というデータとなっている。
また、繁忙期である夏時間のスケジュールは、
@ 稚内発10:00〜コルサコフ着17:30(15:30)一番気になる旅客運賃であるが、
@ 1等ラウンジ(椅子席)の往復:41,000円、片道:31,000円となっていて、子供(6歳以上12歳未満)は半額、6歳以下は無料である。
ちなみに2等施設は、カーペット敷きの「ざこ寝」タイプ。
ということは、利尻・礼文行きと同じタイプの船舶が使用されていることになるが、国際フェリーに使用される船舶は「鋼質強度」が全然違うらしいので、やっぱり違う「造り」ということになる。
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サハリンは、1809年に間宮林蔵が探検し、島であることを確認したが、日本読みの「樺太(からふと)」の語源は、現在のナホトカやウラジオストックがある「沿海州」が中国清朝の領土であり、住んでいた「唐人」からカラヒト=カラフト「唐太」となったとされている。
明治時代となって、「蝦夷」を「北海道」と改めたときに、「唐太」も「樺太」と改めたが、これは「白樺の木が多い」ということによると言われている。
また、サハリンの語源は、17世紀に中国(満州)語で「黒龍江(アムール川)」のことを「サハリャン(黒)」「ウラ(川)」と呼んでいたことから、ロシア人が訛って「サハリン」と呼ぶようになったと言われている。
歴史的事実に触れると・・・。
1600年代の中ごろに、帝政ロシアがアムール川下流域に進出したが、中国清朝の勢力に排除されたとのことである。
その後の1849年から1855年に、ロシア海軍のネベリスコイがタタール海峡とアムール川下流域を探検調査し、サハリンが島であることを確認し、ロシア領として支配し始めたため、日本との領有が争われた経緯があるが、ロシアがサハリンを発見したのは、間宮林蔵の発見から遅れること40年後ということになる。
1875年(明治8年)の千島・樺太交換条約により、ロシアは千島の北部と中部を日本へ引渡し、その代わりに南樺太を領有化したが、1905年(明治38年)の日露戦争後に、南樺太は日本が領有化するも、第二次世界大戦後の1945年には再びソ連が併合した。
なお、「サンフランシスコ講和条約」の調印により、日本は戦後復興を図ることとなったが、この条約にソ連は調印していないことから、南樺太は日本が同条約により放棄したものの、ソ連が大戦末期に占領したままの状態が今でも継続されているという「信託統治領」的見方もある。
さて、戦後は米ソの冷戦による影響からサハリンは「近くて遠い島」と呼ばれ、1983年には大韓航空機がサハリン沖で撃墜されるという痛ましいニュースもあったが、1989年のペレストロイカによるサハリンへの外国人立入禁止指定解除にはじまり、やけどの3歳児「コースチャ」の札幌医大での治療受け入れというステップと同時に、1991年にはソ連が崩壊してロシア政府が成立するという大転換期を迎えることとなった。
その後の歴史的事実は、次のとおり。
1991年 コルサコフ港を国際貿易港として対外開放
1994年 函館−ユジノサハリンスク間に定期航空路を開設
1995年 日ロ定期フェリーを開設(ロシア船籍のフェリーを使用)(1996年で終了)
1999年 東日本海フェリー梶uアインス宗谷」による日ロ定期フェリーを開設
2001年 ユジノサハリンスクに日本国総領事館を開設
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南サハリンが日本領土であったころに、サハリンは稚内と大泊(現コルサコフ)とを結ぶ「稚泊航路」で結ばれていた。「宗谷丸」3,593トン、旅客定員790名、最高速力17.06ノット
また、1938年(昭和13年)には、女優岡田嘉子と杉本良吉が、北緯50度のサハリン国境からソ連へ越境した「逃避行」はあまりにも有名な話である。
島国である日本が唯一持っていた国境を、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日に、ソ連軍が条約破棄のうえ一方的に侵攻し、不法占拠した。
8月15日に終戦となるが、ソ連軍との戦争は終結せず、同月20日には、真岡(現ホルムスク)で電話交換業務に従事していた17〜24歳の女性電話交換手が青酸カリで自決し9名が死亡するという痛ましい出来事もあり、22日にようやく停戦協定が成立する。
彼女たちを慰霊する碑が、晴れた日には、はるかサハリンを望むことができる「稚内公園」に建立されている。
『はるかサハリン』という言葉には、いろいろな想いを込めることができる。
終戦時に引き上げてきた人たちの望郷。
集団自決した人たちへの追悼。
米ソの冷戦時代は、「近くて遠い島」と表現されたが、今は「近くてやっぱり近い島」か「目の前にあるヨーロッパ」であろう。
国際定期フェリーを利用して、サハリンへ渡る日本人客の中には、夏休みには「バレエ短期留学」と称して、バレエを習う若い女性もいるし、バイクでツーリングを楽しむライダーから釣りを楽しむ太公望とバラエティである。
戦後60年を経過して、国際定期フェリーが就航する現在では、『はるかサハリン』という言葉は、もう、死語となったのであろうか。