ひとりおもふ
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幻の「キラク」

  「全然、魅力のないマチだよ、ここ(稚内)は。」

 「へえ〜、どうしてさ、なんかあったの。」

 「行きつけの店も2回くらい足を運べば、話題がもうないんだよ。『うわべ』だけだよ。まったく、ガッカリした。」

 ほとんど毎晩のように居酒屋やスナックめぐりをしている知人が、2ケ月目にして吐いた本音。

 最初のうちはおもしろいと思ったそうだが、話題がなくなると、手のひらを返したように『よそもの』扱いとなるそうだ。

 「根室ではそんなことなかったのにさ。急によそよそしくなって、ここの気質(かたぎ)が理解できないね。いや、理解しようとも思わないけど。」

 「よくわからないけど、人を見るのかなあ。僕も1年になるけど、こちらから話しかけないかぎり、その仲間たちの会話に入っていけないし、変に警戒しているような感じがするんだよね。『すみません、話の中に入れてください。』って自己アピールしないとだめなのかなあ。ここの人たちは、自らすすんで『かまって』くれないんだよね。」

 『新しもの好きで、すぐ覚めやすく、おせっかいなほど世話好きで、困っている人をみかけると放っておけない』

 函館人の気質である。

 全国チェーンの新しい店が進出してくると長蛇の列となるが、それも1ケ月程度。そして、道でウロウロしながらこまっている人がいると、『どうしたんですか?』とつい尋ねてしまい、道に迷っていたことがわかれば、ややもすれば目的の場所まで送ってしまう。

 僕は典型的な函館人だと思っているので、それが当たり前だと思っている。

 『都会の暮らしに疲れたら、いつでもリフレッシュしに、このマチに来てください。このマチは、きっとあなたをあたたかく迎えてくれますよ。』

 北洋漁業の母港として明治時代からその座に君臨してきた函館は、200カイリなどの影響で、1970年代後半以降、『水産都市』から『観光都市』へ見事に脱皮を図った。

 その『観光都市』であるという新しい認識がさきほどの『癒し』のフレーズなのだと思う。

 函館は、北海道では歴史のある由緒あるマチとして住んでいる人たちも自覚しているからそうなのかもしれないけど、でも、それだけではないと思う。

 例えば、元町にある『旧函館区公会堂』などの歴史的建築物は、明治時代の豪商の寄付によってできた建築物だと言われている。私財を投げ打つほど自分のマチに誇りを持っておられたのだろう。

 その気質を受け継いだかたちで、函館が生んだ『GLAY』は機会あるごとに函館の広告塔として全国に函館をPRしてくれる。

 自分の生まれ育ったマチを誇りに思っているから、訪れる人たちに対して、優しいもてなしができるのだと僕は思っている。それが『癒し』となっているのではないだろうか。

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 人口約30万人で歴史のある函館と約4万2千人のさいはての稚内を比較すること自体ナンセンスなのかもしれないが、でも環境や慣習がどんなに異なっていても人間は基本的には同じであると思うし、問題は『こころの持ちよう』だと思う。

 訪れる人たちを『よそもの』として位置づけることについて、なんら異論を唱えるつもりはないものの、問題はその『よそもの』たちを積極的に受け入れるかどうかという地元の人々の姿勢だと思う。

僕らのような転勤族である『よそもの』に対する地元の人々からの『疎外感』は、『ない』と言えば嘘になる。

どこのマチでもそう感じることであることは言うまでもなく、中味は千差万別であろうが、特にこのマチでは『よそもの』は少なくとも歓迎はされていないだろうと肌で感じることが多い。

別に歓迎してくれと願っているわけではないが、まるで『触らぬ神に祟りなし』の状態は、ちょっとカンベンしてくれよといいたくなる。

『排他的』なのか『警戒心』が強いのか、いずれにしても『よそもの』には冷たいことは事実だと思う。このことは転勤族の誰もが強烈なこのマチの印象として受けとめているのではないだろうか。

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 今でも放送しているNHKの番組で、「鶴瓶の家族に乾杯」というバラエティがある。

 こちらに来てからは観たことはないが、函館にいたときは良く観ていた。

 鶴瓶とゲストが見知らぬ田舎町へアポなしで訪れ、地元の人たちとお話をしたりして仲良くなるという内容である。

 その番組を見ていて、ふと気がついたことがあった。
 毎回変わる訪問町村によって、地元の人たちの対応が違うのである。

 具体的に言えば、鶴瓶やゲストを家の中に入れるかどうかということと、仮に入れても、居間まで通すかどうかということである。

 ある町では、庭先で話をした。

 ある町では、玄関ドア前で話をした。

 ある町では、玄関に入れて玄関口で話をした。

 ある町では、居間へ通して座らせ、お茶を出して話をした。

 ある町では、居間へ通して座らせ、ごはんを食べさせた。

 だいたいがこういうパターンだったと思うが、訪問してきたのは、いちおう名の通った芸能人であり、不審性はこれっぽっちもないのだから、居間に洗濯物を干してあったり、そのちらかし様を全国に放送されるのをいやがる家庭もあるだろうが、居間へ通してお茶を出すのが普通の礼儀ではないかと思った。

 俗に言う『門前払い』も結構あったと記憶するが、パターン的には訪問先すべてが『玄関ドア前』の町もあった。

 NHKではこういった分析をしたかどうかは不明であるが、町村によって対応ぶりが違うということもおもしろい現象だと社会勉強として受け止めた。

 こういったバラツキがあるそれぞれの町村の対応ぶりに、環境や慣習が見え隠れしているなあと感じたのは僕だけだろうか。

だから、稚内というこのマチの気質も日本全体からすればごく普通なのかなと考えてしまいそうだが、それでも、『さいはて』という言葉を売り物にしている人情的表現が形容詞となっているマチなのだから、せめて『よそもの』を受け入れてくれるような『温かみ』がほしい。

『よそもの』もあなたたち稚内っ子同様に、ここの厳しい冬を過ごしているのだし、この何の感動もない観光施設の『さいはて』を、利尻・礼文島やサロベツ原野のついでに訪れてくれる観光客らのためにも、『温かみ』をもっと前面に出して、そうして印象付けてほしい。

例えば、ノシャップ岬までの沿道脇を飾る色彩豊かな花が植えられたプランターが旅人をなごませてくれるように、物質的だけでなく内面からも『温かみ』が感じられるようなもてなしをと願っている。

こう願うのは、あなたたちには迷惑なことなのだろうか。