たしかなことなど何もなく
ただ ひたすらに君が好き
夢はまぶしく 木漏れ陽透かす
少女の黒髪 もどかしく
君の欲しいものは何ですか
君の欲しいものは何ですか
「流 星」
僕は、やっぱり、どうしようもなく、拓郎世代なんだなと、つくづくそう思った。
今年1月に発売された彼のベストアルバムを聴いていたら、身体中に染みついている「拓郎節」が自然とよみがえってきて、遠く忘れ去られた光景がぼんやりとかすんで見えてきた。
特に、「流星」「たえこ MY LOVE」「外は白い雪の夜」は、誰が何と言おうが僕の青春がぎっしり詰め込まれている大切な曲だから、色鮮やかによみがえってくる。
人にはいつまで経っても忘れられない曲があると言う。
その曲をふとしたことで耳にしたとき、あの日が鮮烈に思い出されてくるのかもしれない。
それが良い思い出だったなら「にこっ」と微笑むことができるのだろうが、そうでない場合はひどく落ち込んでしまうか、あるいは苦い思い出としてなつかしむのかもしれない。
でも、誰かが言っていたっけ。苦い思い出は思い出として残っていないと。
拓郎とは結局10年くらいつきあったわけで、僕からすれば「青春を共にした」ということになるのだろう。それだけに思い出多い曲ばかり。
★★★★★
僕が拓郎に「のめり込んだ」のは、人並みより遅いと思われるメジャー・レコードのCBSソニーへ移籍後の1枚目アルバム「元気です」から。
が、実はそれ以前の彼がまだ無名時代のころ、僕は彼のコンサートへ足を運んだことがある。
それは、1970年ころと記憶しているが、当時の僕は中学生で、函館市民会館の落成記念行事の「パイオニア・ステレオ・コンサート」という催し物があり、第1部は1台1,000万円もするというスピーカーでの音楽鑑賞、第2部が「よしだたくろうオンステージ」だった。もちろん無料。
ステージがどんなふうだったかの記憶がほとんどなく、ただ、ステージ中央で、椅子に腰掛けたスタイル、フォーク・ギターとハーモニカを巧みに操る長髪の青年ということしか頭に残っていないし、座った観客席も後方だったので、顔は全く拝めかった。
僕にしてみれば、1台1,000万円のスピーカーがどんなものかを聴きたかったわけで、拓郎に対する興味は全然なかったのが本音であり、当然のごとく、何を歌ったのかの記憶すら何も残っていない。
CBSソニー移籍後の2枚目の「伽草子」は、個人的には安定感があって、内容が充実した素敵なアルバムだと思っているし、3枚目の「ライブ‘73」は傑作中の傑作だと思う。
4枚目は「今はまだ人生を語らず」という落ち着きのあるアルバムで、このアルバムを最後にCBSソニーから離れ、小室等、井上陽水、泉谷しげると設立した「フォーライフレコード」から「明日に向かって走れ」という傑作アルバムを送り出す。
そして、集大成的な完成度の高いアルバム「ローリング30」と続くわけだが、このころが彼のピークだったであろうと思われる。
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拓郎の個性が前面に出されていると言えば、やはりCBSソニーへ移籍する前に所属していたエレック・レコード時代に発表された曲だと思う。
デビューのころは、ボブ・ディランのコピーに近い曲作りで、「青春の詩」や「イメージの詩」などは「弾き語りフォーク」の典型という感じがする。
マイナー時代での傑作は数あると思うが、拓郎節が存分に発揮された一番の傑作は「静」だと僕は思っている。
そんな彼の存在が「全国区」となったきっかけは、もちろん「結婚しようよ」(ジョン・デンバーの「故郷へ帰りたい」のパクリと言われているが)という古典的名曲であるが、むしろ僕は中津川フォーク・ジャンボリーで熱唱し、絶大の人気を集めた「人間なんて」が彼の分岐点だったのではないかと思う。
拓郎は、ライブでその魅力が如何なく発揮されるシンガーだと思う。
また、バックの面々もユーミンのダンナである松任谷正隆をはじめとした超有名なミュージシャンで構成されているので、その演奏も聴き応えがあるものばかりだし、曲と曲との間の拓郎のトークもファンの間では絶賛されている。
残念ながら彼のツアーを生で観たことがないので、今はともかく、全国の多くのファンは当時は「ライブ‘73」や「TAKURO TOUR’79」のアルバムに針をおろしてその姿を想像するしかなかった。
彼のライブ映像は、その後、NHKでたまに放送されていたことがあったものの、接する機会はほとんど皆無に等しかった。
世の中、便利になったというべきなのか、現在ではDVDでもスカパーでもライブ映像が観られるので、格段の進歩ということになるのだろう。
その拓郎も、そろそろ60歳になるのではないだろうか。
若かりしころの、あのバイタリティは無くなってしまったのかもしれないが、いつまでも「万年青年」でいてほしいと思うし、60歳という年齢を感じさせないようなライブを中心とした音楽活動を継続していただきたいと願っている。
拓郎の名前を聞くたびに、いつもオーバーラップする画像がある。
それは、「TAKURO TOUR‘79」のアルバムに記された録音ライブ地「愛知県篠島」での1枚のスナップ写真。
おそらくハイティーンであろうTシャツ姿の若い女性が、祈るような気持ちでステージを見上げている写真。
拓郎ファンのすべての想いがその1枚に凝縮されているような気がして、僕は涙がでるくらい感動した。
そして、その写真を見るたびに、僕は、拓郎信者の「まりこ」をオーバーラップさせて、無茶をしていたあのころを思い出す。
キミは、とうとうしあわせになれなかったけど、今でもいっしょうけんめいに生きているよね。
また、一緒に夜が明けるまで、拓郎を歌いたいね、まりこ。
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拓郎の曲には、若者特有のやさしさが潜んでいると思う。
友情、恋愛、そして自己を見つめる姿と、それらに付随した避けては通れない感動と蹉跌の数々を、独特の拓郎節にまとめて見事に歌い上げていると僕は思う。
それは、井上陽水やかぐや姫の曲にも共通していることだと思うし、それがそれぞれの「節」で表現されていると思うから、あとはそれを支持するかどうかの好みだと、僕は思う。
ただ、全盛時のファンは、僕を含めて拓郎以外のシンガーを認めない、聴かないという悪い姿勢があったことは間違いないと思う。
このことは、1975年に静岡県掛川市で開催された「つま恋ライブ」でのエピソードが伝説となっている。
つまり、当時無名だった長渕剛が前座でステージに登場したとき、拓郎ファンが帰れコールをしたという事実。
今思えば、拓郎がわがままだったように、ファンもわがままだったのだろう。
ただ、この「つま恋」は、野外ライブとしては大観客を集めた日本ポップス史上初めての出来事であったと言われているほど歴史的イベントだった。これがきっかけで、大観衆の野外ライブが続々と開催されたといわれている。
やっぱり、拓郎はお祭り男なんだなあと思う。
大事な話が キミにあるんだ
本など読まずに 今聞いてくれ
ボクたち 何年つきあったろうか
最初に出逢った場所もここだね
勘のするどいキミだから
何を話すか わかっているね
傷つけあって生きるより
なぐさめあって 別れよう
だから Bye−bye Love
外は白い雪の夜
あなたが電話で この店の名を
教えたときから わかっていたの
今夜で 別れと知っていながら
シャワーを浴びたの 哀しいでしょう
サヨナラの文字をつくるのに
煙草 何本並べればいい
せめて 最後の一本を
あなた吸うまで 居させてね
だけど Bye−bye Love
外は白い雪の夜
客さえまばらなテーブルの椅子
昔はあんなに にぎわったのに
ボクたち知らない人から見れば
仲のいい恋人みたいじゃないか
女はいつでも ふた通りさ
男をしばる強い女と
男にすがる弱虫と
キミは両方だったよね
だけど Bye−bye Love
外は白い雪の夜
あなたの瞳に私が映る
涙で汚れてひどい顔でしょう
最後の最後の化粧をするから
わたしを綺麗な想い出にして
席を立つのは あなたから
後ろ姿を見たいから
いつも あなたの影を踏み
歩いたクセが治らない
だけど Bye−bye Love
外は白い雪の夜
「外は白い雪の夜」