ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

 秋という季節は、舗道を埋めた赤や黄色の枯葉を見ていると、色彩の豊かさを感じる反面、だれもがもの悲しいと思ってしまうだろうが、冬という季節は、色彩がないだけに、それ以上にもの悲しいのかもしれない。

 ただ、もの悲しいと表現するよりは、「暗くてつらい」と言ったほうが適切なのだろうと思う。

 雪がほとんど降らない東京や大阪などのそれと違うように、また、金沢や新潟、そして秋田、青森の雪国とも微妙に違うのが北海道の冬だと思う。

 ここで、本州の日本海側と微妙に違うというのは、「雪質」のことを指している。

 つまり、日本海側の雪は、「湿って重い」と言われている一方で、北海道に降る雪は「パウダー・スノー」と呼ばれている。

 直訳しなくとも「粉雪」だと理解できるだろうが、気温が低いためサラサラしているのが特徴である。

 昔、本州から北海道へ単身赴任してきた男性が、掃除をする際に、窓を開けたら雪が入ってきてしまったので、その雪をほうきで集め、ちりとりで外へ捨てたという有名な話を披露すれば、納得できると思うのだが。

 だから、雪かき作業は日本海側の雪国よりは、腰への負担が少ないのかもしれない。

 また、雪がほとんど降らない東京や大阪などでは、衣類や髪の毛に落ちてきた雪がすぐ融けてしまうが、北海道では「くっついたまま」しだいに積もっていくので、その積もった雪を手で「掃う」ことになる。

 そういう友達のような雪と、深く付き合わなければならない環境のなかで、山下達郎の「クリスマス・イブ」などのウィンター・ソングを聴いていると、エキゾチックなロマンに浸ることもできるのは確かだ。

 ただし、稚内のような「さいはて」では、過酷な冬と向かい合わなければならない現実があるので、そういうロマンを感じることはないが。

 僕の場合、雪が舞い降りてくると、中島美嘉の「雪の華」をすぐ想い浮かべてしまう。

 桜舞う春の季節にも、僕は彼女が歌った「桜舞うころ」をすぐ想い浮かべてしまうのだが、別に彼女のファンでもなく、詩とメロディと、それに彼女の歌唱が好きだというだけのこと。

 「雪の華」を聴いていると、その歌詞どおりの光景がイメージとなって浮かんでくるが、雪が深々と降っている背景がそこにあることは言うまでもない。

★★★★★

 冬を感じる曲も、雪を感じる曲も、この国では夜空に輝く星の数くらい聴くことができるだろう。

 そのなかでも、明るい感じのする曲は、どうしてもクリスマス・ソングに多いのではないだろうかと思える。

 今では途方もなく「カネ喰い虫」へと変身してしまった大学3年の一人娘は、プロテスタントの女子中学・高校の出身だったので(大学もか・・・)、クリスマス近くになると、関連の催し物が講堂などで行われ、せっかくだからと女房殿に強引に誘われて、毎年足を運ばされた。

 中学生のとき、娘は「ハンドベル部」に所属していたので、3年間、JR函館駅構内で開催されたクリスマスコンサートでベルを鳴らしたほかに、3年生のときは、金森倉庫内でのNHKの生放送でも鳴らしたが、僕はビデオ係兼写真係を全て務めさせていただいた。

 が、学校の講堂で行われるクリスマス発表会では、いきなり「賛美歌斉唱」から始まる宗教色の強いプログラムだったので、知らない賛美歌だったので、音にあわせてクチをパクパクしているだけの記憶が残っている。

 スタンツや合唱、そして個人・グループによる楽器演奏、先生による余興などのプログラムに結構笑えたし、感心させられたが、「賛美歌」が冬にマッチしていることにも別な意味で感心した。

 ステンドグラスと、明かりが灯されたクリスマスツリー。

 パイプオルガンの音色と、賛美歌と。

 日本人の多くは、クリスマスになるとデコレーションケーキに、どういうわけか「七面鳥」か「鶏」の丸焼きとスパークリングワインかワイン。

 でも、そういった「俗世間」とは別に、敬虔なキリスト教信者たちは教会で礼拝している。

 夜になり、気温も氷点下近くに下がりだすと、幾万もの星たちが輝く夜空を暗雲が覆いはじめ、やがて白い雪の華が天使のように舞い降りる。

 賛美歌が響きだす教会の周りでは、舞い降りる白い天使たちが「もみの木」に腰掛け、踊りはじめる。

 そして、クリスマスに浮かれた街が寝静まるころ、どこからかジングルベルの鐘の音が聞こえ、あのサンタクロースが良い子たちのところへやってくる。

 トナカイが引く「そり」のシュプールが夜空に描かれるとき、僕たちは子供のころに戻って、きっと、素敵なクリスマスの夢を見ることだろう。

 そのクリスマスが過ぎて、お正月も過ぎると、「暗くてつらい」本格的な冬が、そのベールを脱いでくる。

 雪の華は、暗くてつらいそのときに、華を咲かせる。