ひとりおもふ
トップ 随想トップ
シルエット・ロマンス

 イタリア映画の傑作のひとつ、「ニュー・シネマ・パラダイス」(デジタル・リマスター版と完全版)がスカパーで放映された。

 DVD(完全版)も持っているし、今まで、何度も何度も観てこころに深く刻まれた映画。

 観るたびに、あのラストで、何度も何度も泣いてしまった。

 どうしても、どうしても、わかっているのに、わかっているのに、次にどんな展開となってどうなるかがわかっていても、やっぱり、あのラストで泣いてしまう。

 エンニオ・モリコーネの音楽が全編にわたって、ものすごくフィットしているという理由があるかもしれないけど、僕はこの映画から抜け出すことは死ぬまでできないだろう。

 映画で表現可能な芸術をすべて網羅しているであろうこの作品で、自分の人生を励まされた人たちは、世界でどれくらいいるのだろう。

 何度も何度も観るたびに、何度も何度も泣いてしまうラストシーン・・・。

 映写技師だった師匠「アルフレード」の忠告に従い、故郷を捨てた主人公「トト」は、亡くなったその師匠の葬儀に参列するため、30年ぶりに故郷へ戻ってくる。

 ここから、すでに僕の涙腺がうるみっぱなし状態となってしまう。

★★★★★

 まずは、典型的なイタリア映画であるこの映画の喜劇から悲劇へ変わっていくところから簡単に紹介したい。

 転校してきた長い金髪が良く似合う知的な顔立ちの女性「エレナ」。

 その彼女に、トトは一目ぼれしてしまう。

 「身分が違う」と彼女の親から反対されて、夏が過ぎて秋が過ぎて、そして冬がきて新年となっても、会うこともできない二人。

 その間、トトは毎晩、エレナの木枠で閉ざされた部屋の窓の下で、その隙間からもれる灯りに彼女を想いつづける。

 彼女も毎晩、その灯りのなかで窓の外にいる彼を想いつづける。

 もうあきらめかけたとき、エレナはトトの前に突然現れて抱き合い、そして愛し合うようになる。

 そして、トトの軍隊入隊とエレナの引越しで、二人は離れ離れになってしまう。

 除隊して故郷へ戻ったトトにアルフレードは、ローマへ出るよう勧め、トトは故郷を離れる。

★★★★★

 故郷を捨てたトトのもとに、アルフレードの死のしらせが届く。

 30年ぶりの帰郷。

 老いた母親がトトを待つシーンがすごく素敵だなと思った。

 タクシーが来て、トトがやってくるのを感じると、母は玄関へ降りて行くが、編み物中の糸がひっかかっていて、その編み物がほぐれ、糸がスルスルと伸びていき、やがて止まる。

 なんとも心にくい演出である。

 老いた母親と再会して、30年前に出ていったまま変わらない部屋をなつかしみ、その当時を想い浮かべる。

 トトは、初恋の相手である金髪の美しい女性エレナを撮影したフィルムを取り出して映写するが、そのモノクロの映像がすでにもの悲しい。

 最後まですれちがいの二人であったが、映画はちゃんとロマンスしてくれる。

 「リマスター版」ではカットされているシーンもあるので、「完全版」でしか観られない感動のシーンもある。

 30年ぶりに戻ってきた故郷のカフェで、偶然見かけたエレナと瓜二つの若い女性。

彼女の美しさがまぶしくて、主人公同様に感極まるほど気持ちが高まっていく自身を感じる映画づくりに脱帽する。

 その若い女性が、実はすれちがったままの初恋の女性エレナの娘であることを確信し、トトは想い出の場所で、神様の導きで吸い寄せられた彼女と運命の再会を果たす。

 そして、二人が引き裂かれた30年前のいきさつ。

引越しのため、その街を離れる直前に映画館へ行くが、結局は逢えなかったこと、書置きを残したことを彼女から告げられるトト。

 30年もひたすら彼女との再会を望み、独身を貫き通していたトトだったが、彼女は皮肉にもトトが捨てた故郷で、彼の友人と1男1女の家庭を築いていたのだった。

 30年の年月はあまりにも残酷ではあるけれど、そのクルマのなかで二人はその空白の想いを込めて激しく抱き合う。

 「完全版」でしか観られないこの再会のシーンに、恥も外聞もなくオイオイ泣く自分がいる。

 姿かたちは全然違うけど、もし再会したら僕もこうなるのかなと、青春の苦い想い出が思わずオーバーラップしてしまう。

朝食のとき、老いた母親にトトはたずねる。たしか、こうだったと思う。

 『かあさんは、とうさんが亡くなったときに、どうして再婚しなかったの。』

 『それは、自分が家族を愛していたからだよ。とうさんもおまえも愛していたから、他の人を好きになるということは思わなかったんだよ。』

『おまえが出ていってから、いつも心配ごとがあった。おまえが映画館で仕事をしているとき、家に戻ってくるまでずっと鍵をかけていたんだよ。そして、おまえが戻ってくる気配を感じると、空けに行って、寝たふりをしていた。おまえがこの家を出ていっても、そのクセが直らなくてね。』

 『おまえに電話をかけると、女性の声がいつも替わっていた。でも、私が気になったのは、本気で愛しているという声を一度も聞いたことがなかったことだよ。』

 『おまえの生活はあっちだよ。この村には「まぼろし」しかないんだよ。』

 母親はやっぱり母親で、離れた息子のことを想っている。

 アルフレードの葬儀がはじまり、師匠が眠る棺が、廃館となった映画館前を通過する。

 その映画館も取り壊される運命であることを知る。

 埃とクモの巣だらけの古ぼけてしまった館内をさまよい、回想するシーンは、ほんとうに映画が好きな人たちのための昔をなつかしむ想いがこめられているようで、その想いが痛ましい。

 イタリアの小さな田舎町で、敗戦後に住民の唯一の娯楽施設だったその映画館が、あとかたもなく、一瞬のうちに廃墟となるシーンは、胸が締め付けられる想いだ。

 葬儀が終わり、トトはアルフレードからの「遺品」を奥さんから受け取る。

 映画プロデューサーとして成功をおさめたトトは、ローマへ戻ると、さっそく試写室でその「遺品」であるフィルムを観る。

 古き良き時代のイタリアでは宗教上の理由で、映画のラブシーンをフィルムカットしてから一般上映していた。

 「遺品」のフィルムは、そのカットされたフィルムをつなぎあわせた、世界で唯一の作品。

この感動的なクライマックスシーンで、エンニオ・モリコーネの音楽が効果的に使われ、おそらくは観ている人たちの涙腺は緩みっぱなし。

例によって、僕もボロボロ泣いてしまう感動の名場面。

どんな名作映画のラストシーンでも、これだけ感動しっぱなしの映画はないだろう。

1980年代のイタリア映画というよりは、ヨーロッパ映画の最高傑作だと僕は思う。

映画好きの人が、その想いを込めて作ったということがすごくわかるし、カンヌ映画祭グランプリ、アカデミー賞外国映画賞受賞であることが十分納得のいくすばらしい作品である。

★★★★★

 「すれちがい」を見事に表現して、人生の転換期を迎えるストーリーの映画は数知れない。

 その中でも、この「ニュー・シネマ・パラダイス」は、映画における「出会い」と「別れ」を見事に表現している。

 「出会い」のシーンで、はっとするような美貌の「エレナ」に主人公のみならず男性観客までも、おそらく「とりこ」になったであろう。

 そして、「別れ」のシーンでは、映画館のらせん階段や映写室を実に巧みに使用して、いっそうもの悲しい状況を創り出している。

 ソフィア・ローレン主演の名作「ひまわり」でおなじみのように、イタリア映画独特の、前半はユーモアあふれたストーリーが延々と続き、あるきっかけを境として、後半は本題のシリアスなストーリーへと入っていくという展開がこの映画でも上手に実践されている。

 この映画での「あるきっかけ」は、まさに主人公「トト」と「エレナ」との運命の「出会い」が前半のヤマ場であり、「別れ」のきっかけである「すれちがい」を境にして、映画産業がテレビやビデオにおされるかたちの斜陽化時代へと入っていくと同時に、徐々に重苦しい雰囲気となっていく。

 「すれちがい」は映画上でのストーリーであって、第三者的な観客が『ああ、すれちがっちゃった。』とわかるだけのこと。

映画でも現実でも当事者同士は、それが「すれちがい」かどうかは後日にその当時の意思疎通を図らないかぎり、わからないのが当たり前の話である。

 極端な言い方をすれば、街角などではわずか10秒くらいの差であっても「すれちがい」は生じるであろうし、クルマの場合でも走行中の前後状態で偶然信号待ちしていてもバックミラーなどに目をやらないかぎり、お互いのクルマを運転している人同士は誰だか気がつかない。

 また、「すれちがい」の確率と「偶然出会う」確率とではあきらかに数値は違うはずであることはいうまでもない。

 その「偶然出会う」ことの確率が少ないからこそ「偶然」「たまたま」という表現があるわけであって、逆にその確率が高いのであればおもしろみも何もないだろうから、当然のように映画の題材にもならないはずだ。

 「すれちがい」があったことにより、それからハッピイとなるストーリーの映画を観たことがないので、その多くは悲しい結末となっていくのであろう。

 言い換えれば、「すれちがい」は不幸へのはじまりとしてとらえるべきものなのかもしれない。

 人生のその「すれちがい」の悲しさを、映画は見事に表現することができる芸術だと、僕は思う。

 その「すれちがい」をスクリーンで眺めながら、悔いのない人生を送りたいと、刹那的ではあるけれど、僕はいつもそう思っていたし、これからもそう思う。