黄昏どき、白いデッキチェアーに横たわり、冷えた缶ビールで喉を潤しながら、サングラスの向こうで確認する青い水平線・・・さいはての浜辺では、それはちょっと厳しいかもしれない。
亜寒帯気候の北緯45度では、この季節にそういうイメージはなじまない。
それでも、気分だけトロピカルにと、アントニオ・カルロス・ジョビンの名曲「WAVE」を耳にしていれば、ちょっとだけサマになりそう。
大胆なカットの水着をまとったブラジリアン・ガールズが背後から歩いてきて、サングラスの向こうに見える青い水平線をさえぎっていくような「まぼろし」を感じる。それもボサノバのリズムに合わせたステップを踏みながら。
ボサノバの名曲を聴きながら僕がイメージするのは、およそこのようなシーンである。
僕がボサノバを本格的に聴きだしたのは、今から3年前の初夏のこと。
ボサノバを含めたラテン系のリズムはもともと好きなのだが、僕がラテン系を好むということは、古くは戦後の「ハワイアン」やフロアダンス用の「ラテン・ミュージック」が日本人の好きなジャンルであったように歴史的な背景も要因のひとつであると思う。
たしかに、マンボやルンバからタンゴにいたるまでのラテン・ミュージックは、歌謡曲の題名に使用されるほど日本ではなじみがあり、そのなかでも、夏が終わりかけるころのけだるい黄昏どきは、リオデジャネイロの白い砂浜にお似合いのボサノバが一番似合っている。
ブラジルと言えばサンバであるが、これはイコール「リオのカーニバル」を連想させるように、お尻にデカイ羽根がついたギンギラギンのコスチュームをまとったナイスバディの褐色女性が小刻みなステップを刻むイメージがあるので、50代としてはちょっとついていけない部分がある。・・・同年代の俳優竹中直人は別だろうが。
ジョビンの「WAVE」には「けだるさ」というか、暑い夏が過ぎたあとの疲労感と安堵感とが重なったような空気を感じる。
だから、例えばセルジオ・メンデスの名曲「マシュケナダ」のようにはっきりとステップを刻むのではなく、メロディが今にも溶け出しそうにドロッとしていて、それがおぼろげに聴こえてくるのである。
それは、アストラット・ジルベルトの「おいしい水」にも共通していて、その「けだるさ」をフレンチ・ポップスのフランソワーズ・アルディは、1970年代前半に発表したアルバム「私の詩集」で、「アンニュイ=退廃的」として確立している。
冒頭で、「冷えた缶ビール」と表現したが、女性であればカクテルグラスでもかまわない。
で、何故、「黄昏どき」なのだろうか。
それは、おそらく、日中のギラギラした暑い日差しが容赦なく降り注いだ後の浜辺の、その焦点の定まらないボワーっとした感じがジョビンのボサノバにあっていると思うから。
だから、稚内にいても気分的にボサノバを聴いてみたいと思うときがあるものの、ボサノバに対する僕のイメージがこういった感じなので、現在のところ本腰を入れて聴く気にはなれない。
さいはてにジャズが合うとすれば、晩秋のサロベツ原野を眺めるときに聴こえてきそうなナベサダ(渡辺貞夫)の名曲「マイ・ディア・ライフ」か・・・。
このときはすでにもう冬支度だから、やっぱり、熱燗か・・・。