シルエット・ロマンス
ひとりおもふ
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 北海道のかつての玄関口であった函館。

 世紀の事業である青函トンネルの開通・開業に伴い、それまで本州と北海道とのパイプ役であった青函連絡船が廃止となった。

 ただ、高度成長による交通機関の多様化で、北海道への玄関はすでに千歳空港に奪われていた感がある。

 青函連絡船は、石川さゆりの名曲「津軽海峡冬景色」に歌われていて、どこなくエキゾチックとセンチメンタリティがドッキングしたイメージを秘めていた。

 そのエキゾチックな北の観光都市函館には、その象徴的な観光資源として、函館山からの夜景と戊辰戦争の終末地である五稜郭とが有名である。

 函館山からの夜景は、香港、ナポリと世界三大夜景に数えられているほど有名であり、ここで紹介することは省略したい。

 一方の五稜郭は、ロシア帝国の南下政策の脅威の北方警備の要として江戸末期、蘭学者の武田斐三郎が設計し築城した日本最初の洋城で、その形が五角形であったことから「五稜郭」と呼ばれるようになった。

 日本伝統の城であれば「天守閣」が必ず建築され、下界を見渡すことが可能であるが、洋城である五稜郭には大砲の格好の目標となるという理由から、家屋のような「箱館奉行所」しか建築されなかった。

 やがて戊辰戦争がぼっ発し、京都から江戸、そして会津と戦いの炎は北上し、榎本武楊率いる幕府軍は蝦夷地へ上陸、奉行所は津軽青森箱館へ無血入城し、五稜郭に立てこもることになる。

 この幕府軍を「榎本軍」とも呼称し、総裁である榎本武楊は「蝦夷共和国」を樹立するが、その参謀として「新撰組」の副局長土方歳三が加わる。

 官軍はこの反乱軍征伐に蝦夷地へ上陸、五稜郭を包囲し、土方も戦死、そうして降伏し、戊辰戦争は終結、北海道開拓使が札幌に置かれることになる。

 一説には、札幌に開拓使が設置することとなり、その建材調達がままならぬ状態だったため、箱館奉行所を解体して、それを移送する予定だったとある。

 その移送が実現したかどうかは函館市の学芸員に確認を要することであり、今回は割愛するが、解体時に、その瓦などがその場所に埋められたという。

 その後、五稜郭は国(陸軍)が管理し、大正時代に一般開放されるまでは入城禁止の措置が取られた。

 そうして、函館市民へ開放されたのを記念して、毎日新聞社がサクラの苗を植樹し、その樹木がサクラの名所として五稜郭の名を日本中に知らしめることとなった。

 開放された五稜郭は、博物館以外は箱館奉行所も何も存在しない城跡公園であるが、その奉行所があった広場では、運動会やイベントなどが恒常的に開催されたり、サクラの時期には花見で多数の市民が繰り出す憩いの場であった。

 市内のど真ん中にある空間、それが五稜郭公園であり、ある日突然、そこに箱館奉行所という「箱もの贋物」の再建が決まった。

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 仕事の関係で、僕は2年間函館を留守にした。

 そのわずか2年の間で、五稜郭は大変貌を遂げようとしていた。

 つまり、去年の夏に、稚内での仕事を終え故郷函館へ戻ってくると、その市民の憩いの場である公園内広場に、箱館奉行所が再建されるための囲いがされ、基礎工事が始まっていたのだ。

 そして、いつもカメラに収めていたあの老松群の一部が伐採されていたのだ。

 その衝撃は言葉にできないくらいで、幼いころからの僕の五稜郭公園に対する想いというものが、そのとき跡形もなく粉砕された。

 あの老松群の景観は、残念ながらもう観ることができないのだ。

 何故、奉行所が今必要なのか。

 函館っ子であれば、それは愚問であり、今までどおりの広場が必要であるのだ。

 奉行所を建設して、何があるのか。

 贋物を造って、何があるのか。

 工事の囲いを前にして、五稜郭公園の想いがすべて消え、それから僕は意識的に五稜郭を遠ざけるようになった。

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 ひと冬が過ぎて、季節は春を迎えた。

 サクラ・・・五稜郭

 つつじ・・・五稜郭

 藤・・・五稜郭

 春になると、そのキーワードがすぐに脳裏へよみがえった。

 奉行所のことは忘れて、その3つを今年も観に行こうと、そして全国の人たちにその美しい光景を紹介しようと決めた。

 僕にとっては3年ぶりのご対面である。

 都合良いことに、今年の春は早かった。

 そのため、サクラの開花は1週間ほど早まり、4月下旬がピークとなった。

 次は、つつじの壁と藤棚。

 早く観たいと、女房が入院する中央病院の病室で看護をしながら、いつもそう思っていた。

 そんなとき、1通の電子メールが僕に届いた。

 五稜郭公園の藤棚を検索していたら、僕のサイトにたどりつき、そこに紹介された写真を是非使用したいという市内の男性からだった。

 そして、その使用理由を見て、僕は唖然とした。

 五稜郭の藤棚が、なくなる・・・。

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 彼の説明では、つまりこういうことだった。

 市民不在のまま、ある日突然、五稜郭の藤棚が撤去されることが決定した。

 撤去することになった理由は、五稜郭公園内に建設が決定した箱館奉行所に関して、5名の学識経験者が、

『箱館奉行所を復元するのであれば、藤棚付近にあったといわれる「砦」も忠実に復元すべきである。』

と、述べた。

 それで、函館市のほうではこの話を鵜呑みにし、これが、いきなり市議会で取り上げられ、それで撤去の話が表面化したのだという。

 これが、3月の定例市議会だったらしいので、五稜郭の藤棚を誰よりも愛する市民の耳に突然飛び込んできて、それで、藤棚は今年限りかもしれないという切羽詰った状況となってしまったのである。

 五稜郭の顔として、毎年6月には多くの市民や訪れる観光客を癒してくれる藤棚も今年で81年目となるとのこと。

 僕個人としても、何故、藤棚を撤去して砦を建設する必要があるのだろうかと疑問に思っているが、この手の学者という奴らは、融通が利かない頑固一辺倒であるし、まして函館出身は5人中1人しかいないということもあって、『冗談じゃねえぞ!』という感じにさせてくれた。

 撤去反対の市民運動も代表の呼びかけで盛り上がり、藤棚をテーマにした音楽も作られ、それがCD化された。

 そして、代表の呼びかけで、藤が満開になるであろう6月8日に観賞会が開催されることとなった。

 代表のお話だと、藤は非常にデリケートな生き物なので、移設することにより死んでしまう恐れがあるとのこと。

 そういう事情も知らない函館市側では、撤去を一歩譲って移設という話を持ち出したようで、とんでもない話になっているようである。

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 6月8日、さわやかな初夏の風が心地よい晴れた日に、五稜郭の藤棚観賞会が保存会の呼びかけで催され、僕も参加させてもらった。

 60名くらいの函館市民が五稜郭の「一の橋」付近に集合し、代表の挨拶がはじまり、さっそく五稜郭の顔である藤棚へ向かった。

 日本で最初の地域FMローカル局「FMいるか」と、地元ケーブルテレビ「NCV」が帯同した。

 二の橋を渡り、藤棚に到着するが、ピークが過ぎているため、少し寂しい光景ではあったが、やはり五稜郭の顔であることに間違いはなかった。

 藤棚を見上げる参加者の優しい顔を見ながら、こうした光景がいつまでも続いて欲しいと願ったことは言うまでもない。

 その後の18日、代表は函館市長に対して保存の要望書と署名簿を提出し、存続を訴えた結果、その結論は秋に延びたようである。

 ただ、結論が延びたとはいえ、撤去あるいは移設という言葉が消えたわけではないので、それまでの間は、五稜郭を愛する函館市民として何かできることがあればと、僕も微力ながらお手伝いしたいと決意した。

 こうして、僕のサイトのエッセイに書いているのをはじめ、少ない人脈をたどって僕なりに説明をし、藤棚の保存へ少しでもお役に立ちたいと思っている。

 『来年もあの藤が見られるように』

 その言葉が保存会はもとより、五稜郭を愛する函館市民の願いなのである。





今はない園内茶屋

この老松も・・・

見事な藤棚

五稜郭の顔です