礼拝説教  
マタイ135358「故郷ナザレでのイエス」    2021.1.24

 

 新しい1週間が始まりました。この日曜日に、教会に集まり、礼拝を守ることができますことを心から感謝したいと思います。この1週間もいろいろなことがあると思いますが、神に守られて過ごしていきたいと願います。

 

 いきなりですが、「うさぎおいし、かのやま~」と言うふるさとと言う童謡があります。私はデイサービスや高齢者施設で何度も歌ってきました。この歌には、私たち11人に、ふるさとを思い出させる力があります。

 

 今日の聖書の話は、イエス様が故郷のナザレに帰った時のものです。イエス様にとって、故郷ナザレと言うのはどのような思い出があったのでしょう。また、故郷に帰ると言うことは、イエス様自身にとって、どのような意味があったのでしょうか。ここで、イエス様はとても辛い経験をされるのです。イエス様は、このナザレで30才まで過ごされました。そして、宣教活動を始められるのです。最初の活動の拠点はガリラヤ地方でした。イエス様の宣教活動は、神の教えを語り、弟子を選び、数々の奇跡を行うことでした。イエス様の活動の様子を、故郷ナザレの人々は聞いて、ある程度知っていたのかもしれません。

 

 イエス様は、たとえ話を用いて、天の国について群衆に語り、その意味を弟子たちに教えました。その活動を終えると、そこを去り、故郷ナザレに帰って行かれました。安息日になり、人々は会堂に集まってきます。そこで、イエス様は会堂で教え始められたのです。ナザレの人々は、イエス様が語るその内容に驚き、次のように言います。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」と。このようにして、ナザレの人々は、イエス様に対してつまずいたとなっています。

 

 故郷ナザレの人々にとって、イエス様のことは30年間、一緒に生活していましたので、すべてのことが分かっていたのです。父ヨセフは大工であり、若くして亡くなったのでしょう。ここには父ヨセフの名前が出てこないからです。イエス様は長男として、母のマリアを助け、兄弟たち、姉妹たちを、養っていたのでしょう。大工として働きながらです。イエス様には、4人の兄弟がいたことが分かります。2人以上の姉妹たちがいたことが分かります。8人以上の家族でした。それが、突然、ナザレからいなくなり、新しい活動を行っている。そして、イエス様がナザレに帰って来て、人々は、その変化を受け入れることができませんでした。それが、イエス様に対するつまずきになっています。

 

 イエス様は、ナザレの人々の反応に対して、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡を行わなかったとなっています。ここに書かれてあるように、預言者は故郷、家族の間には、尊敬されないとありますように、身近な者への宣教の難しさを自ら語っています。イエス様でも、故郷の人々、家族への宣教は困難なものでした。

 

 今日の聖書の内容の同じ内容が、マルコやルカにも書かれてあります。マルコとマタイは同じような内容ですが、ルカはもっと厳しい内容を書いています。ルカによる福音書41630に、書かれてあります。そのうちで最後の方の内容です。

 

ルカ42830

これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

 イエス様は、故郷ナザレに帰り、安息日、会堂へ入って、聖書の朗読をされます。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始めた時に、ナザレの人々は、つまずくのです。その人々の反応に、イエス様は厳しい言葉を語りました。これを聞いた会堂の中いる人々は皆、憤慨します。総立ちになって、イエス様を町の外に追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。

 

 これは、石打の刑になるのです。神に対して重い罪を犯した者は、これになるのです。ナザレの人々は、イエス様の反応が、自分たちを批判しただけではなく、神のみ名を批判したと受け止めたのです。それで、神を汚したと言うことで、石打の刑にしようとするのです。しかし、イエス様は人々の間を通りぬけて立ち去られました。イエス様の毅然とした態度が出ています。それでも、故郷に帰ったイエス様に対して、人々は、石打の刑と言う厳しい態度にでようとしました。

 

 イエス様は故郷のナザレに帰ると言う聖書の箇所から、イエス様の孤独が見えてきます。神の子イエス・キリストを、当時の人々はすべて、理解していなかったと言うことです。故郷ナザレの人々も、肉親も、そして、弟子たちも、です。イエス様の働きについて、聖書は次のように書いています。

 

フィリピ268

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

 イエス様は、この世において、本当に孤独でした。誰もイエス様のことを理解する者ではいませんでした。この世の最も辛いことは、貧しいことでも、病気でもない、自分は誰からも必要とされていないと感じることだと言いますが、イエス様は、その自分は誰からも必要とされていないと感じていたのです。十字架の死を前にした時に、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。この時に、3人の親しい弟子たちに側にいてもらい、どうか起きていて欲しいと願っています。でも、弟子たちは眠ってしまっていました。イエス様が、本当に辛かった時に、誰も側にはいなかったのです。いや、いながら、いることができませんでした。そして、こう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と。

 

 そして、イエス様は、十実家の上でも「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と大声で叫ばれました。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。イエス様は、その生涯において、どれほど孤独だったのでしょう。どれほど辛かったのでしょう。

 

 それでも、すべてのことをイエス様は引き受けて、その十字架の生涯を歩まれていかれます。それは、私たちを愛してくださるからです。私たちの罪を救い、永遠の命を与え、天の国の住民とするためです。神の一方的な恵みに感謝しましょう。

 

祈り 神よ。イエス様の孤独、苦しみ、悲しみ、辛さを知ることができました。それほどの歩みをされたことを知り、改めて感謝します。このすべての苦しみが、私たちのためであったこと、罪の贖いのためだったこと、天の国への招きであったことを、知ることができました。深く、感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。