ひとりおもふ
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シルエット・ロマンス

 ケータイ電話やインターネットが普及して、その世界にのめりこんでしまってから、そういえば手紙を書いたことがない。

 最後に書いたのはいつで、それは誰あてに出したのかも記憶にない。

 「ふみの日」という日があったが、それはどこへ行ってしまったのだろうか。

 文字自体もあまり書くことがなくなり、メールにしろ文書にしろほとんどが「文字を打つ」という表現に変わった。

 日常生活においては、メモをとるときに漢字が思い出せないことが多くなった。要するに「度忘れ」というものである。加えて、長文を書き出すと、腕や肘が痛くなったりする。パソコンが普及するまでは全然苦にならなかったのに、全く困ったもんだと嘆いてみる。

日本人は手先が器用であるという言葉は、このままでいけば死語になるかもしれないし、手先までもが欧米並みになってしまいそうな懸念も生じているのではないだろうか。

 さて、手紙を書かなくなったという傾向は、おそらく僕だけではないと思う。郵便局での50円はがきや80円切手の扱いは、かなり減少しているのではないかとも推測されるが、実態はどうなのだろうか。興味がつきない。

 メール形式で送信されてくるものは、現在の想いを書き綴ったものが多いと思う反面、その文章自体がどこまで「砕けているかどうか」も気になる。

 敬語の使用に障害が生じていること、「ため口」が多くなっていること、などなどの苦言が表面化しだしてきたのは、おそらくケータイ電話の普及に因果関係があるかもしれないと僕は思う。

 パソコンでもケータイでもメールに絵文字がよく使用されているが、はっきり言って、僕はなじめない。

絵文字は微妙な心理状態の表現方法であるものの、やはりちゃんとした言葉で伝えなくてはならないのではないかと思うし、本音としては「日本語を粗末にするな」と、怒り爆発寸前な僕の姿がそこにあるような気がする。

 日本語の微妙なニュアンスを駆使して、世界中でも難解な言語である日本語を楽しもうではないかと、僕は叫びたい。

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 「手紙」といえば、僕の世代は、由紀さおりが歌った「手紙」か、あるいはもうすこしさかのぼってフォークの神様と呼ばれた岡林信康の「手紙」を思い出す。他には、メロディは素敵だけど、詩の内容がよくわからない平尾正晃の「カナダからの手紙」・・・別にカナダからでなくてもいいんでないかいと、単なる語呂合わせかもしれないが。

 『死んでも貴方と暮らしていたいと 今日まで努めたこの私だけど』

 由紀さおりの「手紙」は、出だしからすごく良い歌詞だと思ったし、流れるようなメロディも好きな理由のひとつ。

 『涙でつづり終えたお別れの手紙』

 余談だが、由紀さおりは、今、お姉さんとデュオで童謡を中心したコンサート活動をしているけど、容姿が「夜明けのスキャット」でデビューしたころと全然変わっていないような気がする。

 ちなみに、彼女は函館市内の高級住宅街に居を構え、仕事先へ飛行機で向かうということらしい。

 問題は後者のほうの「手紙」。

 岡林信康が支持された当時は、学生運動などの世相が背景にあった。

 いわゆるフォークゲリラや反戦フォークというものだが、「友よ」はその代表曲で、50代・60代で知らない人はおそらくいないだろう。

 『部落に生まれたそのことのどこが悪い 何が違う』

 この「手紙」という曲の詩は、部落差別で恋人と別離を余儀なくされ、自殺した女性の「遺書」だという説がある。であれば、なおさらこのフレーズが胸を打つ。

 僕が住む北海道にはこうした現実がないものの、「自衛隊違憲問題」と並んで、高校時代に政治経済の教師から詳しく教わった記憶があるので、かなり詳しい知識が頭に刻み込まれている。

 『お父さんの考え方は「ピンク」だからね。』

 女房殿から、結婚したころにいつもそう言われていた。

 でも、僕は今でも「ピンク」だと思っていない。当たり前の考え方ができるかどうかを勉強しただけのことであって、その結果、詳しいということだけなのだと思う。

 「差別」はいじめの原因であり、相手に対する思いやりの心やいたわる言葉、そして相手の痛みを理解しようとする気持ちがない限り、いじめは永遠に続くと思う。

 「差別」を形成してきた日本の歴史を今さら否定するわけではないが、ほぼ無宗教に近い日本という国が根底から崩壊しないように、子供たちに対して善悪の行為や言動の判別をちゃんと教えていくことが我々大人の義務ではないかと思う。

 それは、義務教育の学校側だけに押し付けるものではなく、自分たち親も姿勢を正して家庭教育を履行すべきことだとも思う。子供は親の後姿を見て育っているのだから。

 余談になるが、僕は彼の歌では「チューリップのアップリケ」が一番好きだし、他には「山谷ブルース」や「自由への長い旅」もあった。・・・なつかしい。

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 まさか、「手紙」という言葉がこの世から消滅することはないだろうが、死語になるのではないかといった危機感はあると思いつつ、むしろ、これからは「メール」という言葉が大きなカテゴリーとなって、「手紙」はそれに吸収されるかたちになるのだろうかとも想像している。

 また、「メール」は「Mail」、直訳では「郵便物」であるので、手紙も直接手渡ししないものでなければ「郵便物」扱いとなるので、そんなに考え込むことではないか。

 でも、いくらなんでも「置き手紙」という言葉は残しておきたい。

 机のうえにあるパソコン画面に、「置手紙」の言葉は、それはないだろう。

 ケータイ画面に、「お世話になりました」「さようなら」の言葉は、それもないだろう。

 「さようなら」と言えば、テレビドラマ「ドクターコトー診療所」で、僕が年甲斐もなく熱を上げている石田ゆり子様が演じられる女医がいつも言葉にしたくないと言っていたっけ。

 僕も同感で、そんなときには、「それじゃあ、またね。」とか「おやすみ」とかの言葉を使ったりしている。

 さて、そろそろまとめに入ろう。

 手紙は、言葉で伝えられない、あるいは面と向かって伝えることができないことを文章化したものだと思う反面、単に言葉を並べるだけの文章ではなく、読み手側に書き手の意図が正確に伝わることが必要であるし、文章を読んで、書き手が何を言おうとしているのかを想像できることも必要であると思う。

 仮に「メール」がその代役を立派に果たすことができるとした場合の条件は、そのことがしっかりと履行されているかどうかのことだけであろう。

「メール」が口語に近い分、貧弱な表現に陥らぬように文章表現をもっと磨いてほしいと思っている。

世界に誇れる日本語をもっと大切にしようよ。