懇意にさせていただいているカウンセラーの講義を聴講する機会に恵まれた。
独特な話術に引き込まれる受講生がけっこういらっしゃるような雰囲気の教室だったが、ちょうどそのころ僕は、ある人との関係が行き詰まり状態に陥っていたので、僕にとってはまさにグッドタイミングだった。
講義のテーマは、「ストレスとどう向き合うか」というもので、そのなかで僕が一番興味を引かれたのは、カウンセラーがどのようにして「人」と対応をしているのかということだった。
日本人にはどうしても平均的なものを求める傾向が強く、例えばその平均値に達しない人たちに対しては、何故そうなのかということを問いただす姿勢が強く見られ、達しない人たちを平均値まで引き上げようと試みる。
しかし、人は生まれてから現在までいろんな経験をし、育った環境も違うのだから、平均的なものを求めることがそもそもナンセンスなのであるということに、何故気がつかないのだろうか。
例えば、今、日本中の話題となっている「亀田一家」。
先日、謝罪会見が行われ、その映像を観た日本人の多くは、『謝罪していない。』とか『大毅は何故一言も話さなかったのだ。』『内藤にちゃんと謝罪してくれよ。』とコメントしていた。
だが、父親にせよ次男にせよ、おそらく、現状ではあれが精一杯だったのだろうと僕は考えた。
仮に、亀田一家が社会常識のうえに立って暮らしている平均的な日本人であれば、記者会見であんな態度を取らずに、過ちを犯した企業幹部が一斉に報道陣に向かって深々とお辞儀する、「おわび」のあのシーンが期待されたのだろう。
が、亀田一家に、その社会常識を求めることは酷だと、僕は思う。
要するに、亀田一家は社会からはみ出た社会常識のない一家だと考えるべきではないかと。
今までの言論や態度を思い起こせば、それは納得できるのではないだろうか。
だから、そのうえに立って今回の失態を考えたとき、父親以下の態度はあれが精一杯だったのだろうと思ったのだ。
おまけに、スポーツマン・シップが潜在しているのであれば、プロボクシングとはいえ、試合前はチャンピオンに敬意を表し、試合後は相手のファイトを誉めるなど、それなりの接し方はできるはず。
それができないということは、当然、チャンピオンである内藤選手に対する謝罪はありえないはずであるから、記者会見も含めた一連の報道模様は、まさに「亀田一家流」らしかったのではないだろうかと、僕は思った。
逆に、日本プロボクシング協会が、そういう選手をプロとして認定し、ここまで試合をやらせてきた責任は重いと思う。
また、僕が一番言いたいのは、つまり、今までの言論や態度に反発し、「アウトロー」のレッテルを貼り付け、亀田兄弟がいつか負けることを期待していた多くの平均的日本人が、『そーら、ざまあみろ。』と拍手喝采したことに罪はないのかということ。
あそこまで騒いだマスコミもしかりだが、違う現象で日本中がバッシングし、「はけ口」の対象となってしまった「雪印」、「石屋製菓」、「苫小牧ミートホープ」、そして「赤福」となんら変わらない亀田一家の位置づけに、憂いを感じる僕は平均的な日本人ではないのかもしれない。
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かのフロイトは、「エディプス・コンプレックス」などの説を説いているが、フロイトによれば、人の自我形成は3歳から始まるということで、3歳から5歳くらいまでの体験により、その人の性格などが決定づけられるということらしい。
よく見かける光景として、例えば、スーパーなどで子供が転んでしまって、今にも泣きだしそうなときに、その母親がどのような態度を取るかということを題材として、カウンセラーはこう説明してくれた。
『メソメソしないで、早く立ちなさい。いつまでもそうしていると、ママは怒りますよ。』と、子供に自立を求めさせるため、手を挙げる。
『痛くなかった? 大丈夫?』と、子供を立たせて、『滑って転ぶと痛いから、気をつけて歩こうね。』と、膝を優しくほろってあげる。
前者の経験を持つ子供は、「こういうことをしたらお母さんに怒られる」として、いたずらをして転んで痛いという恐怖ではなく、その母親から怒られる恐怖から自分を抑えていく。そのようなことがいくつもいくつも重なってくると、それがやがて「壁」となっていくというのである。
自分で形成した「壁」がある限り、その人の成長はそこで止まり、偏屈していき、自分で人間関係のコントロールがやがてできなくなっていく。
そして、その「壁」が何かの拍子で壊れたとき、「暴力」に変わっていく。
つまり、「キレる」という行動に出てしまうということである。
現在の日本で、一体、どのくらいの数の子供たちがこの「壁」の中で生きているのだろうか。
掲示板に書き込みをされる名古屋の「ふうこ」さんが、親が子供を強く抱きしめることを勧めているが、まさにそういう身近な愛さえもなくなってしまったのだろうか。
また、親が子供の視線に下りて、今日、学校でどんなことがあったのかなどを、子供の口から直接聞くことも大切だと思う。
親が子供と一緒に笑い、泣くことは、決して恥ずかしいことではない。
むしろ、それが親の責務であると、僕は思う。
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カウンセリングをするときに、最初にしなければならないことは、その「人」がどういう環境で育ってきたかということをまず把握することだという。
人は、全て同じように育ってきたわけではないのだから、お互いにその人を知るということが、人間関係を構築していくうえでは必要なことであり、礼儀であると思う。
言いたくても言えないことがあるのは当然のことであって、それを興味本位に聴きだすのではなく、相手がそのことを話しはじめられる環境を整えることも必要だと思う。
時間はいっぱいあるのだから、あせることなく、時間をかけて分かり合えばいいと、僕は思う。
講義のなかで、「二次的トラウマ」という言葉を始めて聞いた。
これは、「何かを励まそうとして(善意から)かけた言葉」が、かえって「あだ」となってしまうということらしい。
つまり、「遺された人の心理」に対して、例えば、
『あなたはまだ若いから再婚できる』
『あなたの家にはまだ二人いる』
『もう一人生んだら?』
と、相手を思いやってかけた言葉が、かえって傷つけてしまっているということなのである。
「遺された人の心理」としては、
『あなたの苦しみに何と声をかけて良いかわからないと言って、じっと手を握っていてくれた人が一番有難かった』
という経験談がある話を紹介してくれた。
善意からかけた言葉のつもりが、実は相手には「あだ」となっていることもあるのだということを知って、僕は一種の恐怖を感じた。
なにげない言葉を発することがあるのは、人間関係のなかではごく当たり前のことだけど、その言葉が相手の現在の心境によってはトラウマに発展するという怖さ。
カウンセラーの講義は、実に僕の現在のこころをえぐってくれた。感謝。
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『わたしはあなたが嫌いです。』
『わたしはあなたを好きではありません。』
どちらも同じことなのだが、受け取る方にしてみれば全然違うと思う。
だから僕は、ズバリ話すことは避けるよう相手に配慮している。
おそらく、自分がそういうふうにストレートに言われたときのこと・・・つまり、相手の身になって考えた場合をいつも思って接するようにこころがけている、つもり。
それから、仕事を終えて帰るときにかけられる言葉。
『おつかれさま。』
『ごくろうさま。』
シビアな上司は、部下から「ごくろうさま。」と言われて腹が立つ場合もあるという。
つまり、「ごくろうさま。」は、目下の者に対して発する労わりの言葉であることは言うまでもない。
その「掟」を知らない部下から、なにげなく言われたものだから、
『おまえに「ごくろうさま」と言われる筋合いはない。』
と、怒り狂うどうしようもない上司。
黙ってやりすごすのがいいのか、それともあえて波風をたてるべきなのか、思案のしどころなのだが、僕の場合は、上司でも部下でも「おつかれさま。」と言葉をかけることにしている。
そういう「習慣」を身につけることで、そのことは簡単に片付けられるはず。
人との接し方は、人生で苦労した人ほど上手だ。
このことは、昔も今も変わっていない。