トップ 随想トップ
ひとりおもふ
宇宙の法則
 
 
クリスマスがまたやってくる。ということは、また1つトシをとることになるのか。

 
誕生日が12月22日なので、子供のころは誕生ケーキとクリスマスケーキが「兼用」された。だから、いつも24日が誕生日ケーキへの入刃日だったし、年齢分のロウソクの隣にはいつもサンタさんのかたちをしたロウソクがのっかっていた。

 
22日は「冬至」なので、いつも「かぼちゃ入りおしるこ」で済まされた。そういう誕生日環境の理由から嫌いなわけではないが、僕は今でもかぼちゃとおしるこを好んで食べないし、「単体」のクリスマスケーキをカタログから選ぶ我が娘と女房殿がすごくうらやましかった。

 さて、クリスマスにデコレーションケーキを食べる慣習は、日本ではいつから始まったのだろうか。キリスト教のフランスやイギリスなどではデコレーションタイプでないケーキやプリンを食べる慣習はあると聞いているが、どちらかと言うと仏教国の日本ではクリスマスは別に関係ないセレモニーのような気もする。

 
クリスマスケーキもバレンタインチョコと同じで、ケーキメーカーの戦略だったのだろうか。

 
それから、クリスマスツリーって、いつから飾るようになったのだろう。

 
我が家の一人娘が進学のため家を出た今年のクリスマスは、女房も娘と暮らしているので、結局は僕一人。18年間もずっと飾っていたツリーを、さてどうしようかと考えているが、やっぱり飾ることにしよう。

 
クリスマスツリーにとどまらず、これに輪をかけたような「家の電飾化」が流行しているが、電飾している当事者はまだしも、近隣の家から「明るくて落ち着かない」などの苦情は出てこないのだろうか。

 
個人的な考えであるが、家を電飾化した当事者が、12月の寒い夜にわざわざ外へ出てそれを眺めたりするのであろうが、そうまでして一体何がいいのだろうかと疑問に思ってしまう。

 
はっきり言えば、その当事者に対して、

 
「あなたは何故、家を電飾化しているのですか。」

と、質問してみたい。どういう答えが返ってくるか想像もつかないが、おそらくはこういう模範解答がなされる可能性がある。

 
「世の中、暗くせちがらくなっているんで、それを払拭するために、せめてウチだけでも明るくしようと、それで電飾しているんです。通りかかる皆さんがこの電飾を見て、癒されるといいですね。」

 
おいおい、そういう主旨で電飾用の電気料を支払うくらいなら、その電気料と電飾費用を歳末助け合いに寄付していただいたほうがより現実的で、そのほうがずっといいような気がするんだけど。そのわずかな金額でも、生き延びられる人たちがいるということをわかってほしい気もするが、こういった考えって逆に夢がないって言われそうかなあ。

 
我が家の娘は中学から高校までの6年間、キリスト教系の私立女子校へ通っていたため、クリスマス時期になると親が「クリスマスキャロルの夕べ」とかいろんな行事に出席しなければならないことが多かったし、彼女たち自身も学校単位で聖歌隊として、老人ホームや病院などの施設へ慰問して合唱したりと、冬休み前は結構忙しかったようである。

 
特に中学の3年間は「ハンドベル部」に所属していたので、クリスマスには西部地区の「金森倉庫群」や「JR函館駅」、しまいにはNHKに生出演したりと、「かけもち」状態の超多忙を極めていた。

 
これは、キリスト教系である同校の校訓「信仰、犠牲、奉仕」そのままだった。

 
クリスマス・ソングは、「赤鼻のトナカイ」「サンタが街にやってくる」からビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」までがポピュラーであるが、最近では、山下達郎の「クリスマス・イブ」やワムの「ラスト・クリスマス」などが街中に流れているが、僕はジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」が好きである。クリスマス・ソングはやはり子供の声が聞こえるものがいいと思う。

 
さて、クリスマスにはサンタクロースという主役がいて、サンタさんからクリスマスプレゼントが渡される慣習もある。親が子供にプレゼントするのは理解できるが、何故、親や身内にまでプレゼントするということに発展したのだろう。これもデパート側の戦略だったのだろうか。

 
宗教的な儀式を商売に利用するということは、ひと昔であれば「バチが当たる」と、おばあちゃんから言われそうな気がするものの、家族がそれで瞬間的に「ひとつ」になれるのであれば、それはそれでいいことではないだろうかと思う。

 
しかし、僕個人としては、クリスマスと正月とがあまりにも隣接しすぎていることが残念だといつも思っている。せめて半月くらい離れていればいいのにと、昔から思っていた。

 
師走だけに、あわただしく時間が過ぎていく時期であるため、せめてもの願いとして、今の日本であまりにもメジャーとなってしまった両者をゆっくりと余韻をかみしめながら消化したいと思っているのだが、「暦」のうえではこればかりは無理な話しか。

 
でも、日本人の多くは、クリスマスにはプレゼントを贈ったり、ケーキを食べたり、あるいはパーティを開いたりと、お祭り感覚で過ごす一方で、キリスト教徒は、賛美歌を詠唱し、静かに祈りを捧げている。

 
日本の「聖夜」って、このスタイルでしばらくは続くんだろうなあ。