ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

 転勤が決まって、北の果て稚内へ到着し、3階のベランダから街並みと小高い丘に立つ校舎が見えたとき、ひどく落ち込んだ。

 わずか3階からの眺めをさえぎるような建物もなく、街並みがほぼ見渡せるということに軽い失望感を覚えたからだ。

ユーミンの「昨晩お会いしましょう」というアルバムジャケットがそのとき思い浮かび、アイスランドの寒空と荒れた土地に建つ家の寂しいその風景とが交差した。

 そして、季節が秋になると、その小高い丘の校舎風景はだんだんとユーミンのアルバムジャケットのような寂しさに近づいていた。特に、朝陽を浴びた黄金色のときはなおさらだった。

 別に、稚内のマチが寂しいというわけではなくて、多分、家族と離れて独りで眺めることに寂しさを、徐々に覚えていたためであろうが。

 これが、例えば恋人同士で肩に手をのせて眺めながら、『きれいな朝焼けだね。』とか、おそらくそういった会話になるのだろう。モーニングコーヒー付きで。

 しかし、人間が眺める風景の印象というものは、そのときの感情に左右されるものなのだろうか。

 
答えは、『ビミョーにイエス』だと僕は思う。

 そこへ行ってその風景を眺めてみたいという強い願望があって直に眺めてみる場合と、そういう願望がない場合とでは目に映る景色は全く違うものになるだろうし、うれしい気持ちを持ちつつ眺める場合と、悲しい気持ちに浸って眺める場合とでも全く違うだろうと思う。

 でも、例えば悲しいときやうれしいときに眺めるそのときの風景によってその人の気持ちが徐々に変化して、ますます悲しくなったり、あるいはうれしくなったりするような、つまり、人のそのときの感情を助長するような風景こそがいつまでもこころに残るものになっていくのではないだろうか。

 『別れたときに、涙の向こうに見えた空を、真っ赤に染めた夕焼けがいつまでもこころに残っている。』

 『あなたと最初に出会ったときの、あの海の青さがいまでも忘れることができない。』

 風景によって勇気づけられたり、自信がよみがえったり、そういう自分だけの風景を持っていることができれば、その人生もまた変わっていくのかもしれない。

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 先日、「湘南マリリン」さんと電話したときのこと。

 『貴女の長崎の写真を見たけど、すごくきれいに撮れてたよ。さすがだね。』

 『ありがと。ほんとはね、グラバー邸とかまだまだ観るところがあったんだけど、時間がなくてさあ、この次だね。』

 『でもさ、こんなこと言うのもなんだけど、このごろ、建築物とか人工的なものに、なんだか興味が全然湧かなくなってきたんだ。ここに住んでから、手付かずの自然っていうのかなあ、礼文とかサロベツとか、そういうものにすごく感動するようになって。今度の転勤でここを出て行くときのことを考えると、どうしようかと思うようになってきたんだよねえ。』

 『う〜ん、その気持ち、わかるような気がする。そこは景色とかお花とか、手付かずのものばっかりだからね。私は富士山が好きだから、貴方の写真を見てて、いいなあと思うもの。特に利尻富士なんか、すごい素敵だよね。』

 『いやあ、貴女の富士山はいつ見ても上手に撮れているし、富士山が好きだっていう気持ちが写真から伝わってくるよ。』

 そんな会話をしているうちに、僕は今年撮影したさいはてを題材にした写真たちを振り返ってみたいという衝動にかられた。

 MOに落としたその写真たちを画面で眺めていくうちに、それらを写したときの360度広角なパノラマ風景を回想していた。

 ありのままの自然が、どれほど僕に感動を与えるものなのだろうかと思いつつ、訪れたさいはての自然は、やはり期待を裏切らなかったことにただ感謝している。ありがとう。

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 感動を与える風景って、どんなものなのだろうか。

 ネットでお友だちリストに僕を加えていただいたfuuさんは、誰よりも海が好きな女性で、海が好きな人には悪い人はいないと信じているから、こういう方に僕はついあこがれてしまう。

 自然界は、巡る四季と24時間、そしてそのときの天候・風速など、さまざまな条件が入り組んでいる日々の連続なので、僕らは海に限らずいろんな風景を同じ条件で二度と眺めることはできないのだろうと思う。

 つまり、1年365日なのだから、365回の変わった風景を眺めることができるということになるのだろうが、その1年365日に出会った数々の風景のなかで、いったいどれだけの数がこころに残る風景として記憶されるのだろう。

 そんなたわいのないことを机上で考える僕は、彼女が海と対話できることに少しばかりのジェラシーを抱いてしまう。

海と対話して、海をいつまでも眺めているのが好きな彼女には、1年365日、どれも同じに見えるのかもしれない。

だから、僕が思うには、彼女が海に会いたくて対話したくて浜辺へ向かったとき、そこに拡がる海は、おそらくはいつも同じように彼女の瞳に映るのだろう。

そういう人に、僕はジェラシーを覚える。

感動を与える風景というよりは、感動を受ける風景と表現したほうがいいのだろうか。

彼女が写す海の風景には、やさしさがある。

やさしさがある風景だから、それを眺める僕は癒されるのだろう。

そしてそれは、海と彼女とが会話することによって、お互いに癒しあうことができるからではないだろうか。

じゅうたんのようなマリンブルーが、まるで恋人のように彼女へ接してくるイメージは、彼女特有の被写体として映像化されているのかもしれない。

残念ながら、今の僕にはその感性を持ち合わせていない。