ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

 熊本にある慈恵病院が、親が何らかの事情で育てられなくなった乳児をあずかる「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」を設置したというニュースを見て、素直に賞賛する反面、ニッポンの将来の姿に益々の憂いを感じた。

 聞くところによれば、乳児をあずかるのはドイツの病院ではじまったようで、群馬にもあったという。

 戦後、故沢田美喜さんが「エリザベス・サンダース・ホーム」という孤児施設を私財を投じて設立し、日本人女性と占領軍兵士との間に生まれた孤児を立派に育て上げ、社会に送り出したことを、ふと思い出した。

 また、故宮城まり子さんも同様に「ねむの木学園」という孤児施設を、これもまた私財を投じて設立して、子供たちを立派に育て上げ、社会に送り出した。

 このお二人のお名前は、日本人であれば絶対に忘れてはならないし、それは当然の義務でもあると思う。

 今回、慈恵病院が「赤ちゃんポスト」を設置したことに対していつものように賛否両論が発生したが、悲しいかな、その一人目は病院側も予測しなかったであろう「乳児」ではない「3歳児」だった。

 この悲しい事実については、またマスコミの「餌食」となってしまったが、これに加えて、政府首脳もああでもないこうでもないとコメントしだしてきた。

 公共機関には「児童相談所」があり、普通の考えであれば、そこで相談をして、経済的事情などからどうしても育児ができないということであれば、「児童施設」にあずけたり、「里親」制度を利用することになるのであろうが、今回はそういった制度を利用しない特異なケースだった。

 だが、「極めて遺憾」とコメントする前に、一生懸命やっている児童相談所の職員には申し訳ないが、今までの対応ぶりからみて、ほんとうに児童のために機能が果たされているのであろうか疑問に思う。

 仮に機能が果たされているのであれば、3歳児をこうやって「置き去り」にするケースは防げたのではないかと、僕は思う。

 加えて、一部であろうと思うが、やはりマスコミのあり方もおかしくなってきているのではないだろうか。

 ニッポンとドイツとを比較した場合、多くの日本人はいわば「無宗教」であって、キリスト教精神が根底にあるドイツなどヨーロッパ諸国とは基本的に環境が違っている。

 そして、慈恵病院が「赤ちゃんポスト」を設置した理由を少なくともすべての日本人が理解していたのであろうか疑問に思う。

 また、設置しなければならなくなった社会の背景を、政府首脳は危機感をもって対処しなければならないと考えているのであろうか。

 マスコミは、そういう観点からも切り込んでいくべきではないだろうかと、僕は思う。

★★★★★

 置き去りにされた3歳児は、報道によれば、父親に新幹線で福岡から連れてこられ、その「赤ちゃんポスト」の前で、父親から『かくれんぼをしよう』と言われたようである。

 当たり前の話だが、どんな理由があるにせよ、この世に生まれてきた子供に罪はなく、その子供は親を選んで生まれてきたわけではない。

 生まれた子供の周囲の環境を作る、あるいは作ったのはその親である。

 思考能力が発達していない「乳児」であれば、仮にその「赤ちゃんポスト」へあずけられた場合、自分がどんな事情であずけられたのか、親がどんな人物だったのか知らないのは当然のこと。

 また、戸籍法とか遺棄罪とか、そういう難しい法律的なことを僕は詳しく知らないが、そういった法律的な問題をクリアしての病院側の受入れだったであろうと思う。

それにしても、この3歳児は、親の名前もどこから来たのかも全部知っていたものの、まさか「捨てられた」とは今でも思っていないだろう。

 3歳児の記憶は、障害がない限り「乳児」よりも確実であるということを、「捨てた」父親も十分認識しているはずである。だから、『かくれんぼをしよう』と嘘をついたのだろうと思う。

 この3歳児に対して表現が悪く気の毒だが、誰もが思っている事実として、キミは、要するに親に「捨てられた」のだ。

それにしても悲しい出来事だ。

 また、父親もどのような事情で「我が子」を捨てたのかわからないが、第三者的に見ても、僕はその父親の顔を一発ぶん殴りたいほど許せない気持ちだ。

 「捨てられた」という事実を、その3歳児がわかったときのことを考えた末の行動だったとは到底思えないので、おそらくは発作的な行動だったのであろう。

 「事実は小説よりも奇なり」である。

 この場合、何故、母親でなく父親なのだろうといった疑問がすぐ湧いた。

 仮に「腹をいためた」母親の知らないうちに父親が捨てにきたのであれば、この報道を知った母親はすぐに名乗り出てくるであろうが、出てこないということは、離婚か別居、あるいは死別して父親が引き取って養育していたとしか考えられない。

 おそらくは、この父親が自ら名乗り出てくる可能性は低いと思うが、警察はこの3歳児から話を聞いて、暮らしていた場所と父親を間違いなく特定して、その父親から事情を聞くことになると、僕は思う。

 それにしても、3歳児の母親はどうしているのだろう。

★★★★★

 さて、「赤ちゃんポスト」の話に戻ろう。

 突き放すようなものの言い方かもしれないが、どんな理由があるにせよ親が育児できないのであれば、最初から造らなければいいだろうというのが一般的な考え方だと思う。

 だが、若者の間で「できちゃった婚」が多いという現実を直視すれば、この考え方はすでに風化しているのかもしれない。

 それと、親が、子供が欲しくない関係やできてはまずい事情があるのであれば、それならばちゃんとした避妊知識のもとに「実行」すべきだと思うが、あとさきのことを考えない「勢い」でそうなってしまった結果が多いのではないだろうか。

 だから、こころから欲しいと願って「できちゃった」わけではないだろうから、これも表現が悪いけど、「とりあえず産んだ」ということくらいしか頭にはないのだろうと考えるが、とりあえず生まれてきた子供は誰がみてもかわいそうだ。

 生まれてきた子供に罪はない。

 キリスト教精神に基づいた「赤ちゃんポスト」の設置により、そういう事情で生まれた赤ちゃんが少しでも救われるであろうと、僕は歓迎する。

 だが、この「赤ちゃんポスト」を設置することにより、「捨て子」が助長されたり、黙認されたりするのではないかという反対の声があり、その危惧もたしかに否定はできない。

 この病院で育てられる天使たちは、やがては「児童施設」か「里親制度」の選択肢となるだろうが、匿名であずけた親が将来的に引き取りにくるケースはどのくらいの確率なのだろうか。

 その確率はごくわずかかもしれないが、その選択肢に僕は期待したいし、「ポストに入れられた」天使たちのために、育児が可能となったときは是非とも名乗りをあげて引き取りにきてほしいと、僕は願っている。

 こんな世の中だけど、天使たちの行方をそっと見守ってあげようではないか。