないだろうかと、僕は思う。

 着飾ることもなく、その人が希望をもって明日へ向かうことを、親身になって応援してあげることは、今では難しい時代になってしまったような気がする。

 でも、10秒でもいいから、1メートル先のその人の願いを応援してあげることによって、「やさしい空間」が生まれてくるのではないだろうか。

 病室に入るとき、ちょっと微笑むくらいの明るさを取り戻して、「ただいま。」ってあいさつしたら、おばちゃんたちは「おかえりなさい。」って、答えてくれる。

 「やさしい空間」で、僕はいろんなことを教えられているんだろうなあ、きっと。