女房を助手席に乗せ
稚内からの600キロ以上の長い移動
大沼のトンネルをすぎ 函館山が見えてきたとき
帰ってきた と 安堵した
二年ぶりの故郷 はこだて
★★★★★
『ご主人はどこからいらしたのさ。』
引越し業者のおやじさんが汗を拭き吹き尋ねたので、
『稚内からです。』
と、答えた。すると、
『やんや、すごい遠いとこから来たんだねえ。』
『2年前に、ここから稚内へ転勤して、また戻ってきたんです。』
『そうかい、そうかい。で、ご出身はどこなのさ。』
『函館です。』
『せば、いがったっしょ。(それじゃあ、よかったでしょう。)』
『んだね。(そうだね。)』
函館出身ということがわかったとたん、「函館弁」に切り替えられた。
さすがは、函館人。
女房殿は函館人ではないので、「函館弁」には「うとい」ものの、長年住んでいたので、味覚はほとんど「函館人」に近い仕様となっている。
特段の函館らしい味付けという定義はないが、どちらかというと「あっさり系」で、「塩味」がベースであろう。
もちろん、味噌も醤油もそれなりに使用する食生活に変わりはないが、函館名物「いか、いか、いか」が物語るように、「いかの塩辛」を例に出せば「塩文化」なのであろうか。
そんなことを考えながら、久々に透きとおった「いか刺し」を口にする。
函館人が食べる「いか刺し」は、千切りにして無造作に盛られた「いか」の上におろししょうがをのっけ、そのうえから醤油をかけて、「グチャグチャ」に混ぜて、そしていただく。これが「いか刺し」の真髄である。
酒の肴であれば、このまま口のなかに入っていくが、ごはんのおかずということになれば、この「グチャグチャ」にしたいかを熱いごはんの上にのっけていただく。
いかの甘さとおろししょうがとが絶妙にマッチする一品であり、故に「わさび醤油」でいただくのは函館人にとっては「邪道」なのである。
いかが透きとおっていて、それが醤油色に染まっているのをいただく贅沢は、やっぱり函館人の特権であろう。
だから、白くなったいかは鮮度が落ちているとして、ボイルして醤油をかけてあっさりいただくしか道は残されていない。
いかの基本的な食べ方、わかったかな。
★★★★★
夏の函館のイメージは、やはり歌人の石川啄木だろう。
啄木は岩手の出身で、函館山のふもとに現存する「弥生小学校」(当時は「弥生尋常小学校」)の代用教員として、新聞記者として暮らした。
彼はその後、札幌・小樽・釧路を転々として、20代の若さで東京で亡くなるが、函館出身の女性と結婚したことが函館との深い結びつきとなった。
津軽海峡に面した大森浜には「啄木小公園」があり、そこには考え込む彼の像が残されていて、その下には、この短歌が刻まれている。
潮かをる
北の浜辺の砂山の
かの浜薔薇(はまなす)よ
今年も咲けるや
「一握の砂」という短歌集はあまりにも有名であるが、啄木研究をされた方からすれば、啄木はかなりの短歌を発表しているが、有名なのはほんの一握りの作品だけだという。
東海の小島の磯の
砂浜にわれ泣きぬれて
蟹とたはむる
(啄木一族の墓所)
函館の青柳町こそ
かなしけれ
友の恋歌矢車の花
(函館公園)
砂山の砂に腹這い
初恋のいたみを遠く
おもひ出づる日
(啄木浪漫館)
「えぞ梅雨」が明けて、カラッとした夏空が広がる砂浜を歩いていると、浜風が心地よい潮の香りを運んでくる。
それは僕が生まれたときからの潮の香りであり、50年経過した今でも全然変わらない。
子供のころによく遊んだ根崎の砂浜に腰をおろし、キラキラ光る津軽海峡を眺めていると、
『ああ、僕は根っからの函館人なんだ。』
と、目を閉じて、あまりにも遠くなりすぎた過去を思い浮かべてしまう。
風景のなかで、とりわけ海が好きなのは、この記憶が起因しているからかもしれない。